見えないトリックアー
写真に撮られるとき、どんな顔をしていいのかわからないとき、馬がこっちに向かってきたり力士を投げている自分を想像すればいい。
僕は取材で写真を撮る側でもあるので「笑顔をお願いします!」ではなく「白鵬をうっちゃっている感じで!」とリクエストすればいいこともわかった。もっと困った顔になりそうな気もするが優しく応じてもらえれば幸いである。
トリックアートと撮った自分は陽気だ。
口と目が大きく開いていて大きなポーズをとっている。
トリックアートもおもしろいんだけど、そこで自分が浮かれている自分もおかしい。
トリックアートからトリックを取り除いてみたらそのおかしさを浮かび上がらせることができるかもしれない。
この写真を見て欲しい。
掛け軸から武将が出てきていて、僕はそれから逃げるふりをしている。今年の夏のできごとだ。
トリックアートはさておき、僕はふだん写真に撮られるとき、こんな表情をしているだろうか。
ならば、まるでそこにトリックアートがあるように振る舞うことで、明るい表情を手に入れることができるのではないだろうか。
さっきのトリックアートをトリックなしで再現してみよう。
トリックアートを体験しているときのように浮かれている。トリックがないにもかかわらず、だ。
おもしろい。ふだんからこうありたいと思う。
トリックアートから、トリックを取り除いてみたいと思う。純粋なアート。そこに残るのは明るい自分であるはずだ。
これはお台場の東京トリックアート迷宮館で撮った写真だ。
さて、トリックなしでやってみよう。
何をしているのかわからないが、明るさは伝わる。わけもなく明るい人である。
僕がただポーズをとっているので、通りかかった人がなにがあるのかと周囲を見回すほどだった。でもなにもない。
なにかあると思わせたならばそれは新しいトリックアートかもしれない。
まわりの忍者に負けない表情を出している。
たまに取材してもらうことがあるのだが、ああいうときにうまく笑顔ができずにはにかんだような顔をしてしまう。これぐらい表情を頑張りたい。
こういうことだろうか?これでインタビューを答えればいいのか。いい気がする。
トリックアートが突然なくなると、夢からさめたような写真になる。つまり現実だ。元から現実だった。
今年の花園神社の見世物小屋でも生首を見た。歌をうたっていた。
あれを見て「おれもやりたい。むしろ鏡なしでやったほうがおもしろいんじゃない?」と思ったのだ。
鏡のトリックなしの生首はただのうんこ座りだった。しかし、冬の夕方のアンニュイさはよく出ている。言われてみればたいていの生首はアンニュイである。
顔ハメは顔を出すだけではない。おどけた顔をするためのものだ。大事なのは穴じゃない、穴を抜けて出てくる顔だ。
顔ハメなしであの顔ができれば表情筋も鍛えられて小顔になるはずだ。
なめ猫の顔ハメがあったが小さかったので手を出した。
しかしなめ猫は猫がヤンキーの格好をしているからかわいいのだが、顔ハメになると猫部分がなくなってただの毛深いヤンキーの顔ハメになっている。
そんな冗談を言いながら撮った。ではこれを顔ハメなしでやってみよう。
なかなか住宅地にフィットした適度な浮かれではないだろうか。許容範囲のひょうきんさがある。
僕が作ったこれも一種のトリックアートというか顔ハメである。ただ大きくなるだけではなくて、みなこの中でひょうきんな顔をするのだ。それもまたこの作品の効能だと思っている。
では箱なしでやってみよう。
このソリッドさ、寿司におけるわさび巻、そろばんを使わないそろばん有段者のような上級者の風格が漂う。子どもの頃、こんな親戚のおじさんいた。その親戚のおじさんの役割はいま僕に回ってきている。輪廻。
トリックなしアートの旅も最後に近づいてきた。これはどうだろう。
この写真には元になるトリックアートがない。ブラックホールのトリックアートを想像してポーズを撮った。無から無が生まれた。
なにをしているのか、という疑念は残る写真である。
写真に撮られるとき、どんな顔をしていいのかわからないとき、馬がこっちに向かってきたり力士を投げている自分を想像すればいい。
僕は取材で写真を撮る側でもあるので「笑顔をお願いします!」ではなく「白鵬をうっちゃっている感じで!」とリクエストすればいいこともわかった。もっと困った顔になりそうな気もするが優しく応じてもらえれば幸いである。
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