特集 2021年11月12日

山奥にある開拓分校が、アナログの音を浴びる「音浴博物館」になるまでのお話

長崎県西海市雪浦町に、「音浴(おんよく)博物館」がある。その名の通り“音を浴びる”博物館だ。

約15万枚以上のSP、LPレコード、昭和の生活用品、年代物スピーカーが並ぶタイムスリップしたかのような空間は圧巻の一言。木々が深く生い茂る山奥に突如姿を表すインパクトも相まって、メディアやSNSを通し徐々に知名度を上げつつある。

今年20周年を迎える本館を訪れ、その成り立ちなどを伺った。

1986年生まれ佐世保在住ライター。おもに地元の文化や歴史、老舗や人物などについての取材撮影執筆、紙媒体のお手伝いなど。演劇するのも観るのも好き。猫とトムヤンクンも好きです。

前の記事:思い入れのある曲で8cm短冊シングルを作ったら愛しかなかった

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長崎県西海市雪浦、電波の届かない場所にて

佐世保市街地から約1時間とちょっと車を走らせ、わたしは西海市大瀬戸町雪浦にいる。地名は「ゆきのうら」と読むのだが、とても詩的な響きが魅力的に感じている。人口1,200人ほどの小さな町だ。

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角力灘を眺める

「音浴博物館」へは何度か訪れたことがあったのでスイスイ到着する予定だったのだが、なんと夏の大雨で道が全面通行止めになってしまっていた。仕方なく別ルートを進むことにしたのだがナビが動いてくれない。

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周囲は綺麗な田んぼです

地図を見ながら、「本当にこの道で正しいのだろうか」を繰り返しつつ車1台分ほどの山道をさらに20分ひた走った。

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20分間も(特に薄暗い)山道を走っていると、なんだか車ごと山に飲み込まれそうな感覚になることがある。「やはり人間は自然には敵わんな」というプチ敗北感を味わう
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服を着たタヌキの看板で化かされ度もアップ

カーナビ代わりにしていたスマホがすっかり圏外になったころ、「音浴博物館」に近づいてきた。

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ガードレールに沿って音符のように並ぶ文字看板

木々の奥に突如、建物の屋根が見えてくる。やはりここでワクワクしてしまうのだ。

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深い山奥に突如現れる

案内看板をもとに少し坂を下ると到着だ。

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外国人向けに「Sound Shower Museum」としてある。そう、音のシャワーを浴びる博物館なのだ

 

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まるで時間が止まっているかのように深い山奥にぽつんと佇むその外観は、懐かしさに加え非日常的だ。

もとは小学校の分校を利用した建物で、館内至るところにその趣が感じられる。もちろんオール木造だ。

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大きい時計があるだけで懐かしい。SEIKOかと思ったらCITIZENだった。館長によると「毎日朝夕の6時過ぎの2度だけ時間が合う不思議な時計」だそう。
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「開拓分校」と書かれている。戦後、開拓地に建設された分校のことらしい(詳しくは後述します)

関係者の方にお話を伺う前に、まずは通い慣れた私から館内をざっくりとご紹介しよう。

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昭和香る生活用品、音響機材

まずはエントランスホール。受付事務所と展示スペースがあり、蓄音機や二眼レフカメラ、ラジオやジュークボックスなどが展示されている。

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ビクター犬ニッパーがお出迎え
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入るなり昭和の洪水だ
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現役で動くジュークボックス。1曲100円
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米国シーバーグ社製(1973年)。ドーナツ盤(7インチ)50枚を内蔵。現在も稼働している

こちらはレコードオートチェンジャー。1948年に米国RCAビクター社が開発したドーナツ盤を自動で10枚まで連続演奏できる。LPレコードにも対応していたら、ガンガン長時間かけられるBGMマシンになっていただろうと思う。

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100年以上前に作られたエジソン蝋菅式蓄音機もある!

館内は、3つの建物の中にエントランスホールを含めた5つのコーナーがある。

 

冒頭でもふれた約15万枚以上のLPレコード・シングルレコードの一部が展示されているLPホール

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LPレコード、シングルレコードあわせて約15万枚以上のコレクションの中から一部を展示公開している
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ゆったりと椅子に腰掛けながら、レコードを自由に聴くことができるのだ
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エルビスプレスリーのレコードは700枚ほどあるそうで、数年前に展覧会も開催していた(のちほど改めてご紹介しますが、写真は館長の中村さん)
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あまりの重量に一度床が抜けてしまったらしい。角材で補強されている

蓄音機の館では、SPレコード約1万枚、手まわし蓄音機60台を展示。昭和30年代のステレオ装置、日本最初のテープレコーダーも展示されている。

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こちらのSPレコードも実際に手に取って蓄音機で聴くことができる。SPレコードは重くて割れやすいので、重ねて置くのがデフォルトだ
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昔はレコード針の素材もさまざまだったようで、ものによって音の響きが違っていた。ちなみにソーン針とはサボテンのトゲ。丸っこくてやわらかい音が出るらしいが摩耗が早い。バラのトゲもあった
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蓄音機も年代別に並べてある

また、大正時代からの楽譜や雑誌も読むことができる。ほかにも、昭和の農機具や、家庭用品・家電などもある。ここだけでばっちり民俗資料館だ。

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NHKから寄贈されたという、日本最初のテープレコーダーG型(1950年)。東京通信工業(現在のSONY)製。重さは40kgあり、当時の価格で16万円。上に置いてある黒いテープレコーダーは大きさ比較用のもの
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ダビングの予備も作れるよ!という名目で作られた三連カセットデッキ
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細かな活字が逆さ文字で並ぶ 和文タイプライター。昭和60年代はこれで運転免許証を作っていたそうだ

 

そしてイベントホール

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音をじゃぶじゃぶ浴びることができる場所だ

オーディオマニアの夢ともいわれる大型のオールホーンシステムをド正面に配置。70~90年代のアメリカ、イギリス製スタジオモニタなどHi-Fiスピーカー8台の聴き比べができる贅沢なお部屋なのだ。

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開館から弁当持参で一日を過ごすヘビーユーザーもいるという
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①デジタル時代のスピーカー「DIATONE」(1985年)。翌年にはCDの売上がレコードを追い越す。②は同社の72年設計。聴き比べのために設置している
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③1960年代のイギリス製「GOODMANS」。④は、腰の据わった安定感のある音が特徴の「JBL」。ジャズマニアが好むとか
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⑤ジャズ好きには「ALTEC」派もいるそう。能率が高く音がバーンと出てくる感じとのこと
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クラシック好きの憧れともいわれるTANNOY(タンノイ)……などなど

せっかくなので、TANNOYスピーカーで何か聴いてみよう。

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スタッフさん曰く、TANNOYで聴くならコレ!とのこと。「西海賛歌(團伊玖磨作曲)」長崎県民なら懐かしいかもしれないが、天気予報のCMでよく流れていた曲だ。あまりに神々しく壮大すぎるので、子ども心にちょっとした恐怖を植え付けられた方もいるかもしれない

部屋中央にあるロッキングチェアが、全身で音楽を楽しむのに絶好の位置なのだそう。 

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10分ちょっとの曲をフルで浴びた。オーケストラを聴いたかのような余韻だった

エントランスホールからイベントホールに通じる廊下はギャラリースペースになっていて、さまざまなテーマでの所蔵品の展示が行われている。

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小学校の分校から難民援護施設へ

これほどの施設が、なぜ日本西端の地で作られたのだろうか。「音浴博物館」のはじまりをダンディなお二人に伺った。

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館長の中村昌彦さん(右)とスタッフの長田さん(左)

冒頭でもふれたように、もともとこちらの建物は小学校の分校だった。校名を「雪浦小学校久良木開拓分校」という。

この一帯の久良木地区は、第二次世界大戦後、中国東北部からの引揚者のために開拓された部落だったそうだ。同校が開校されたのは昭和32年。多いときで47名の児童がいたが、昭和51年に廃校となった。

中村「当時の部落の生活環境は大変だったと思いますよ。13世帯全部に電気が通っていませんでしたからね。片道2時間の暗い道を、小学生が提灯持って通っていた時代でした。中には昭和50年ごろまで電気がなかった家もあったらしいんです。」

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現在この町にかつての生徒は住んでいないが、ときどき音浴博物館を訪ねてくることがあるそうだ

その後昭和55年に、日本赤十字社の「ベトナム難民援護事業」の一環としてベトナム難民救援援護施設となり、学校の両サイドが増築される(現イベントホールと蓄音機の館)。

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昭和55年~平成7年のベトナム難民救援援護施設時代(全く知らず興奮で写真がブレてしまった、すみません……!)
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音浴博物館開館初期のイベントホール。難民救護施設時代は食堂だったらしい
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LPホール。かつて小学校の教室だった場所にはいくつもの仕切りが設けられ、難民たちが次の国へ行くまで暮らしていたそうだ

この事業によって日本には約9万人以上の難民たちが上陸していた。彼らを一時収容するために全国で20箇所設けられた施設の1つとして廃校が活用されることとなったのだ。

そして平成7年、この建物は671名もの難民たちを見送ったあと、事業終了をもってふたたび空き家へ。5年ほど、山奥でひっそりと朽ちていくのを待っていた。

ここでキーパーソンが現れる。「音浴博物館」を開いた人物・栗原榮一朗さんだ。

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空き家はなぜ「音浴博物館」になったのか

岡山県倉敷市で、職業訓練校で溶接の講師をしていた栗原さんは、仕事の傍ら、実にさまざまなものをコレクションしていたそうだ。

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初代館長の栗原榮一朗さん

中村「彼の、仲の良かったお友達、産婦人科の先生が持っていた大きな倉庫に自分の集めたものを置いて。モンゴルに旅行に行ったときなんかも色々なものを買ってきたそうで。パオってあるじゃないですか。テントみたいな。それも買ってきて倉庫に置いて、さらにその中にレコードや蓄音機を置いてたみたいでですね。あとは、プリントなんとか」


山本「プリントゴッコ?」


中村「いや、プリント倶楽部。プリクラですね。その壊れた機械を。とにかく色んなものを雑多に持ってきて置いてたみたいなんですよ」

山本「ひえー」

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ちなみに、プリントゴッコは蓄音機の館にありました。中村さんにとっては、娘さんが生まれた年の年賀状をプリントした思い出があるそうです

中村「それで、その膨大なコレクションのなかにあった、先ほど申し上げたレコード。5万枚ぐらいあったそうで。あと奏でる蓄音機。『音浴博物館』という名前をつけて、岡山でボランティアでやってたんですね。いや、ボランティアというか趣味で。その時から、あちこちに出張して無料で音楽を聴かせるというのをやっていたそうです」

山本「一人で?」

中村「はい。倉庫にいて人を待っているよりも、出向いていくのが良かったようで。片手にレコード、片手に蓄音機を持って。今では……ゲストハウスって言うんですかね。ユースホステルみたいなところに行って音楽を聴かせたりしていたようです。それがもともとのはじまりです」

山本「すごい、紙芝居屋的なフットワーク」

中村「しかし、何かのタイミングで倉庫を返却し立ち退くように言われてしまったわけです。理由ははっきりとしていないんですが。岡山県内で引っ越し先を探したそうなんですが見つからなかった。そこで栗原さんは、インターネットで各都道府県のブログ的なものに書き込んでいったらしいんですよ。『私はこういう者で……』から始まり、『大きな空き家がある町があったら教えてください』って。そのメールをもらった長崎県の職員が、各市町村に転送していった。ここ大瀬戸町では企画財政課が受け取って。ある議員さんに報告をしたんです。」

山本「ほうほう」

中村「その議員さんが、雪浦地区の人たちに号令をかけてくれて栗原さんともやりとりをするようになって。とりあえず一度雪浦に来てみませんか、となりました。バンに何十枚かのSPレコードと手回しの蓄音機を積んで岡山からやってきて。まずは宴会ですね(笑)。そこでもう意気投合して。雪浦の人々も、鉄の針が奏でるSPレコードの生音ってのは聴いたことがなかったから。その音に皆が感動して盛り上がって『やろうやろう!』と。そこで栗原さんは、住む場所も決めずに雪浦に移住しようとしたんですね。」

山本「なんと豪快な!」

中村「宴会の翌日、雪浦地区の空き家を見て回ったそうなんだけども、ちょうどいい広さのものがなくて。そこで、5年間放置されていたここにやってきて、即決したそうです。」

山本「まさかの順番が……」

中村「そうです。雪浦が気に入ったというのが先だったんです。」

 

驚いた。わたしはてっきり、山奥の廃校というロケーションに惚れ込んだためと思っていたけども、なんとも心温まるお話だった。

こうして2000年の暮れ、雪浦の人々や地域に魅力を感じた栗原さんは大切なコレクションとともに岡山からの引越を決意。廃校から難民救援援護施設を経た空き家は、はじめは床もなくコンクリートの壁も破損している箇所があるなど散々な有様だったという。

しかし、職業訓練校講師のDIYスキルを持つ栗原さんは独力で改装を実施。約200名のボランティアがサポートし、翌年2001年5月には10トントラック4台分すべてのコレクションの移設を終えた。

栗原さんは、資金面に苦戦しつつ身を削りながらの自主運営をスタート。家族や地域の人々が支えとなった。建物の本格的な老朽化が課題となり、大瀬戸町が2004年には農水省の「やすらぎ交流拠点事業」の補助金でリニューアル。同事業での運営が決定したが、運営ノウハウがなかった大瀬戸町は栗原さんを中心に設立した「推敲の森実行委員会」へ建物の管理を委託。

地域一丸となって博物館をさらに盛り上げていこうとなったその翌年、栗原さんは57歳の若さでこの世を去ってしまった。

 

中村「栗原さんは、『レコードはモノだが、中身は文化』と思っていたようなんですね。(ゴミ捨て場などで)文化が捨てられているからと、このままでは消えてしまう、と集め始めたらしいです。昔は、電柱の下にドーンと粗大ごみとか置いてる風景があったじゃないですか。レコードも紐で縛って捨ててあったりね。毎週日曜日(粗大ごみの日)はニコニコして車で回収に出掛けていたというのを奥様からお聞きしました」

「文化」というワードにまたもわたしの予想が裏切られる。音浴博物館の所蔵品は、栗原さんが根っからの音楽好きで、熱狂的な愛や嗜好でもって集めていたというわけではなかったのだ。わたしは、消えゆく文化を保管する行為に普遍的な愛を感じずにはいられなかった。

中村「レコードが集まればそれをかける機械も当然必要になりますので彼は蓄音機も集めました。粗大ごみ捨て場での発掘に加えコレクターの人脈を当たって不要なものをもらったりした結果、5万枚+αになっていったわけです。」

そんな栗原さんの文化に引き寄せられ、さまざまな人たちの寄贈品が集って現在の規模にまで発展した。まさに文化が文化を呼んだと言ってもいいのかもしれない。

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消えゆく文化 ~栗原コレクションと託されたもの~

中村館長は、栗原さんの集めた文化(栗原コレクション)に引き寄せられ、その意志を受け継ぐ一人だ。博物館の魅力を伝えるため、これまでの経験を活かした流れるようなガイドがとても面白い。なぜガイドをするのかというと、「黙って蓄音機置いててもお客さんさわれないでしょ」とのことだ。

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1942年に発売された大東亜戦争のプロバガンダレコードを蓄音機で流す中村さん
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「こちらは、レコードの針のコレクションでーす!よーく見て、何か気付きませんか?」とガイドモードの中村さんに軽快に聞かれ、ハテと考えた。世界トップクラスのブランド「ビクター」を真似して作った「ビクトリ」というブランドだそうだ。よく見ると蓄音機に顔を近づけているのは犬ではなく猫。中村さんは「太ぇ日本人がいたもんですよ」と言っていた。針も太いのだろうか

お話を聞いた中で特に印象深かったものを挙げる。こちらはエントランスホールにあるラジオ。昭和16年まで下関にあった英国領事館で使われていたアメリカ製のラジオだ。

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なんとまだ動く!しかし、山奥ゆえ電波が入らないのだ

領事館が撤退する際に、小倉市の方が買い取った。それを家族三代にわたって大切にしていたが、保管場所がなくなりぜひここに、と寄贈となったらしい。

その後、当時のイギリス領事のひ孫だという人物が音浴博物館を訪ねてきたそうだ。「ひょっとしたら、このラジオを曾祖父も聞いていたかもしれない」と話していたという。

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佐世保のスナックにあったジュークボックス。こちらは動かなくなっている

また、音浴博物館には中村さんの思い出の品も眠っている。

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中村さんの父親が使用していたタイプライター。「そういえば父は、ワープロもたくさん持っていたんですよ」と話してくれた。
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1980年代の携帯ビデオカメラたち。この中の1つは、幼い娘さんを撮影していたものもあった

そんな品々を見つめる中村さんの目には、他の展示品を見ているのとは違うぬくもりが宿っていたのを感じた。

ガイドの語りがあまりに詳しくて分かりやすくて上手なので、「なんでそんなに色々知ってるんですか」と思わず聞いてしまった。すると「そりゃ館長だからですよ。今でもちゃんと勉強もしてるんですよ」と笑ってくれた。

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リモコン式の扇風機。動作確認をしてみたところ実際に動いたので中村さんは「ええー動いた!」と驚いていた。古いけど未知のものもいっぱいあるんだな

博物館にはボランティアスタッフの方も多くかかわっている。この日はたまたま、機材のメンテナンスも担当している近藤さんとお会いすることができた。

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医療用精密機器修理の仕事に就いていたことがある。スピーカーなどのメンテナンス担当。ちなみに、スピーカー聴き比べには千昌夫の「北国の春」がおすすめとのこと。美しいテナーボイスがとても聴きやすいからだそうだ
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自宅にある、自作した真空管アンプの写真を見せてくれた。しっかりめのガチ勢

中村さん、長田さんのお話のとおり、たくさんの人の手でしっかり支えられている施設なのだと感じる。

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懐かしさと新しさが混ざる場所

近年、九州をはじめとしたさまざまなメディアで話題になっている「音浴博物館」。その影響か、20代の若い世代の来館客も増えたという。

中村「はっぴいえんどとか山下達郎とか聴きに来る方は多いですよ。興味深いのは、やはりこの博物館が、私たちにとっては懐かしくて彼らにとっては新しいところ。一体若い人たちの心の中でどんな感動が渦巻いているんだろう、と気にはなりますね」

「音楽で鳥肌立つくらい感動したことありますか?」と尋ねると、「中学生の頃、友人宅で『サイモンとガーファンクル』のレコードを初めて聴いたとき」と返してくれた。

あくまでわたしの推測だが、やっぱり、人生の先輩だから「オレたちが感じたこの衝撃には敵わんだろう若者よ」とちょーっぴり、心の隅っこで思ってしまうこともあるのではなかろうか。そんなおじさんたちのむずがゆい感情が行き交うのもこの空間の魅力の1つかもしれない。

「ここをただの倉庫にしてはいけない。こちらからもどんどん働きかけて、レコードや音楽の魅力をさまざまな角度からPRしていかないと。」と、スタッフ長田さんは意気込む。栗原さんの意志を絶やさず地域とのつながりを保つことを目標に、現在もさまざまなイベントや展覧会へと出張してはこだわりのナンバーを聴かせている。

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今回は冬のおすすめを聴かせていただきました

 

ふと、時計の秒針の音が大きくなった気がして文字盤を見るともう閉館近くなっていた。あたりも暗い。そろそろ帰ろう。中村さんや長田さんにお礼を伝え、祖父母宅から帰るときのような一抹の寂しさを覚えつつ音浴博物館をあとにした。

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20年前からエントランスホールの時間を刻んできた壁時計。夕方になると山は一気に冷え込み、澄んだ空気に鐘の音がいっそう大きく響いた気がする

 

山奥に響く文化の音色

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すっかり日が暮れてしまった

 

雪浦に惚れ込んだ男性が、レコードと蓄音機片手にやってきたことがきっかけで誕生した「音浴博物館」。改めて話を伺うと、たくさんの物と事と人が交わっているのがわかった。シンプルすぎる生活に疲れたら、また山奥にある懐かしくて混沌とした世界に励ましてもらいに行こうと思う。

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夜の帰り道、ナビがおかしくなってしまい怖かったのでアンパンマンの歌を大声で歌いながら帰りました

 

★イベントがあります★

音浴博物館レコードコンサート「音楽の森 シャンソン特集」
2021年11月14日(日)14:00~

音浴博物館がNHKのFMラジオドラマに登場します!
NHK FMシアター『口ずさんでシャンソン』
2021年11月20日(土)22:00~

詳細は音浴博物館Facebook公式アカウントにて。

取材協力:音浴博物館

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