これからの無の話をしよう
勉強不足か、このような食べ物を私はかつて見たことがなかった。
ざっと検索しても、たくさんはヒットしなかったから、一般的な食品ではなさそうだ。
サイズとしては太巻きである。ご飯は酢飯を使っているというから、 太巻き寿司の一種であることには違いない。
太巻き寿司の具にたまご焼きは欠かせない。
しかしここまで潔く、具をたまご焼きだけにする、その発想はちょっと無かった。
無印良品的に言うと
「太巻き寿司から、椎茸、かんぴょう、きゅうりを抜いて、たまご焼きだけにしました」
というのがこの商品だと思う。
虚無の手前にこれからの無を予感させる状態があるとしたら、まさにこれだ。
新しい「たまご巻き」というものである
もちろん上記のコピーは私の妄想だ。実際にはちゃんとすばらしいコピーがついている。
「やわらかい甘さのだし巻きたまごを、有明海産の海苔で巻きました。手軽に食べられるようあらかじめカットしました」
従来の太巻き寿司にいっさいとらわれない姿勢、なるほど、こういう新発生したものだとして食べるのが正しい姿勢なのだろう。
太巻き寿司のことを考えながら食べると、何か足りないように感じてしまう。まっさらな気持ちで食べるべきなのだ。
海苔はしっとりやわらかでかみ切りやすく、あえてパンチを押さえたやさしい味のたまごと、こちらもやさしめの味つけの酢飯がばっちり合った。これでちゃんと正解ではあるのだ。こういうものなのだ、この海苔巻きは。
ところで、パッケージには上下を返してレンジアップのあと15分ほどおいて味をと温度を なじませるとあり、確かに15分後にしっかり食べごろになった。
レンジ使いの技が細かいことに、レンジに人間が寄り添い共存する姿勢を感じる。
たまごのお寿司の別の生き方
うまいうまいと食べ進めながら途中で「ああっ!」と声が出た。
この「たまご巻き」、たまごの握り寿司と要素はまったく同じではないか。
たまごの寿司を、アナグラムのように組み合わせると……「たまご巻き」になる……!?
そう考えると、事態は虚無の手前であるとの読み解きとはまったく異なってくる。
例えば、ここにたまご焼きと海苔と酢飯が2セットあるとしよう。
1セットは、「おれは寿司屋に行く」と行って出て行った。そうして立派にたまごの寿司として職人の手からお客の前に姿を現した。
残されたもう1セットは考える。
お寿司屋は敷居が高い。
もっとより良い暮らしと社会の実現に貢献できないか。人、物、食を包括的にとらえながら、文化的人間社会に対し持続可能でありたい。
そうだ、無印良品に、私は行こう。
こうして生まれたのが、「たまご巻き」である(※妄想です)。
妄想ではあるが、どう生きるかを精査することにより、形はこうも変わるのだ。
「たまご巻き」、それは人生そのものだったのだ。