アジャリア『自治』共和国
「アジャリアは、通貨も言語もジョージアと同じです」と、政府職員が私に応えた。
「それって、ほんとうに国と言えるんですか?」
すこし意地悪な質問をぶつけてみると、
「まあ、だから『自治』共和国と名乗っているのです」
どこか飄然とした回答なのであった。
はじめて訪れる土地の危険度を見極めたいとき、私が観察するポイントがいくつかある。
それはたとえば、
(1)住宅地の窓ガラスが割れていないか
(2)歩行者のふるまいに警戒心はあるか
(3)憎しみのこめられた落書きはあるか
といったものだ。
そうした観点からすると、アジャリアは、
(1)古びた廃墟はあるけれど、現役の家は清掃がゆきとどいている。鉄格子の類も見かけない。
(2)人びとの顔つきは弛緩している。道ばたでいかにもヒマそうな子どもたちが私の周りに集まってくる。
(3)ジョージア文字が読めないのであまりわからないが、落書きから憎悪の気配は感じられない。
といった按配の評価となる。なかなかに平和な場所なのであった。
思い返してみれば、ジョージアからアジャリアに「入国」するとき、検問所みたいなものは一切なかった。というか、パスポートの提示すら必要なかった。
「それで国と言えるのか?」という、冒頭に記した私の素朴な(いくぶん無礼な)質問は、そうした文脈から発せられたものだった。
ここはアジャリア『自治』共和国。どの国からも認められていない国。
私は、独立を宣言する前のコソボ『自治』州のことを、連想せずにはいられなかった。
旧ソ連とアジアの混ざりあい
それでは、ジョージアとアジャリアは同じなのか。
「そうでもないな」というのが、私の忌憚なき実感だった。
たとえば、ジョージア本土がほぼキリスト教圏であるのに対して、アジャリアではイスラム教のモスクをぽつぽつと見かける。
ハラル・フードのお店もあるし、なぜかタイマッサージ屋も乱立している。旧ソ連様式の建築群に、アジアの文化が混ざっているのだ。
アジャリアの歴史は、ローマ帝国やオスマン帝国などに次々に支配された(主にキリスト教 vs. イスラム教のバトルフィールドとしての)歴史だった。
シビアな歴史ではあるのだが、それで異文化の交流が促された面もあったようだ。
ジョージア文字の由来に関するいくつかの考察
アジアとの親和性といえば、ジョージア文字は、どことなく東南アジアの文字に似ている気がする。
それを確かめるため、私は、バトゥミの夜の街を怪しく照らすタイマッサージ店に入った。奥さんには「これは調査研究のために仕方のないことなんだ」と説明した。
一連のサービスを堪能したあと、私はご婦人たちに訊ねてみた。
「ぜんぜん似てないわよ」と、簡潔な回答があった。
「でもあの『くねくねくねっ』という感じ、あれ、似てませんかね?」
なおも食い下がったが、私の『くねくねくねっ』の言い方がご婦人たちの哄笑を誘うばかりで、まるでけじめがつかないのであった。
しかし、私はあきらめの悪い人間であった。
タイ語はともかく、シンハラ語には似ているのではないだろうか。
試みに、ジョージアのお茶と、スリランカで買ったセイロン・ティーを並べてみると、
似ているような、似ていないような、アンビギュアスな、よくわからない感情に包まれた。
こういうときは、博学の知人に頼るのがいちばんだ。
そこで私は、日本国外務省における数少ないシンハラ語のエキスパート・岩瀬喜一郎さんから話を伺った。
Satoru: ジョージア文字とシンハラ文字。私には似ているように思えますが・・・いかがでしょうか?
岩瀬: 円形を多用したフォルムは、たしかに類似性を感じさせますね。でも発音は違います。たとえばジョージア文字の「ო」は、シンハラ語で[f]の発音をする字と見た目がまったく同じですが、じっさいの発音は[o]ですから。
Satoru: すると、やはり言語のルーツ自体が異なるということですか?
岩瀬: そうだと思います。ジョージア語は「コーカサス諸語南コーカサス語族」に属しますが、これはシンハラ語の「インド・ヨーロッパ語族」とは異なる言語系統なので、言語的には関係性がありません。ジョージア語の音声も聞きましたが、正直、シンハラ語とは似ても似つかない印象ですね。
Satoru: そうですか。
岩瀬: そもそもジョージア文字は、イエス・キリストが話したとされるアラム語のアラム文字の系列で、シンハラ文字やタミル文字、さらにはインドのデーヴァナーガリー文字の基になっているブラーフミー文字もアラム文字系ですので、この文脈においては、ジョージア文字もシンハラ文字もルーツを同じくします。
Satoru: はい。
岩瀬: もっとも、アラム文字系列にはブラーフミー文字系以外の系列としてアラビア文字やモンゴル文字、ヘブライ文字もあるので、これだけでは近いと言えるかどうかは分かりません。ちなみに、表音文字の中でアラム文字系列でないのは、ギリシャ文字やローマ字、キリル文字、エチオピア文字などです。
Satoru: はい。
岩瀬: 私としては、ジョージア文字は、よりミャンマー文字に近いと感じますね。ミャンマー文字は、南インド系なので、おおざっぱに申し上げて「丸っこい南インド系のシンハラ文字に似ている」と言えるのではないでしょうか。
Satoru: はい。
岩瀬: では、ミャンマーに、なぜ丸っこい南インド系の文字が入ってきたのか。ミャンマーやタイの沿海地域の原住民であるモン族は、7~8世紀にドヴァーラヴァティー、13~16世紀にペグー朝という国を作った民族ですが、彼らの言語は言語学的には南アジア(オーストロアジア)語族のモン・クメール語派で、早くからインド系文化を受容して周辺に影響を与えたことで知られています。
Satoru: はい。
岩瀬: ちなみに現在のインドには、オーストロアジア語族は東部に少数が残るのみで、北のインド・ヨーロッパ語族、南のドラヴィダ語族でほぼ占められます。ミャンマー文字は、モン族が南インドのパーリ語系のグランタ文字を導入したもので、それが変形して現在の形になりました。モン族の文字は碑文としては7世紀のものが残っています。
Satoru: はい。
岩瀬: 当時の文字は、ヤシ(シュロ)の葉に鉄の棒で書くことが多いので、丸い文字である必要がありました。なぜなら、まっすぐな文字だと、葉っぱが切れてしまうためです。だからシンハラ文字の基になった南インドの文字は丸く、それを導入したミャンマー文字も丸いのです。
Satoru: はい。
岩瀬: ちなみに、ドヴァーラヴァティーの都タトン、のちのペグーは、スリランカ(当時のセイロン)と強い結びつきを持って、小乗仏教拡大の起点となりました。
Satoru: はい。
岩瀬: 結論としては、ジョージア文字もシンハラ文字もアラム文字系という同根ではあります。じっさい、丸い文字も似通っています。でも、シンハラ文字やミャンマー文字の丸さがその筆記方法に由来するに対して、9~13世紀に定着したジョージア文字が丸っこい理由は不明です。南アジアの文字が現在のミャンマーに伝わったと考えられる7世紀前後を含め、歴史上、南アジアとコーカサスの間には強大なイスラム帝国があったので、文字が直接伝わったとは考えにくいものがあります。
Satoru: なるほど。
岩瀬: これは偶然なのか、それとも交易路を伝わって・・・5~6世紀に中央アジアで活躍し、インドにもその領域を広げた遊牧騎馬民族エフタルを介して伝わったのか・・・? あるいは、そもそも丸文字という概念自体が、コーカサスから入ったものだったのか・・・? これはもう、想像の世界であります。
Satoru: 貴重なご意見、ありがとうございました。
貴重な意見をいただいて、私は想像の世界に浮遊した。
もうひとつの自治共和国
ジョージアには、アジャリアのほかにも自治共和国がある。
ロシアとジョージアに挟まれたアブハジア自治共和国だ。
アブハジアは、2008年に勃発したロシア・グルジア戦争の主戦場となった。
戦争の結果、アブハジアは独立を宣言。『自治共和国』から『共和国』へと名称が変わり、ロシアやベネズエラなどがそれを承認している。
先住していたジョージア人たちは、国を追われて難民となった。その多くは、コーカサス山脈の麓にあるツカルトゥボという町(スターリンの愛した温泉施設があることで知られている)の廃墟などに住み着いているという。
そうした背景を持つ地域なので、日本国外務省はアブハジアに渡航中止勧告を発している。「どのような目的でも同地域への渡航は止めてください」とのことである。
私は、周囲の注意に耳を傾け、危ない橋を渡らず、落ち着いた環境に身を置くことに喜びを感じる人間である。常より遵法精神が服を着ているような人間である。
渡航中止勧告が出ているのだから、それに従うべきなのは当然だ。渡航するのはあきらめた。断念した。やめにした。
けれども、これはまったくの偶然なのだが、わけあって国籍を明かすことのできない友人が、たまたま、ちょうど、私のジョージア旅行とほぼ同じタイミングで、このアブハジアに、どうやら渡航したらしいのである。
私は、「それはとても無謀なことだ」「どのような目的でも同地域への渡航は止めるべきだ」と眉をひそめた。
だが、アブハジアの内情を知りたい気持ちが私のなかに芽生えていたのも、隠しきれない事実ではあった。
本稿の末尾として、アブハジアの写真をいくつか、読者諸賢に紹介したい。
私が撮影したものではないアブハジアの写真を。
アメリカとイランをめぐるセンシティブな余談
アジャリアの首都バトゥミにはロープウェイがあって、ここを訪れた観光客たちに定番のスポットである。
我々が訪問したのはオフシーズンの10月末だったので、並ばずに乗ることができた。
数少ない同乗者は、2組の老夫婦だった。
なんとなしに国籍を尋ねてみると、片方の夫婦はアラスカ出身であるという。こういうときに「州」の名前を答えるのが、いかにも典型的なアメリカ人だ。
もう片方は、イスファハーン出身のイラン人だった。「イスファハーンは素敵なところでした」と褒めると、好々爺は目を細めた。「あそこの空港でフライトキャンセルに喘ぎました」と続けると、好々爺はかなしそうな顔になった。余計なことを言ってしまった。
アメリカ人の老夫婦と、イラン人の老夫婦。
認識がつながった瞬間、私の内部に警告が発せられた。
アメリカとイランは、昨今の国際情勢において、世界でもっとも深刻な緊張関係にある二国と言える。
いま、ロープウェイという狭く閉ざされた空間で、その両者がここに対峙している。
いささか危険な状況ではあるまいか。
有事を想定するべきではあるまいか。
けれども、それは私の杞憂であった。
アジャリアにまで旅行をするような老夫婦たちは、さすがに風通しのよい精神を持っていた。国家は国家、個人は個人として、柔らかな握手のできる人物だった。
ロープウェイが山頂に着こうとするときに、アラスカのご婦人が、ゆっくりとした口調で語りはじめた。
「憎しみには、人を結びつける性質がある。集団のなかで、ひとりでに増幅してゆく性質がある。これに抗うのは難しい。個人の力はあまりにも小さい。
しかし、わたしに抗えることもある。それは、自分の家から遠く離れた場所に行き、自分と異なる人に会うことだ。そうして自分の価値観を押し広げることだ。
アメリカのパスポートを持ったわたしは、イランに入国することが難しい。でもこうしてバトゥミに来て、あなたと話をする機会を偶然に得た。
歳をとると、人生には悲しいことしか起こらない。でも旅をしていると、それが少しだけ覆る。ごくたまに善きことが起こる。それはたとえば、このロープウェイで、イラン人のあなたに会えたことだ」
憎しみの増幅に抗うために旅をする。その発想は、これまでの私にないものだった。私はご婦人の語りにひきこまれた。
「ロシア人とジョージア人の間にも、こうした展開は起こり得るのだろうか」と、私は思った。
そして、「旅をすることすら許されない境遇にある人たち、たとえば、アブハジアを追われてツカルトゥボの廃墟に暮らす難民たちには、どのような救いがあるのだろうか」とも、私は思った。
私はいろいろなことを思うのだ。