出発は蒲田西口
今回歩く街は、大田区の蒲田だ。ここを選んだのには理由があって、じつは僕は1年前までこの近くに住んでいた。1年ぶりに来た町は、思い出というほど遠い記憶ではないけれども、なんだかちょっとした懐かしさを感じる。そんなちょっとだけ懐かしい町を、矢印の案内でぐるっとめぐることができたら楽しいんじゃないか、とそう思ったのだ。
駅をの西口を出て、まずは毎日通勤のときに通り過ぎていた西口の商店街へ向かう。矢印たどり、スタートだ。
第1矢印発見
商店街に入らないうちに、さっそく最初の矢印の登場だ。矢印のほうへ方向転換する…と。あ、矢印の先にも反対向きの矢印がある。いきなり無限ループ。冒頭からとんだトラップだ。矢印に従うと、このまま2つの矢印の上を延々往復し続けなければいけないことになる。バターになる!
バターになる体験はそれはそれで興味深いものの、今回はそういう趣旨ではないのでここは割り切って、後のほうの矢印に従うことにしよう。あれ、いきなり商店街からそれてしまった。久しぶりに商店街の中、見たかったんだけどなあ。
駅前のごちゃごちゃしたところは矢印もごちゃごちゃしている。車用、人間用の矢印がそれぞれ思い思いの方向を向いていて、複雑な矢印網を作り出していた。
街中にある矢印の2大勢力は、①一方通行の標識、②電柱についた広告だ。電柱の広告は近くに同じ広告がたくさんあって、矢印に沿っていけば目的地まで誘導してくれることが多い。しかし今回は途中で別の矢印が紛れ込んできて、進路を横取りされてしまう。これは矢印を使った客の取り合いだ。普段は気づかないところで、矢印たちの熾烈な戦いが行われているのだ。
飲食店の匂いに惹かれるものの
矢印に操られて駅前をクネクネしているうちに、工学院通りという通りに出た。このあたりは学生さんが多く、安い食堂がひしめき合っているところだ。時刻は午後1時半。そういえばお昼を食べていない。おなかがすいているのだが、このあたりで矢印がおいしいお店に誘導してくれないだろうか。どうせなら住んでいるときによく食べた店がいいなあ。久しぶりに蒲田の食を満喫したい。
しかし、矢印はなかなかそれを許してくれなかった。店の前には看板と一緒に「ココ→」なんて矢印が書かれているだろうと思ったのだが、意外とそういうものはないのだ。そうだよな、言われなくても店の前に看板が出てたらここだってわかるもん。いや理屈はわかるんだけどさ。グー。
そうこうしているうちに工学院通りからはそれてしまい、食堂のなさそうな脇道に入っていく。しばらくすると、一度も来たことのない路地に入り込んでいた。
耳鼻科に着いてしまった
矢印のいいなりで行き着いたところは、知らない耳鼻科だった。懐かしくもないし、おいしい食べ物もない。そしてのどの調子も別に悪くない。そして矢印はここで途切れた。
ひとまずの終着地点にたどり着いたわけだが、うーん、これはなんとも消化不良というか、僕の期待は完全に裏切られた形だ。ここで終わるのはなんかしゃくだ。少し戻ってやり直そう。最後の「ここ→」の矢印を無視して、元の路地を進んでいくことにした。
耳鼻科の吸引力
行動を見透かされたかのように、逃げ道はしっかりふさがれていた。路地の先にはUターンの矢印。そして先ほどの電柱の裏にたどり着き、「←ここ」の文字。どうやらこの路地に入ってしまうと、二度と抜け出せないようになっているようなのだ。言ってみれば矢印の墓場。バミューダ・トライアングル!
仕方がないのでさらに道を戻って、分かれ道を違う方向に向かって再開する。3度目の正直だ。
矢印のいろんな思惑に翻弄されつつも、だんだん以前住んでいたところに近づいてきた。もう少し先に、家の近くでよく食べに行っていたカレー屋があるはず。久しぶりにあそこのレッドカレー食べたいな。たしか、カレー屋の看板には「ココ→」って矢印が書いてあった気がする。あとは店の前までたどり着くことができれば。
知らない食堂に入らされる
と思っていた矢先、目の前に食堂らしき看板が躍り出た。「食べ処 錦→」って書いてある。知らない食堂だ。おなかがすいているとはいえ、気分はすっかりカレー。あのおいしいレッドカレー。久しぶりにカレー屋の店長の顔も見てみたかった。でも、矢印はここに入れと言っている。しぶしぶ、お昼はここで済ますことにするか…。
店に入ってメニューを見ると定食が15個くらい並んでいて、そのなかに店の名前を冠した「錦定食」というのがあった。聞いてみると、野菜炒めの定食だそうだ。野菜炒めってこれまた地味だな。まあでもせっかくなので注文した。
野菜炒めがうまい
うまい。すげえうまい。揚げナスとフライドポテトが入っていて、特製の「錦ソース」を使っているそうだ。今まで食べた野菜炒めの中でいちばんうまい。おいしい、おいしいと脇目もふらず食べていると、店のおばちゃんが「私たちもいただこうかしら」と言って、店員一同が僕の隣のテーブルに着席。カウンター席の照明も落としてしまった。
「今日は商店街撮ってきたの?」などいろいろ話しかけられたが、「ちょっと矢印のいいなりに…」なんて説明するのが面倒で、適当にウソをついてしまった。おばちゃんごめん。でもおいしかった。
腹ごしらえもすんだところで、引き続き矢印をたどります。
ちょっとだけ商店街に合流してからまた道はそれ、そのうちになんだか見覚えのある、スーパーホテルの看板が見えてきた。そこを一方通行の標識の矢印に従って曲がり、しばらく歩くと、電柱に一枚の広告が貼られている。このUターンのマーク、ついさっき見たような、気が、す、る!
すべての矢印は佐藤耳鼻咽喉科に通ず
結局ぐるっと回った末、最終的にはさっきの耳鼻科についてしまった。
なんだか腑に落ちなくて、このあともう1回やった。駅から東急の線路をはさんで反対側からスタートしてみたのだ。そちらはかなり大回りのコースとなったものの、結果は同じ。最後にはあの耳鼻科に行き着いてしまった。
「すべての道はローマに通ず」というのは、17世紀にフランスの詩人が言った言葉だそうだ。当時、土木技術に優れた古代ローマの交通網は非常に発達しており、その繁栄をたたえる言葉だった、と言われている。
ひるがえって現代、緻密に張り巡らされた矢印網は、現代人の地理感覚を支え、同時に交通整理も行っている。その繁栄の頂点に立つのが佐藤耳鼻咽喉科である…ということはなくて、やっぱり単なる偶然だろう。ただ、何気なく生活している街の中にこういう「見えない行き止まり」みたいなものが潜んでいるのだと思うと、なんだか面白い。