真鶴、いいところですよ
小さい頃、真鶴には親に車で何度か連れてきてもらったことがある。
海の生き物が好きだったので、磯でカニをとってきて、ひと夏飼っていたのだ。
無事脱皮を済ませたカニを夏の終わりに同じ海へ返しに来たことや、渋滞につかまって急遽空いている民宿に一泊したことなどが楽しい思い出として残っている。
子供心に、ちょっとしたスリルがあったからだろう。
だから、こうして真鶴を記事にできたことは、個人的には非常に感慨深いのである。
人は誰しもインディ・ジョーンズである。
心の奥にあるアドベンチャー欲を押し殺しながら、日々生活している。
今回、そんな冒険心をほどよく満たせる場所を見つけたので紹介したい。
東京から日帰りできる神奈川県真鶴町に、波しぶきを浴びる江戸時代の採石場があるのだ。
岩肌をつたいながら、ダイナミックかつ歴史ある景観が楽しめる場所である。
かなり大掛かりな採石をしたのだろう。
では、ここで切り出された石はどこで使われたのか?
江戸城とは現在の皇居を中心とする、全国の大名を動員して作られた日本最大の城郭である。
真鶴岬の突端から始まり、なかなかスケールの大きな話になりそうだ。
本当に波打ち際すぐのところにある。海が荒れている時なら波にさらわれてしまう。
しかもここは江戸城から100kmも離れているのだ。何故あえてこんな場所が選ばれたのか。
アドベンチャー気分を味わいつつ、そんな石工たちの命がけの物語にもせまりたい。
ところで真鶴ってどこにあるかご存知でしょうか。
知らない人の方が多いかもしれない。
東京駅から真鶴駅まで、新幹線を使うと小田原乗り換えで約1時間。在来線でも1時間40分ほど。日帰りするに十分な場所である。
大昔、箱根火山の噴火によってできた鶴のような半島は、山あり谷あり海ありの自然豊かなジオパークとなっている。
雰囲気の良い漁港、地魚料理、磯遊び、風光明媚な景勝地など、見どころの多い場所だ。
それにしてはと言うべきか、箱根や熱海、小田原などのメジャー観光地に囲まれて、ハイシーズンでもあまり混まない。
それが何よりの魅力である。
なにせ、インディ・ジョーンズ気分で行きたいのだ。
番場浦磯丁場遺跡は、これらをちょうどよく満たせる。
まず、2022年8月現在Googleのレビューが8件しかない。超入りにくい玄人向け町中華レベルなのだ。
また、虫といえば2作目『魔宮の伝説』のトラウマ描写が有名だけど、真鶴も海辺の磯らしく圧倒的な数のフナムシたちに遭遇することができる。
フナムシ好きにもおすすめなスポットだ(彼らは人見知りだから近づくと一目散に逃げていくが)。
ちなみに、映画で一番大事な「わかりやすい悪役」は今回登場しない。現実にはなかなかいないものだから。
さて、ここからは現地を目指してみよう。
駅から真鶴岬までは4km弱。
この冒険心を満たすにちょうどよい距離感と景観を味わって欲しいので、すこし手前から進みたい。
爽やかな海風が吹きぬける。
来るたびに、何故こんなに空いているんだろう…と思う景色だ。
めちゃくちゃ綺麗じゃないですか。
大抵の人はここで満足して日帰りするのだけど、ここからが本題なのだ。
駅からここまで歩きで1時間強。結構疲れるけど、たどり着いた感を味わえるのがよい(なお、番場浦へ三ッ石海岸を経由せず直接下りるルートもある)。
2回目の訪問時は電動自転車を借りたらわりと一瞬でついた。
観光地になるには正直ちょっと荒々しすぎるので、GoogleMapのレビューの件数も納得である。今回は軽装で行ったが、足元だけはグリップ力のあるアウトドアシューズを強くおすすめする。
この自然と人工のバランスが絶妙で、なんだかゾクゾクしてくる。
ちなみに、このような江戸時代の採石場を石丁場(いしちょうば)と呼び、中でも海沿いに作られたものを磯丁場と呼ぶのだ。そして現在は採石されていない遺跡なので、全部合わせて「番場浦磯丁場遺跡」。
たしかに石垣の間知石(けんちいし/ブロック状に積み上げられる石)らしくみえる。
これ、写真でみるより大きいのだ。澱んだ水だまりの奥で蟹がうごめいている。
ああ、アドベンチャー…。
今回のキーワードであるほどよいインディ・ジョーンズ感を感じてもらえているだろうか。
波打ち際の高さが元々だとすると、相当量削ったんじゃないか。それを想像するとゾクッとする光景だ。
数百年前、ここで石を切り出した石工たちがいるのだ。はたしてどうやって切り出したのだろうか。
それは危険をともなう相当な重労働だったに違いない。
ここで歴史の話をしよう。
関ヶ原の戦いで天下をとった徳川家康が江戸城の拡張計画を発表したのが1604年。
俗に天下普請と呼ばれる国家レベルの大プロジェクトだ。
まず西国の28家の大名(ほとんどが幕府と敵対していた外様大名)に対し、伊豆半島から巨大な石材を運ぶための石船の建造を命じた。その数は全部で3000艘。
大名たちに課されたノルマは、その石船をつかって「百人持の石」(持つのに100人必要な巨石)を総計59360個運ぶことだった。
彼らはまたたく間に70あまりの石丁場を設けて、3000艘の石船が月に二度伊豆→江戸を往復したそうだ。
大坂夏の陣・冬の陣をはさんで1618年からは伊達家など東国大名も動員される。1636年、江戸城はついに全体としての完成をみるも、それ以降、被災と修復を繰返すことになる。
その都度、大量の石が伊豆半島から運ばれたようだ。
内容は、真鶴の石が古くは鎌倉幕府の建設に使われたことや、福岡藩主であった黒田長政が江戸時代に石丁場を開いたことなどが記念されている。
つまり、番場浦磯丁場もそんな全国規模の巨大プロジェクトによって作られた採石場のひとつなのだ。黒田・鍋島の後には徳川御三家が石丁場を開いたといわれている。
こんな場所に作られた理由も当時の事情を知ると納得がいく。
一般的な石丁場は岩の多い山側に作られるものだが、結局は船のある浜にまで運んでこないといけない。
それは非常に危険をともなう作業だったようだ。
ならば、どう考えても波打ち際で採石する方が効率的だ。
自分ももし配属されるなら、磯丁場がいいな…と思った。
とはいえ、当時は現場猫もいなかったし、雨風の強い日はお休み的なホワイトな価値観もなかったろうから、どちらにしろ命がけである。
先ほど述べた3000艘の船のうち、鍋島家や黒田家など200艘あまりが1611年5月の暴風雨で沈没したという記録も残っているくらいだ。
この場所は血と汗と祈りの空間であるのかもしれない。
石浜から離れるにつれ、船をとめることが難しくなったからじゃないだろうか。
こういう、自然と人間の営みのコントラストが、たいへん心に残ったのである。
この展示の石垣は、石の工具跡がよくわかるように再現されているのだ。
ゲンノウと呼ばれる金槌とノミで石に穴を開け、そこに鉄製の矢を一列に打ち込むと、石が裂けるそうだ。木製のものを使い、水で膨張させることで割る方法もあるという。
これらの跡が残っているということは、頑張って石を打ったけど使われなかったということだ。
石工の気持ちになってみるとけっこう辛くないか、これ。
江戸城の石垣に使われた石は百万個以上と言われている。
それゆえ、伊豆から西相模にかけて、おびただしい数の石丁場があるらしい。
真鶴だけでも、最盛期は百に及ぶ石丁場がつくられたという。
また、幕府側の史料には大名がどこの石丁場を利用したかの記録が残っていないため、まだ謎が多いようだ。
江戸城に使われた石は伊豆石と呼ばれ、なんとなく静岡のイメージがある。
だが、実際に地質学的に石の産地を調査すると、伊豆半島の中でも3種類の石質に分類でき、なかでも真鶴半島産が9割以上という推計もあるようだ。
すごいじゃん、真鶴。
江戸城の石垣は江戸時代を通して何度も修復されている。さまざまな時代のものが混在しているのだ。
それゆえ、番場浦の石材がいつ切り出されたものかは、今現在まだ謎なのだそうだ。
さらに、これだけ江戸城に思いを馳せておいて申し訳ないのだが、真鶴半島の安山岩はその後、品川の台場の建設や、明治に入って横浜のドライドッグ(みなとみらいにある造船所の跡)にも使われているそうだ。
だから、番場浦の今の景観が江戸城のために出来たものかは、観光レベルではそう言い切っちゃいそうだけど、専門書レベルでは言い切れない、という感じのようである。
まあ、謎がのこることもアドベンチャー気分には必要なものだ。
小さい頃、真鶴には親に車で何度か連れてきてもらったことがある。
海の生き物が好きだったので、磯でカニをとってきて、ひと夏飼っていたのだ。
無事脱皮を済ませたカニを夏の終わりに同じ海へ返しに来たことや、渋滞につかまって急遽空いている民宿に一泊したことなどが楽しい思い出として残っている。
子供心に、ちょっとしたスリルがあったからだろう。
だから、こうして真鶴を記事にできたことは、個人的には非常に感慨深いのである。
参考文献:野中 和夫(編)『ものが語る歴史シリーズ 石垣が語る江戸城』同成社、2007年
江戸遺跡研究会(編)『江戸築城と伊豆石』吉川弘文館、2015年
鈴木 啓 (著)『図説 江戸城の石垣 』歴史春秋出版、2019年
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