自宅でやればなおいい!
これで抹茶を作り、お茶会を開くという、大人の階段を上がれた気がする。見た目の問題はあるけれど、頑張った方だと自分では思いたい。釜は本物だしね。抹茶を飲んだ後は、お茶菓子を食べてお茶会は終わったのだけれど、そのお茶菓子はエクアドルのものだった。本当のお茶会に出てみたいものである。
抹茶というものがある。簡単に言えばお茶っ葉を粉末にして、お湯で撹拌して飲むものだ。飲むだけではなく、アイスに抹茶味があったり、チョコレートに抹茶味があったりなど、様々なものに抹茶は登場している。
そして、抹茶と言えば茶道だ。お茶会だ。厳かな雰囲気で抹茶を飲むのだ。それをやってみようと思う。ただ茶道の心得は全くないので、家にあるもので、雰囲気だけでも体験したい。
いわゆる緑茶を飲む人は多いと思う。お茶っ葉はどこでも手に入るし、自販機でだって緑茶は売っている。日本に生まれたからだろうか、緑茶を飲むと落ち着いた気持ちになる。心の中に住む荒ぶる子猫をおとなしくしてくれるのだ。
そんな緑茶の一種に「抹茶」がある。戦国大名たちが愛したと聞く。またスーパーなどに行くと抹茶味で溢れている。アイスなんて、バニラ、チョコ、抹茶のように当たり前のようにライナップされる。みんな抹茶が好きなのだ。
そんな抹茶の原料は「碾茶(てんちゃ)」。碾茶を粉末状にすることで「抹茶」となる。抹茶は見たことあるけれど、その原料である「碾茶」はあまり見かけたことがない気がする。
平らだな、という感じがする。いわゆる緑茶と比べると、碾茶はやっぱり「平らだな」となる。香りとしては普通のお茶の香り。抹茶には抹茶の香りがあると思うけれど、それはない。いわゆるお茶の香りだ。
抹茶を作ろうと思う。工場などでは専門的な機械を使い碾茶を粉にすると思うけれど、私の家は普通の家だから。築35年以上の鉄骨の家だから。家からスカイツリーは見えるけれど、気密性が悪い普通の家だから。つまり、そんな専門的な機械はないということだ。
昔の人々は機械なんてなかったわけだから、石臼的なもので抹茶を作っていた。私の家には石臼的なものもないので鉢とすりこぎ。思いの外、バンバンに粉末になったけれど、腕が疲れる。もっと文明の利器を使いたい。
お米などを粉にする機械が我が家にあった。自分の家なのに、把握していないものがあるという驚き。いつか買ったのをすっかり忘れていた。これに碾茶を入れれば、あっという間に抹茶になる。文明の利器を使いたい派なのだ。
10秒、いや10秒弱で抹茶になった。碾茶だったものが抹茶となった。驚くことに、粉末になると抹茶の香りになった。碾茶の時は全然しなかった抹茶の香りが粉末になるとする。同じものでも粉になると変わるのだ。香りというより「かほり」と書きたいいいかほりだ。
お茶を粉にすればどれも抹茶の香りかと思ったけど、そんなことはなかった。普通のお茶を粉にすると、回転寿司を思い起こす香りになった。これはこれでいい香りではあるが、回転寿司だ。抹茶はやはり碾茶でないとダメなのだろう。
お茶会を開こうと思う。赤い毛氈に、野点傘を広げ、その下で道具が並び、抹茶を作り飲むのだ。ただそんな道具はない。一切ない。ということで、自宅にあるものをかき集め、それっぽい雰囲気を作ろうと思う。
かき集め、お茶会の会場に移動する間に、碾茶を碾茶として飲んだことを記そうと思う。碾茶は抹茶の原料なので、碾茶を普通のお茶のように飲むことはあまりない気がする。せっかくなので飲んでみようではないか。
食レポなどで多用される言葉が「甘い」である。とにかく「甘いと言っておけばいい」まである。私は「甘い」という言葉に否を唱えたい。もっと正しく味を伝えるべきなのだ。甘いとさえ言えば許される食レポなど必要ないのだ。
そうは言っても碾茶の感想は「甘い」だった。苦味というものがないのだ。甘い。抽象的だけど優しい味。永遠に飲んでいられるような感じで、抹茶のような味はない。ひたすら甘いのだ。品のいい甘さ。緑茶より薄く感じたが、これはこれで美味しい。
私は今まで茶道をやったことがなかった。お茶会もそう。どこかのお城に行った時にイベント的にやっているのを見たことはあるけれど、参加したことはない。これが初めのお茶会だ。
お茶会では赤い毛氈が敷かれている。その上に道具を置いたり、座ったりするのだ。問題は赤い毛氈が私の家にないこと。粉にする機械はあったけれど、赤い毛氈はないのだ。そこでブルーシートを採用した。下に敷くという用途は同じだ。
お茶会では赤色などの野点傘が使われる。普段使う傘より長い傘だ。そんな傘は私の家はないので、三脚に透明傘を養生テープで巻きつけることにした。自宅にあるものではこうなってしまうのだ。
抹茶を入れておく「茶器」はないのでジャムポットを使う。「茶杓」もないので新品の耳かきを使う。「茶碗」は本当の茶碗を使う。ご飯を食べる時に使うやつだ。「柄杓」もないので計量スプーンを使う。他にも必要なものはありそうだけど、最低限のぽいものを揃えた。
釜はあった。お湯を沸かすのに必要な釜はあった。めちゃくちゃ重い、マジな釜はあった。自分の家なのに、そんなものがあるの、という驚きがあるのが怖い。釜って普通はないと思う。でも、釜はあった。
お茶会と言えば着物だと思うので、家にあった長襦袢を着ることにした。問題は遮るものがない場所なので寒いということ。とにかく寒いのだ。しかし、お茶会のため。長襦袢を着るしかないのだ。
長襦袢はあるのだけれど帯がない。釜はあるのにそれ以外のお茶の道具がない。なんともバランスの取れていない家だなと思う。自分の家だけれど。養生テープの万能さにまかせよう。
とにかく帯がないらしい。地主家は深刻な帯不足のようだ。またこの着物がお茶会に即した着物なのかわからないけれど、これしかなかったのだから仕方ない。家にあるもので、どうにかお茶会を開くのが目標なのだ。
準備は整った。整ったと言い切ろうと思う。茶道に詳しい方は「何が整ったの?」と思うかもしれない。しかし、これで整ったのだ。整ったか、整っていないかで言えば、整ったのだ。地主の自宅にあるものの限界だから。釜だけは本格的だし、整ったのだ。
全然違うと言えば、全然違うけれど、家にあるものだからと考えると、ギリギリ形になっているのでないだろうか。あとは茶筅で攪拌すれば完成となる。自分で粉にした抹茶だから味も格別だろう。
茶筅がないのだ。家に茶筅はないのだ。そこで代わりになるものを探したら、「カプチーノミキサー」があった。電動で、先の部分が振動するやつだ。本来はミルクを泡立てるものだけれど、茶筅の代わりになってくれればと思う。
やっと抹茶が完成した。長い道のりだった。そして、外に出てからは寒かった。風がとにかく冷たかった。そんな中で抹茶を飲む。手はかじかんでいるけれど、期待で胸は温かい。どんな味なのだろう。
美味しかった。とても美味しかった。嫌みのない味と言えばいいのだろうか。先に飲んだ碾茶とは違い、しっかりと抹茶の味。粉にすることで匂いも味も変わることが面白い。自宅でも抹茶を作ることはできるのだ、碾茶があれば。
これで抹茶を作り、お茶会を開くという、大人の階段を上がれた気がする。見た目の問題はあるけれど、頑張った方だと自分では思いたい。釜は本物だしね。抹茶を飲んだ後は、お茶菓子を食べてお茶会は終わったのだけれど、そのお茶菓子はエクアドルのものだった。本当のお茶会に出てみたいものである。
今回の記事についてライター地主さんに話を聞きました。記事を読んだ後にご覧ください(編集部安藤)。
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