お台場を挙げて行われる大博覧会だった
いわゆる「お台場」と呼ばれる多くの地域で行われる、まさに臨海副都心の華々しい世界デビューが行われるはずだった。
すでにグッズは約350種類発売されていた
その世界都市博は、すでに多くのグッズが発売されており、数は約350種類にものぼった。
最終的に1000種を超えるアイテムが出る予定で、売上目標は30億円。それが中止で消え、在庫や金型など投資分の損害は、数億円になったという。
その夢の残骸がどうしても欲しくて、メルカリで注文してしまった。これだ。
このテレホンカードは送料込みで750円だった。つまり、大したプレミアはついていない。
記念テレカは1994年暮れに6000枚が製作されたが完売。以降は作られていない(週刊宝石 1995.6.29)。
都市博のテーマ局になる予定だったのが、スティーヴィー・ワンダーの「For Your Love」。2月20日にテーマ曲であるとの表示を入れて発売された。
横山輝一の歌った日本語版も発売されており、こちらも買った。ヤフオクで送料込み200円である。おわかりだろうか、悲しいけどまったくプレミアはついていないことが。
この都市博開催中止が決定したのが1995年5月31日。このCDの発売日は同年3月25日。つまり中止直前の発売だった。
そして都市博の開幕日は1996年3月24日。もう開幕まで10ヶ月を切っていた。
そのためにかなり建設が進んでいて、中には完成している施設もあった。現在、そこはどうなっているのか。当時の計画図とともに、お台場を歩いてみよう。
都市博の中核駅、「東京テレポート駅」
旅のスタートは、当時も来場者の足となるはずだった「りんかい線」から。
この東京テレポート駅は都市博へ来る客の主要駅ということで、相当立派にできている。改札口まで上がるエスカレーターが3つあるほどだ。
東京テレポート駅前には、メインゲートができる予定だった
駅を降りてまず見えるのはパレットタウン。世界都市博の予定地だった場所を10年間の暫定利用を前提として借り、1999年にオープンしたショッピングモールだ。
10年が経過した後の土地は森ビルとトヨタ自動車に引き渡されて、地上23階で複合施設が入ったビルに姿を変える予定だったが、リーマンショックによる情勢の変化でお流れになった。
西側を見る。都市博のメインゲート予定地だったあたりは広場になっている。その横に生まれるの東京ビックサイト青海展示棟である。2019年のコミケの企業ブースもこちらになるという。
西側へ歩く。そこには青海臨時駐車場群、ダイバーシティ東京プラザがある。このあたりは企業ブースが並ぶ予定だった。
たとえば日立グループ館は、世界初の試みとして、3D立体映像が観られる直径27mのドームスクリーンに、映像に同期して座席が動く「シミュレーターライド」を組み合わせ、未来海底都市への旅を疑似体験できる、今聞いても面白そうなパビリオンを行うはずだった。
さらにアコム株式会社による「アコムポリス」は、来場者一人ひとりが未来の海中都市の救助隊の一員となり、海底地震による落石で閉じ込められたイルカたちを「巨大キャッチマシーン」で救出する、ダイナミックなゲームに挑戦できたという。
大地震を音と映像と実際の揺れで再現する「地震シミュレータ」
テレコムセンター駅に近いフジテレビ湾岸スタジオ。このあたりは「都市の防災館」ができるあたりだった。阪神大震災に見舞われてから日が浅く、注目パビリオンの一つだった。
ファーストフード店の多かった会場
おなかが空いたので、そろそろごはんにでもしよう。ちなみに都市博の店舗はビアレストランなども作りつつ、混雑時にはファーストフード店を多めに開く予定だったという。
そのため、このような気軽につまめるメニューを来場客は楽しんでいたのではと思われる。
東京ビッグサイトに路面電車が走る!
今では東京ビッグサイトという愛称のついている「国際展示場」は、全パビリオンの中でもひときわ大きい施設である。
東京都のメッセージを発信する「テーマ館」と、日本の各都市・各地域の魅力を発信する「日本の都市館」となる予定だった。
文明開化の街中を、復元された明治の路面電車(初期のボギー車)を再現して、実際に走らせるという壮大な企画もあり、実際に乗れることになっていた。
そんな楽しそうな展示とは対象的に、展示ホールをつなぐ通路に「東京大空襲」を環境的に表現した、社会派の展示もあったという。
東京ビッグサイトに、ゴンドラリフトを建設していた
実はこの東京ビッグサイトと、都市博のメインゲートまで「ゴンドラリフト」でつなぐ予定があり、すでに建設が始まっていた。
中止発表後も、当時の4本の柱がいまでは「メディアタワー」と名を変え、ビッグサイトのすぐそばに残されている。
大がかりな遊園地「ファンシティ」予定地
都市博には「ファンシティ」という遊園地も建設するはずだった。予定地はいまの日本科学未来館があるあたりの場所だ。
「急降下と旋回を繰り返す世界初の恐怖のドルフィン・リターンのメガ・コースター」「世界で初めて時刻に合わせて鐘を打ち鳴らす高さ65mの大観覧車」「水平回転と垂直回転をする日本初の迫力満点絶叫マシンのミキサー」などの世界初・日本初だらけの絶叫マシンなどが計画されていた。
実は地下は重要な給水場、「水の科学館」
華やかな施設も多いお台場において、ちょっとマニアックなのが「水の科学館」。この地下には有明給水所があり、臨海地域の水を供給する重要な場所で、都市博ではここも公開する予定だった。
ふしぎな存在感、共同溝展示館
さらに共同溝展示館は、道路の地下空間を利用して、上・下水道、ガス、電気、電話などのライフラインを収容する「共同溝」を見学できる施設でこちらも都市博で公開されるはずだった。
もう長らく閉館しており、今はその一風変わった建築のみを見ることができる。
夢やぶれた「夢の大橋」
会場内を横断する大きな道は、メインストリートとして扱われるはずだった。写真にある「夢の大橋」は、存在感のあるとても大きな橋だ。最大幅が60mで日本一とも言われる。都市博という夢がやぶれた今、皮肉な名前である。
築地市場の豊洲移転は「都市博中止」がきっかけだった
ここで、ゆりかもめに乗って豊洲へ行こう。都市博の開催地では無いが、見てほしいものがある。
この豊洲市場。実は都市博の中止が築地からの移転の引き金になったと言われている。
当時東京ガスは当時土地を持っていた豊洲にレインボーブリッジから橋をかける「マンハッタン・ベネチア構想」なるものを計画していたが、都市博中止で頓挫した。
東京ガスは同時に計画されていた豊洲の護岸強化工事などを進めていたが、都が撤退したことにより、約60億~70億円の工事費を自前で拠出しなければならなくなった。
そこで当時の東京ガス幹部が豊洲の所有地に公的な施設を誘致すれば、莫大な工事費が減免できるのではないかと考え、そこではじめて築地の豊洲移転構想が生まれたという。
会場は上から見てみよう
テレコムセンターの展望台へ。ここから会場を眺める。大きな建物がいろいろドーンと建つ中で、東京では異例なほど緑が多い街並みだ。
「最後の青函連絡船」が都市博を待っていた、船の科学館
お台場の左端には船の科学館がある。しかし本館は老朽化のため、2011年から長らく展示が休止されており、いまでは規模を大きく縮小して展示が行われている、ちょっと哀愁漂う博物館だ。
ここにはかつて、都市博で展示される予定だった「羊蹄丸」が係留されていた。青函トンネル完成の1988年まで活躍した最後の青函連絡船。しかし都市博という晴れ舞台は無くなり、後年解体された。
船は解体されて無くなったものの、羊蹄丸のスクリュープロペラが今も残されており、かつて係留されていた面影を残している。
20数年間眠り続ける、地下の大駐車場
なおこの地殻の青海南ふ頭公園には、巨大な地下駐車場がある。はっきりとしたソースは出てこないが、こちらも都市博のために作られたのだろうと囁かれている。
駐車スペースは管理車両2台分を含め218台、敷地面積は約1ha、建設費は34億円7千万円。ポテンシャルを20年以上大いに持て余し続ける大駐車場は、いつか使われるときを待っている。
お台場を救った、踊る大捜査線
この地域の運命を変えたドラマが、「踊る大捜査線」だ。都市博開催時は駐車場になる予定だった場所に建った。
いまでこそ叩かれることの多いフジテレビだが、都市博の中止で開発がストップし、ギブアップ寸前まで追い込まれたこの地域にとって、1997年に始まった踊る大捜査線は数少ない希望だった。
舞台となる湾岸署は周囲に空き地が広がり、警視庁の刑事たちからは「空き地署」とバカにされていた。これは都市博中止によって開発の止まったお台場をそのまま表わしている。
さらに、ドラマのなかで青島刑事は何かと「都知事と同じ青島です」と自己紹介するが、ここには青島都知事への痛烈な皮肉も込められていた。
踊る大捜査線は大ヒットした。そしてお台場の名は全国に知られることとなり、発展に一役買った。
そしてお台場に人が集まるようになり、当初は実在しなかった湾岸署が本当に作られるようにまでなったのだ。
都市博中止後、命からがら営業してきたホテル
冬の昼間は短い。もう陽が暮れてきた。
台場駅徒歩0分のホテル「ヒルトン東京お台場」は、もともと「ホテル日航東京」だった。
東京都から「都市博に間に合わせるよう、早く完成してくれ!」というプレッシャーの中で急ピッチの建設を進めるも、「やっぱり都市博やめた!」と、ハシゴを大いに外された悲運のホテルである。
都市博で名を上げるつもりがフイになり、そのせいで発展が遅れたお台場地域での営業は、苦労が絶えなかった。当初からの経営会社は経営破綻し、現在はヒルトンが営業をしている。
同じくグランドニッコー東京 台場(旧 ホテル・グランパシフィック・メリディアン)も、都市博の宿泊需要に合わせて生まれた。しかし都市博の中止により一時工事は中断されるも、1998年にオープンしている。
当時から「お金のムダ遣い」という批判を受けながら、それでも多くの人が都市博を形にするために頑張ってきた。しかしそれは永遠にできなくなった。
都市博中止、それは「夢を現実が思い切り追い抜いた」シーンだった。僕らの人生はいつもそんなことばっかりだ。
意外な形で夢は続く
不遇な運命を背負ったお台場。しかし2020東京オリンピック・パラリンピックの主要な競技開催地域となり、14会場を舞台に熱戦が展開されることとなった。
1996年に夢が潰えたお台場は、2020年に別の形で夢を叶えようとしている。
「夢の大橋」に聖火がともる
世界都市博のメインストリートになることなく、夢やぶれた「夢の大橋」。しかし2020年東京オリンピックの聖火が設置される方針が固まった。
街も人も、夢が終わったあとにもうひとつの夢が芽生える。だからどんなに追い詰められようとも、生きようじゃないか。
レインボーブリッジは誰にも封鎖できない
日本はもう、昔のように大手を振って博覧会を迎えられる国では無くなってしまった。お金がない。だから余裕がない。「夢がない」とまで言われる。仕方のないことだが。
大阪万博にも、賛否両論が飛び交っている。だが開催が決まったのであれば、とにかく思い切り楽しい博覧会にして欲しい。道半ばで倒れた、世界都市博の分まで。
あの日何も無くなった街に、織田裕二やいろいろな人たちが必死で命を吹き込んだ街。レインボーブリッジと夢の大橋は封鎖せず、いつも僕らが来るのを待っている。