人口規模日本一のニュータウンになるはずだった
当初の計画人口は34万人、日本最大のニュータウンになるはずだった。1983年度には早くも、31万1292人に達している予定だったという。
しかし思うように住人を集められず、計画人口を143,300人と大幅に下方修正し、夢は破れた。そして現在の人口は約10万人に留まっている。
用地買収が進まず鉄道建設が遅れたことなどから、建ててしまった団地もなかなか売り出せず、あたかもゴーストタウンのような時期もあった。
日本一級の運賃の高さ「北総線」
この千葉ニュータウンへ行くには、「北総線」なる電車に乗る。もともとは「北総開発鉄道」という未開地の鉄道というような名称だったが変更された。
しかしこの電車、日本一クラスの運賃の高さである。なんと初乗りは310円だ。この運賃の高さが千葉ニューの発展を妨げた大きな原因とされている。
しかしキロあたりの人員を京成線の3分の1以下に削減しても利益がほとんど出ない状況で、下げたくても下げられなかったという内情もあったそう。
そのためキセル乗車も横行した。「キセルが多いから無人駅にできない」という噂もどこかで聞いたことがある。
西白井駅周辺の車窓から。東京通勤圏とは思えない、抜けのある「超郊外」的風景。懐かしい。
線路の横の空き地は、「成田新幹線」が通るはずだった所
北総線の線路の横には、何やらずっと空き地がある。子供のころ「このスペースはなんだろう」と漠然と思っていたが、調べてみるとコレ、成田新幹線の線路になるはずの場所だったのだ。
この空き地は成田新幹線構想が1987年に頓挫したあとも、ずいぶん長い間放置されていた。しかし2017年、この空き地にソーラーパネルを置くことが決まった。これだ。
他の路線ではまず見ない光景である。いまの北総線では10kmにわたり、このソーラーパネルが線路に続いているのだ。
成田新幹線が走る線路が敷設されるはずだった場所に、ソーラーパネルがどこまでも並んでいる。高度成長期からの時代の流れを感じざるを得ない。
特に千葉ニュータウン中央駅前には広大なスペースが空いており、幾重にもソーラーパネルが並べられているが、これは成田新幹線の駅が隣接して設置される予定だったためという。
この成田新幹線は通勤のための新幹線として使われる予定があり、ニュータウンから東京まで20分、新宿まで25分で結ぶ、夢の高速鉄道になるはずだったのだ。
北総線最果ての、印旛日本医大駅へ
いきなり終点である、印旛日本医大駅へ到着。どこへでもママチャリを飛ばす少年だった僕も、さすがにここへは来たことがない。
まず駅舎が、ダイナミックかつ妙な形状である。時計塔とドーム屋根のおかげで否が応でも存在感があるこちらは、「森の中の駅舎」をイメージしているらしい。関東の駅百選にも選ばれている。ちなみに展望台があるが、なぜかずっと非公開だという。
ちなみに「松虫(姫)」とは聖武天皇の皇女で、「松虫姫伝説」なるものがこの地域で信じられている。由緒正しい名前なのだ。
家以外、なにもない
辺りを見渡す。まだ築年数が間もないような家が立ち並ぶ。家・家・家。他にはなにもない。駅前なのにコンビニすら見当たらない。やや遠くにスーパーっぽい建物が見えるぐらいだ。
あまり時間も無いので、次を急ごう。ちなみに千葉ニュータウンには100円のバスがあり、北総線の運賃を高く思っている人たちにも重宝されている。
駅を離れると、田園と雑木林が広がる。千葉ニュータウンがあまり発展しなかったせいか、まだまだ自然が残っているのだ。
バスを降りて、歩いて10数分ほど。朝から何も食べていない腹ペコの僕に、お目当てのお店が姿を表した。
誰も知らないご当地グルメ
ここには、印西市がかつて激推ししていたという「みそピーからあげ」がある。
2010年に開催された「いんざい”ご当地ぐるめ”選手権」でグランプリになったシロモノだが、正直流行っていない模様で、ここは数少ない提供店の一つである。
しばし待つと、やがて登場したのが「印西みそピーから揚げ定食(800円)」である。これだ。
どうか、ミニトマトや大根を目安にこのサイズ感を味わって欲しい。とんでもない大きさである。
から揚げもデカい。ごはんもデカい。1200カロリーは超えているのではと思うほどだ。
田舎の食堂はデカ盛りが多いと言うが、隣でムシャムシャと食べるブルーカラーの方たちを見るとそれがわかる。これをカラダが求めているのだ。
とにかくムシャムシャと食べる。ウマい! 空腹でかき込むのに実にイイ固さのごはんだ。
そして肝心のみそピーから揚げもガツガツいけるおいしさ。正直言うとはじめは味噌の甘さに多少の違和感は感じたが、「これはこれでアリ」と十分に思える風味。
急造系のご当地グルメは、味に無理があるものも多いが、これはバッチリイケるレベルだ。むしろ、これを書いている今となってあの甘さが恋しくなるほどである。
800円とは思えないほどにパワフルな定食を完食! 「食べた!」と軽く叫びたくなる満足感と、炭水化物を大量に摂取したときに特有の眠気を得て、再び歩き出す。
ドカーンと巨大店舗だらけの印西牧の原駅へ
歩いて、歩いて印西牧の原駅付近へ。そこにはショッピングモールのBIG HOPがあり、ここのシンボルが「観覧車」である。これに乗っている人は観たことがないが、正直言うと一度乗りたかった。
500円を払い、いざ搭乗である。
ここから、「奇跡の原っぱ」を見る
実は観覧車に乗ったのは、単に乗りたかっただけでは無い。実はこの印西牧の原駅北口の近辺には、“奇跡の原っぱ”と呼ばれる草深原(そうふけっぱら)があるのだ。
区域一帯の生態系は、ニュータウン開発によって40年以上立ち入り禁止区域であったため、現在も貴重な生き物を含む多様な生態系が残っており、絶滅危惧種のホンドギツネの生息も確認されたという。
しかし開発の手が伸びるところを、署名運動の成果もあり、それが押し止められているという。
その明確な場所はなぜか明確にされていないが、ジョイフル本田の裏をちょっと行ったぐらいの所にあるらしい。その場所を観覧車に乗って確認したかったのだ。
観覧車もだいぶ上に上がった。そろそろ見えるころだ。自慢のカメラEOS Kiss X9でパシャパシャと撮影する。……しかし。
「奇跡の原っぱ」がない……?
ジョイフル本田の裏側には、大きな原っぱのようなものは無い。クレーン車などが整地しているのが見えるばかりだ。確かにこのへんのようだが……
たまらず、印西市観光情報館に電話して聞いてみた。見ての通りで、署名運動で止まっていた開発が再開され、特に西側は跡形もなく整地されてしまったという。
当時の面影を残すのはこの調整池ぐらいか。ここには貴重な動植物が生息しているとの話がある。
今も千葉ニュータウンの開発はどんどん進んでいるのだ。農家を営んでいたひとも多くが仕事をたたんでいる。
「もっと千葉ニュータウンが発展していれば、とっくに無くなっていたところなんだ」。草原を見たかった自分にそう言い訳しながら、キツネの住処も無くなった元「奇跡の原っぱ」を後にする。
特攻隊も飛び立った、印旛飛行場の跡
実はここ印西牧の原駅の周辺はかつて印旛飛行場があった。パイロットの養成施設で、日中戦争がはじまった昭和12年に計画、昭和16年に完成している。
しかし昭和18年になると、太平洋戦争の激化で実質的に陸軍の飛行場となった。
射撃場や戦闘機の滑走路が整備され、戦争末期には空襲に備えて防空壕や戦闘機を隠すための掩体壕が拡充、硫黄島への派遣や特攻機も飛び立ったという。
1982年の時点ではこの地域に36基の掩体壕が確認されていたが、開発に伴い消失し、現在は東の原に保存されている1基のみ。現状で屋根のない土塁状の無蓋型だ。
そのために、西の原地区から東の原地区にかけて、いくつかの施設の設計に、印旛飛行場にちなんだデザインを取り入れている。
高速道路も走る予定だった
北総線の運賃が高いせいか、界隈は車社会である。駐車場も大きいし、ドライブスルーも多い。実はそんな千葉ニュー、高速道路も走る予定だった。
現在は「北千葉道路」として道路が整備され、どんどん便利になってはいるものの、高速道路の実現までには至っていない。
「成田新高速鉄道」への思いが込められたジョイフル本田
次に向かったのは千葉ニューと言ったらおなじみの「ジョイフル本田」である。千葉ニュータウン店は日本最大級のホームセンターで、巨大店舗がボンボンと建つこのへんでもボス的存在だ。
ジョイフル本田に関しては、この記事あたりにもあるので、ここではあまり取り上げない。ただ、見て欲しいのがここだ。
それはジョイフル本田のみならずの千葉ニュー地元民の悲願であったが、その想いは実り、2010年に成田スカイアクセスが完成している。
ちなみにジョイフル本田にあるチャンスセンターは、全国で唯一BIGの10億円当選を2度達成した売り場である。それに関連してか、売り場の近くには「本田神社」なるものがある。
実は千葉ニュータウンエリアは、神社や寺が非常に少ない。住宅・都市整備公団は国のお金で運営されているので、一党一派に属してはいけないというのが理由。その分のご利益がこの神社に集まっているのかも知れない。
北総線には幻の駅が2つあった
ここからどんどん西に歩いていく。北総線には、計画はされども作られなかった幻の駅が2つあり、それを見に行くのだ。
くわしい情報を一次ソースで見つけたかったが、上の計画図ソースぐらいしか見つけられなかったので「千葉県の廃線・未成線地図」という素晴らしいまとめを活用させていただいた。というわけで参考程度に見てほしい。
夕焼けをうつす雲の中に飛行機雲が見えた。成田新幹線のコースに沿っていて、あの日の夢の続きに見えた。
千葉ニュータウン中央駅付近へ
千葉ニュータウン中央駅付近にやってきた。土地を贅沢に使った広いイオンモールや、大型マンションが所々に立ち並ぶ。まさに千葉ニュータウンの中心といった風格を醸し出す。
千葉ニュータウンから撤退した東京電機大学へ
千葉ニュータウンには、東京電機大学のキャンパスがあった。4年制大学を持っていることは街の自慢の一つであったが、2018年、東京の千住にキャンパスを移転した。現在は大学の都心回帰が相次いでおり、その流れには逆らえなかった。
これで大学は東京基督教大学を残すのみとなったが、学生数は158人(2017年5月1日現在)と非常に少ない。東京電機大学が約1200人の学生を抱えていたことに比べると、多くの若者を失った街へのダメージは大きい。
行ってみると、まだ看板はあった。独特のオブジェも撤去されていないようだ。しかし、門はふさがっているので、裏口へ回ってみる。
裏門側へ来た。明かりが灯っているところもあるし、車や自転車も数台停まっていた。まだ人が居るようだ。解体がはじまっていなくて、何かホッとした。
帰ってから調べてみると、課外活動や部活動、市と大学がまちづくりで締結した協定に基づく活動などは継続している模様だ(2014年11月12日 読売新聞東葛版より)。
実はまだ開通していない道がある
今度は小室駅に向けて西へ歩き出す。あたりはすでに真っ暗だ。実は小室駅の周辺は、千葉ニュータウンでもいちばん開発が進んでいない場所。一人で歩くのがちょっと怖い。
それにしても千葉ニュータウンは広い。この企画、実はのべ10時間ほど歩いた。生涯でいちばん歩いた日で、まず足の裏が痛み、当日のうちに筋肉痛になり、さらには水ぶくれがつぶれ……と、非常に過酷な旅程となった。
千葉ニュータウンの大動脈の一つが環状道路である。県道千葉ニュータウン南環状線と北環状線があるのだが、後者はいまだに開通していない。
迂回路は急カーブするルートになっていてドライバーもやや苦しそう。開通しない背景にはいろいろ黒いものが渦巻いているようだが、都合により割愛する。
富士急ハイランドより、小室ハイランド
千葉ニュータウンの中ではそれほど栄えていない小室。しかしここには、千葉ニューでもいち早く入居がはじまった「小室ハイランド」がある。
古い町並みには全日食チェーンか、ヤマザキサンロイヤルストアが似合う。今宵も仕事帰りのサラリーマンが、夕食を調達していた。
ここから、最後の目的地へ。
北千葉線「中沢駅」予定地をめざす
最後に千葉ニュータウン開発に際して、それにつながる鉄道として計画され、線路用に土地もある程度確保されていた「北千葉線」の駅になるはずだった場所を目指そう。
こちらも「千葉県の廃線・未成線地図」を使わせていただいた。そのため、あくまで参考として見てほしい。
日本ハムの2軍選手が汗を流す、ファイターズ鎌ケ谷スタジアムの近くだ。周囲にあまり民家はなく、ちょっと怖い。
今となってはあまり人も通らない場所だが、北千葉線の駅前として商店街で賑わっていたかも知れない。
夢が終わって、また歩きだす千葉ニュータウン
この千葉ニュータウンを抱える印西市は、東洋経済新報社が発表する「住みよさランキング」で7年連続の1位を獲得している。
人口の伸び方も良くなっており、日経BP総研 社会インフラ研究所らが算出した「『人口増加の勢いがある自治体』ランキング2015-17」では堂々の全国2位である。
それもそのはず、UR都市機構は公団時代にニュータウンを日本各地に作ったが、その中で、最後にして最高傑作の街といわれるのが、横浜市の港北ニュータウンと「千葉ニュータウン」だったという。
日本の住宅地で、「歩道を人と自転車が分けあって使い、車椅子でも生活しやすい」エリアはここぐらい。商業施設の駐車場は平日フリーパスのところが多く、車で生活しやすいエリアでもあるとか(日刊ゲンダイ 2015年6月26日)。
計画人口は確かに143,300人と大幅に下方修正された。しかし人も街も、身の丈に合った目標を新たに立てることは建設的だ。その目標を達成するまで、千葉ニュータウンの挑戦はつづく。
千葉ニュータウンのように生きたい
ときに失敗プロジェクトとして語られる千葉ニュータウンだが、街に雑木林や草原が同居する、青空と夕陽の似合う街。歩いていて気持ちよかった。
ちなみにこの千葉ニュータウン事業で培ったノウハウは、震災復興支援にも活用されている(建設通信新聞2017年1月13日)。
帰りに新鎌ヶ谷駅で見つけたのは、一時期100店舗を突破したものの、掲載日現在で8店舗にまでなりながら営業を続ける東京チカラめしだった。
千葉ニュータウンのように、東京チカラめしのように、どんなに土壇場まで追い込まれようとも、しぶとく生きたい。