特集 2020年12月4日

「どうだ明るくなったろう」山本唯三郎の意外な人生をたどる

「暗くてお靴が分からないわ」

という芸者さんに対し、

「どうだ明るくなったろう」

と百円札に火をつける成金の男性。

歴史の教科書に必ずと言っていいほど載っている風刺画だ。

実はこの成金男性は実在する岡山県出身の人物が元になっている。ほとんど知られていない実際の「どうだ明るくなったろう」について調べながら岡山県内のゆかりの地を巡った。

1984年生まれ岡山のど田舎在住。技術的な事を探求するのが趣味。お皿を作って売っていたりもする。思い付いた事はやってみないと気がすまない性格。(動画インタビュー)

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風刺画「どうだ明るくなったろう」とは 

見た事ない人もいると思うので、まずは「どうだ明るくなったろう」について説明しよう。

「どうだ明るくなったろう」とは、歴史の教科書の大正時代のページに出てくる風刺画である。

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こんな感じ。本物は検索して確認してほしい。

暗闇の中で靴が見つけらない芸者さんに対し、成金の男性が百円札に火をつけて明かりにするというもの。

第一次世界大戦のバブルを揶揄した和田邦坊(わだくにぼう)の作品だ。そのエキセントリックな行動はインターネット上で題材としても親しまれている。

実はこの風刺画、函館の料亭で起こった実際のできごとが元になったとされている。この時の百円札に火をつけた成金こそが山本唯三郎(やまもとたださぶろう)という人物だ。

ちなみに風刺画では百円札(当時の最高額紙幣。現在の価格で約30万円)を燃やしているが、実際に山本が燃やしたのは百円札のだったらしい。もったいない!そのお金で照明買ってあげて!

それに調べてみると僕の住んでいる岡山県の出身らしい。

実際の「どうだ明るくなったろう」は風刺画に似ていない

山本唯三郎の写真を探したところ、岡山県の地域新聞の山陽新聞社がお持ちだったのでご提供いただいた。この場を借りてお礼を申し上げたい。 

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山本唯三郎(山陽新聞社提供)。

…あれ?なんか風刺画と違う。

ご覧のように口髭と七三分けの髪型は風刺画と似ているが、風刺画に描かれたような好々爺からはかけ離れて似ても似つかない。

風刺画の時期と撮影時期が異なるのかも知れないが、それを差し引いても雰囲気がぜんぜん違うようだ。

イメージとはちょっと違うかもしれない、実際の「どうだ明るくなったろう」に関する“何か”を求め、彼の出身地へと向かう。

「どうだ明かるくなったろう」の出身地は

山本唯三郎の出身地は、岡山県岡山市北区建部町鶴田という場所だ。鶴田と書いて「たづた」と読む。

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ちなみに地図だとこのへん。岡山県のほとんど真ん中。

鶴田は住所こそ岡山市内ではあるものの、岡山市の最北端で岡山市の中心部から車で1時間かかる。岡山市といえども広いのだ。 

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一路、鶴田へと向かう。

とてもさわやかな秋の風を感じながら車を走らせる。記念碑くらいあると思うので観光しよう。

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交通量の多い幹線道路から脇道へ、さらに脇道へと入り、山と山の間をずんずん進む。

鶴田に近づくと車はほとんど見かけなくなる。

そして、ここまで「○○の生誕地はこちら」的な観光地によくある看板が全くない。ちょっと嫌な予感がしてきた。

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標識に岡山市建部町鶴田の文字を発見した。

山本唯三郎の出身地、鶴田に到着した。しかし目印らしきものは何もない。

ただの山間の集落といった感じ。

料亭で札束を燃やすようなイメージとはかけ離れた、鳥の鳴き声しか聞こえない静かな場所だ。

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鶴田は岡山市を流れる一級河川、旭川の上流でもある。奥に見えるのはダム。

鶴田は川とダム湖の両側に広がる地域だ。徒歩でも回れそうな広さ。

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もしかすると当時の集落はダムの底なのかもしれない。
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看板にも山本唯三郎に関する記載はない。

山本唯三郎の生家や碑くらいあるだろうと思っていたが、探してもは見つけられなかった。近所の人に聞いても山本唯三郎の読み方も知らなかった。

確かなものは何もないが、およそ150年前の明治6年(1873年)11月、山本唯三郎はこのあたりで生まれる。

貧乏で小学校を休学

鶴田に痕跡がないのも無理もないのかも知れない。

戻って再び調べ直してみると、山本唯三郎は子供の頃に家族ぐるみ岡山市中心部へ引っ越している。 

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岡山市中区小橋町にやってきた。

写真の川は先ほどと同じ旭川で、こちらは下流にあたる。岡山市中心部から徒歩で30分くらい。

山本唯三郎が通っていた小学校はこの建物のあたりにあったようだ。

しかし小学校に入学した山本唯三郎は、学費が払えず2年で休学。近所の豆腐屋で働く。

さらに10歳の時に仕事を求めて大阪へ行くことになるが船賃が払えず(当時はまだ鉄道は開通していない)、一週間かけて徒歩で大阪へ向かうほど貧しかった。

兄の援助で進学するが学費が払えず、勉強にはとても苦労したらしい。

「どうだ明るくなったろう」のイメージがどんどん崩れていく。

天津の貿易商社の社長に

その後、北海道へ向かい開拓を成功させるなど紆余曲折を経て、中国の天津に本社を置く貿易商社に入社する。

貿易商社では手腕が認められ、数年で経営者にのぼりつめる。

大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発すると、船が必要になることを見越して、いち早くたくさんの船をチャーターする。

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第一次世界大戦の概要はこんな感じだ。

第一次世界大戦で戦場となったヨーロッパは物資が不足。

日本も第一次世界大戦には参戦したものの主戦場にはならなかったので、日本からイギリスやロシアに大量の物資を供給し、山本唯三郎の読み通りたくさん船が必要とされる。

その結果、山本唯三郎は短期間のうちにボロ儲け。資産は預金だけで4000万円(現在の価格で約1200億円)にもなった。

風刺画に描かれたような桁違いの散財(時に奇行)を繰り返すことになる。朝鮮半島への大々的な虎狩りツアーを行ったり、百円札に火をつけるに留まらず鼻をかんだりしたと言われ、当時の人々から大ひんしゅくを買う。

しかし一方で、数多くの慈善事業もおこなっていた。

図書ではなく図書館を寄付

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岡山市立中央図書館。

先ほどの小橋町から車で10分、同じく岡山市中心部からほど近い岡山市立中央図書館へやってきた。

こちらの岡山市立図書館も元をたどれば山本唯三郎が寄付したものだ。図書を寄付したのではなく図書館の寄付だ。スケールが違う。

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当時の岡山市立図書館。(岡山市立図書館ホームページより)

山本唯三郎が寄付した図書館はまだ珍しかった鉄筋コンクリート造りだった。作られた場所は上述の山本唯三郎が通った小学校のあった場所だ。

しかしこちらも戦災で焼失し、場所も移転している。やはりここでも山本唯三郎の痕跡はあまり残っていない。

今回見つけた唯一の直接的な痕跡とは

ここまでほとんど痕跡が残っていない山本唯三郎だが、直接的な痕跡があると聞きつけ、岡山県を再び北上していく。 

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山本唯三郎の生誕地の鶴田からさらに車で北に30分。
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岡山県の県北にある県内3番目の市、津山市にある桑下という場所だ。
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中央に見える大きな建物が今回の目的地の老人ホーム。

現在は老人ホームが建っているが、かつては山本唯三郎が寄付した山本農学校と山本実科高等女学校があった。

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老人ホームへ向かう坂。すごく学校っぽい。

かつての学生たちもこの坂を上って通学したのだろう。 

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老人ホームの建物の裏手にちょっとした広場があり、記念碑が建っている。
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山本農学校 山本実科高等女学校跡。

この学校名の「山本」はもちろん地名ではなく山本唯三郎に由来する。

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碑の裏側には「山本唯三郎」の名前を見つけた。

写真だと文字が潰れてしまうので、以下に碑文の概要を記載しておく。

岡山県の県北は県南に比べて教育が遅れていたので、有名な山本唯三郎氏を東京へ訪ねると教育振興のために20万円を寄付してもらった。
さらに敷地を地元から寄付してもらい大正7年初めに建設に着手し、同年9月に男女共学で開校。
大正8年4月には男子の山本農学校と女子の山本実科高等学校になり、同年11月2日には盛大な式典を開いて以降発展した。
しかし昭和2年残念な事情で廃校になり関係者や生徒、卒業生は言葉に出来ない程悲しかった。
その後、同校の跡地にはなにもないので同窓生が相談して準備をすすめ、本日、記念碑の除幕式と恩師や同窓生のための慰霊祭をおこなった。
昭和53年9月30日

このとおり、山本唯三郎はこの場所にあった学校建設のために20万円(現在の価値で約6億円)を寄付したそうだ。

しかし、1918年(大正7年)に第一次世界大戦が終結するとバブルが崩壊、不況になり山本唯三郎の貿易商社も需要が激減する。

現在ほとんど痕跡がないことからも想像に難くないが、山本唯三郎はこの不況で財産をすべて使い果たして没落してしまう。

この場所にあった山本農学校 山本実科高等女学校も援助を失い、閉校せざるをえなくなる。

山本唯三郎はその後、東京吉祥寺の自宅でひっそりと生活していたが、昭和2年(1927年)、胃痙攣で急死した。54歳だった。

みんな大好き「どうだ明るくなったろう」

痕跡もあまり残っていなかった山本唯三郎。

教科書に載っているくらい有名なのに、ほとんど名前も知られていない人物は珍しいんじゃないだろうか。

しかし「どうだ明るくなったろう」のようなエキセントリックな行動は、いつまでも人を惹きつけてやまない。


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鶴田から桑下へ向かう道。

ナビに従っていたはずなのに細い道に迷い込んでしまう。ここから更に道幅が狭くなって口の中がカラッカラに乾くくらい緊張した。

しかも極め付きはこの先が行き止りになっていてUターンするスペースもなく、今度はバックでこの道を何十メートルも戻る羽目になった。リアルガチイライラ棒である。

参考文献

  • 瀬戸内の経済人 赤井 克己著
  • 岡山県歴史人物事典 山陽新聞社
  • 建部町史 建部町
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