バラン、その概念の崩壊
バランという概念の崩壊を目の当たりにしたのは、ある日の100円ショップでのことだった。
これ、バランなのだ。パッケージに「バラン」って書いてあるのだからバランなのだと思う。
いや、ちょっと待て!
「バラン」っていうのは誰かが「おーい、これ、バランだから」って言ったらバランってことでいい物なのか。
「ああ、はいはい、これバランなんですね」ってそんな素直に受け取っていいのか。
社長が会社に愛人連れてきて「今日からこの子、秘書にすっから」って言ったら社員は黙って見てていいのか。そんな言ったもんがちみたいなことでいいのかバランは。
冷静になろう。だって、これ絵が書いてあるビニールじゃないか。
バランってのは、こう、緑のギザギザしたプラスチックで寿司とかに入ってる、あれだ。絵が描いてあるビニールじゃないだろう。
バランを買い集めました
100歩ゆずって愛人が社長の秘書になるのは飲もう。勤め人ってのはそういうもんだ。
でもバランが絵が描いてあるビニールだってのはまだ私には承服しかねる。
方々をまわってバランの現状がどうなっているのか、買い集めてきた。あらためて現状を見ていきたい。
抗菌という新たなる使命
まず分かったのは、バランは仕切りや飾りだけじゃなく、「抗菌」という新たな使命を担い始めているということだ。
なるほど、いいと思う。世のため人のためだ。これには私も静かにうなずいてバランを祝いたい。
よく見ると、抗菌シートになることでギザギザの部分がカットされず絵でのみ植物を模すことになっているが、それはそれでアリだと思う。
使い捨てじゃないバラン
抗菌とは別の展開として、シリコン製のバランというのもあった。
そうか、バランにもエコの波というわけか。時代を生きていくにはそういう必要もあるだろう。これも道理の分かる進化だ。
濃い緑が身上のバランがここへきてキミドリ色に、さらにキミドリにしたんだからいいでしょみたいな軽いノリでオレンジ色やピンク色になっているが、それでもエコロジーならいいのかなと思う。
ちょっとナンパな色合いにはなったが、パッケージ曰く、なにせこれを使えば1年間で約240枚のバランを捨てずにすむのだ。
なんで365枚じゃなくて240枚かというと、土日は除くかららしい(パッケージ裏面に説明あり)。そうか。そうなのかな? 深く突っこむこともないか。
さて、そうして色のポップさに気を許していたら、形にも変化があわられはじめた。
ギザギザが丸くなったのだ。
うーん。ギザっとしたものを見たら丸くしたい気持ちは分からなくもない。トゲトゲは手に刺さったら痛いですもの。
これもまあ、バランとしてはアリだろう。
ここで急展開
しかし、それを許してちょっとよそ見をしているスキにバランが思い切った方向へ舵を切り出したのだ。
「バラン→シリコン→ポップなカラーに→ギザギザを丸く」
ここまでは分かった。楽に理解できる。そしたら突然なに。クマさんになっちゃったの。
さっき「あのバランがシリコンになった!」なんて常識的なこと言ってた人が急に「かわいいクマさんがバランになった!」ってどうしちゃったのもう。
だって、クマさんじゃ寿司に刺したときバランとして完全におかしいじゃないのよ。
……。
うーん。そうだな。寿司に飾ってみたら、なんだ意外にバランじゃないかという気もするんだよな。
クマさんという形であっても、色が緑系といういことで首の皮一枚でバランになりえている。
緑色のクマには「自分はクマである。しかしその一方バランでもある」という分別を感じた。
よし、きみはバランだ。
ハート型にもバランとしての意識は感じる
ハート型のバランというものも発見した。
これもクマさん同様、緑色を残すことでまだまだバラン力は健在ということにしたい。
こうして売られるバランの多くは毎日のお弁当のためのものだろう。
バランの進化は「かわいいお弁当作り」という大きなうねりに事故的にのみ込まれているということの結果なのだと思う。
やはり避けては通れない、キャラの道
そこでちょっと説得されてしまった。
「お弁当」の土俵で戦うということはつまり、キャラ化の道は避けては通れないのは当然なのだ。
「キャラ弁」という言葉もある以上、バランだってキャラにならねばやっていけない。厳しい世界、それが弁当界なのかもしれない。
予想通り、キャラクターもののバランも花盛りだった。
キャラクター、バランに対して筋を通す
一見して、こりゃ一気に自由化の波来たなとは思ったが、クマさんでシリコンのバランを目の当たりにした後だけにこれでは驚かないぞという余裕もある。
そして、意外にもこの手のキャラクターのバランは「バラン」としてきちんとしているようにも見えた。
形がバランに近いなど、バランとして誠実に筋を通している。
うん。もうこれならバランでいい。
当初の頭の固さはもはや抜け、あたたかいまなざしをバランに向けはじめていた。
まさかの変形
向けながら、ああ、これもね、バランみたいな形だしね、と思った。下の写真のバランだ。
バラン。寿司を中心に弁当など食品の詰め合わせの装飾や仕切りとして使われるあれだ。
本記事の冒頭に書いた文章だ。
バランは装飾であり、仕切りである。そのはずだった。
一本取られた、とはこういうときに言うことなんじゃないか。
手にとったら、ヌルっとしたのだ。ヌルっとして、ぱかっと開いた。開いて、カップになった。
商品名を見ると「なかよしばらんカップ」。パッケージには「バランでカップ」とも書いてある。
「バランでカップ」? あっ! 「秘書で愛人」だ!
バランがまさかカップになった。社長が連れてきた愛人、意外にむちゃくちゃ仕事ができて社員の私もオワーみたいなことが現実に。
確かにお弁当に使う仕切りとしてカップはバランと双璧をなすグッズ。ここへ来てまさかのハイブリッドが登場とは。誰だろうこれ考えたの。社長か。素直にすごいぞ。
自由化の波も佳境に
キャラ物があって、カップにもなって、なんだ次はなんだろう。もうたいていのバランなら驚かないんだぜ。槍でも鉄砲でも持って来い。
シシトウガラシ(獅子唐辛子)はナス科のトウガラシの甘味種。また、その果実のこと。シシトウと呼ばれることも多い。植物学的にはピーマンと同種。
思わずどうしていいかわからずWikipediaからシシトウガラシの項を引用した次第だ。
はたしてWikipediaのシシトウの項には「バランとして用いられることがある」とは書いていなかった。
しかし私の目の前にはいまバランとしてのシシトウがある。槍でも鉄砲でも持って来いとは言ったが、まさかシシトウやらパプリカやらが転がり込んできた。
想像の斜め上を行くという言い方をまさかバランに対して使うことになるとは。
バランがここまで表現活動を自由活発にさせる対象だとは思わなかった。
中小学校の図工の授業では今後スケッチブックに絵を描くのではなく、バランを作らせるといいんじゃないか。
シシトウの出現、そしてバラン界はあまりにも何でもありになり、完全に秩序は失われた。
かのように思えた。が、シシトウくらいではまだバランはバランだったのだ。
しゃべった
バランはもともと、植物であった。植物を用いていたものがプラスチックの模造品になったことも昔は驚きをもって迎えられたのかもしれない。
そして現在。プラスチックになったことで人を驚かせたバランは、喋りだしたことでまた人を驚かせている。
そして私は今回購入した大量のバランを手に、にぎやかになる我が家のお弁当の未来にうきうきしたのだった。
バランを自由の象徴に
私の時代、中高生のあいだでは茶髪やピアスが自由の象徴だった。自由なものは、ストレートに格好良さを表すものでもあった。
けれど結局、髪は黄色系に明るくしてピアスは耳たぶに2個と軟骨に1個がクール、という具合に縛りがでてきて、あれれ? 自由は? みたいなことになりがちだった。
それに引き換え、バランのこの奔放ぶりはどうだ。家出したっきり、寿司の樽にはもう絶対戻らないし戻れない! みたいな決意を感じさせる。責任ありきの自由だ。
思考が停止しているのではないかと常々振り返ることは大事だ。いつでもバランのような革命的な心をもって、デイリーポータルZの活動にもあたりたいと思います。