京都はむずかしい
海外の人は、京都を見て、「千年の都」という言葉をどう感じるんだろうか。
古い建物は沢山あるけれど、一方で戦後のビルばかりともいえるし。創建年で考えると1000年以上の歴史あるものも多いけど、ほとんどは再建されたものだし。
日本人がヨーロッパの歴史的建造物をみて、中世も近世も近代もごっちゃになるのと同じで、ちゃんと分かろうと思うとちょっと難しいよな…と思う。
まあだからこそ、調べれば調べるほど面白いんだな、京都は。
平安時代より長らく日本の中心であった京都。
今の東京がそうであるように、首都というのは何度も何度も壊され、そして作られるものだ。
応仁の乱などの戦災の影響で、平安時代はおろか、中世の建物も数少ない。今見られる多くの建物は、豊臣や徳川が再興したものなので、意外と江戸・東京と時代的な差は少ないのである。
また、京都の街を「碁盤の目」というけど、実際は豊臣秀吉によって大改造されている。120m四方の正方形だった平安京以来の町割を短冊形に改め道路幅も縮小、これがほぼ現在の道幅となっている。
とはいえ、変化しながらも1200年以上前の都市計画が今に残っているのは、素直にすごいことだと思う。すごいぞ、京都。
よく京都の内外を洛中・洛外と呼ぶが、その境目も時代によって変化している。平安京時代の「洛中」にくらべて、秀吉が22.5kmの御土居で囲った「洛中」はけっこう東に偏り、また北に伸びている。
平安京の内裏(天皇の住むところ)は、今の京都御所よりもっと西側にあったのだ。
また、京都にとっては、明治維新も非常に大きな苦難だった。
天皇が東京に引っ越したため公家町もなくなり、各藩の京屋敷もなくなり、寺院も神仏分離令で縮小されたのだ。それらの跡地は学校になったり、公園になったり、琵琶湖疎水が作られたり、ある意味では京都の近代化の原動力となったともいえる。
これはまったくの余談だが、 筆者が京都市内の大学に通っていたころ、「仏の冷泉」と呼ばれている先生がいた。出席はとらず試験は教科書持ち込み可で、必ず単位をくれるという噂があったからなのだが……。
今調べたらこの先生は冷泉家の第25代当主だった……!
作られ、荒廃し、また作られる。その都度、平安時代の「雅な王朝文化」への憧憬が「京都らしさ」を再生産していくのだ。
そう考えると、古いようで新しい、でもやっぱり古いんだな。
最後に、ちょっと変わり種として、本当に顔についての話をしたい。
日本の仏像の中で、もっとも有名なもののひとつが、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像だろう。
京都市太秦にある広隆寺は、7世紀前半に建てられたという古刹だ。
渡来系氏族である秦氏(はたうじ)が建立し、この仏像も正真正銘の7世紀の古仏であり、国宝中の国宝である。
なんだけど、実は明治時代にけっこう補修されているのだ。
仏像好きの間では有名な話なのだが、明治の修理の際、特に顔部分の虫食いが酷かったため、補修や削りなおしをして、かなり顔の印象が変わってしまったそうだ。
修復以前の画像は検索すれば出てくるのだが、今の穏やかで瞑想的な表情に比べて、すこしふくよかで勝気な印象だ。
正直なところ、今の顔だからこそ、国民的人気を誇っている気がする。
日本の文化財って、仏像にしろ建築にしろ後世に修復や改変をされているものが多い。例えば、法隆寺は創建当時の部材が65%程度だというし、仏像界のアイドル・興福寺の阿修羅像だって、合掌している手の部分は明治時代の想像復元なのだ。
復元=ハリボテみたいに考える人もいるけど、突き詰めると何が本当のオリジナルなのか…という話になってくるので、もうちょい気楽に楽しんだ方がよいのかもしれない。
このあたりは、京都の中でも特に古代ロマンあふれる場所だ。秦氏というのは、平安京遷都前から京都に根を張る古代氏族である。ちなみに伏見稲荷大社も、松尾大社も、創建は秦氏。
この秦氏、興味深いのは自分たちを秦の始皇帝の末裔だと自称しているところ。本当かと言われるとまあ伝説の範疇だと思うけど、この京都の郊外に、秦の始皇帝が祀られているのが面白い。
京都は平安京だけでないし、もっと古いのだ。
奈良にだって負けないぞ。
海外の人は、京都を見て、「千年の都」という言葉をどう感じるんだろうか。
古い建物は沢山あるけれど、一方で戦後のビルばかりともいえるし。創建年で考えると1000年以上の歴史あるものも多いけど、ほとんどは再建されたものだし。
日本人がヨーロッパの歴史的建造物をみて、中世も近世も近代もごっちゃになるのと同じで、ちゃんと分かろうと思うとちょっと難しいよな…と思う。
まあだからこそ、調べれば調べるほど面白いんだな、京都は。
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