特集 2025年7月16日

京都の名所、古そうな顔して意外と新しいんじゃないか?

銀閣寺、龍安寺……庭園ってどこまでオリジナルなの?

次は庭園について。

この庭園というのが、けっこうな曲者なのである。

自然の影響をもろに受ける日本庭園が、数百年たった今も本当に創建当時のままなんだろうか。

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世界遺産、銀閣寺(東山慈照寺)。庭園の日本代表を選ぶなら必ず入ってくると思う
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こちらも世界遺産、龍安寺の泣く子も黙る石庭

17か所ある世界遺産「古都京都の文化財」だが、何を基準に選んでいるかというと、「国宝建造物」もしくは「特別名勝」に指定されているかどうかだ。

銀閣寺は二つの国宝建築があるののでわかりやすいが、龍安寺や金閣寺は当時の建物は残っていない。

室町時代に作られたといわれる庭園が特別名勝だから、世界遺産なのだ(もちろん銀閣寺も特別名勝)。

世の中に江戸時代の庭園というのはけっこうたくさんあるけれど、室町までさかのぼる庭園がオリジナルに近い形で残っているのは、非常に珍しい。だから、特別名勝であり世界遺産。

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室町時代の面影が残る銀閣寺・東求堂前の庭

しかしだ。もし自分が庭園の主になり、数十年、庭園を見続けたとしよう。

本当に、何にも変えずに残せるだろうか。

ちょっと、この庭木は微妙だな…とか、ここに石があったらいいな…とか、変えたくならないだろうか。

そもそも、庭園って木や水の流れなど自然を相手にするものだし、水害や地震が起きたら修復もしないといけない。

そんなわけで、庭園というのは後世にけっこう改変されているものなのである。

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銀閣寺といえば、もっとも印象に残るのは白砂の銀沙灘(ぎんさだん)と富士山みたいな向月台(こうげつだい)だろう

このモダンな造形は、さまざまな説がありつつも、創建した足利義政の時代(1480〜90年頃) のものではないということでは一致しているらしい。安土桃山時代には原型があったともいわれるが、現在の形になったのは江戸時代で、例えば『日本庭園―空間の美の歴史』では、江戸時代中期~後期に今の姿に整えられたと書かれている。

この幾何学的な造形、できた当時の人にしてみたらけっこうな違和感があったのかもしれない。今でいう文化遺産に現代アートを展示するような感じだろうか。

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銀閣前の池泉など庭園の大半も、江戸時代初期に荒廃していたものを修復した姿だそうだ
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足利義政のオリジナルが残るとされる白鶴島付近。銀閣周辺にくらべて、石組みが密で豪華な感じがする
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庭園の上部にある、こちらもオリジナルだという漱蘚亭(そうせんてい)跡(昭和6年に発掘)

これまでチラ見して終わりなところこそがオリジナルだったとは。 今回は訳知り顔でガン見した。

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15世紀半ばにつくられたと言われる龍安寺方丈庭園

龍安寺も、実は新しいかもしれないのだ。

THE・京都どころか、THE・日本といってもいい超有名庭園であるが、こちらも本当のところはいつ作られたか分かっていない。創建時(1450年)のオリジナルだということで特別名勝になっているのだが、江戸時代前期説もあるらしい。

その理由としては、本来儀式の場である方丈南庭が積極的に作庭されるようになるのは江戸時代に入ってからだということと、豊臣秀吉がここで歌会を開いた際、皆しだれ桜については歌にしているが、庭石については誰も触れていないことなどがあげられている。

うーん、室町時代を代表する枯山水庭園、その抽象美の極北…!的に絶賛されてきた石庭なので、できれば室町であってほしいものである。

 

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祇園の町並みも、実はけっこう新しい

祇園の風情あふれる花街。

これらはおおむね江戸時代中期から明治大正にかけて形作られたもので、今の保存地区は1865年の祇園大火以後に建てられたそうだ。

以前、何かのニュースで中国人観光客が夜の祇園を歩き「唐の長安にいるかのようだ」と感激した…なんて話を読んだけど(平安京は唐の長安をモデルに作られた)、京都の中ではどちらかというと新しい街である。

しかも、それだって戦前のまま残っている…というわけでもないのだ。

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祇園新橋(白川)とよばれる保存地区

この写真をよく見て欲しい。

日本の伝統的な町並みとしてみると、ちょっと違和感がないだろうか。

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右手の白川沿いには、お茶屋が並んでいる

道が広すぎるのだ。

一般的な古い町並みは、左右に町家が建ち並び、道幅も狭い。

それなのに、ここは歩道まである。

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通り一つ隔ててこちらが当時のままの保存地区。車がない時代の道幅はこれくらいだ

そう、この白川沿いの町並みは、戦時中の建物疎開の跡なのだ。

建物疎開とは、空襲による延焼防止のために通り沿いの建物を強制的に撤去することである。

木造家屋の密集した京都では特に大掛かりに行われ、1万戸以上が取り壊されたという。御池通や五条通など今の大通りはこの時に道幅拡張したものが多い。

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戦前は、この白川の両岸にお茶屋が建ち並んでいたそうだ
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そうと知ると、たしかにこの面は裏側に見えてくる

戦前・戦後の京都の精細な地図は立命館大学が公開した近代京都オーバーレイマップで見ることができる。この石畳部分のお茶屋がごっそりと取り壊されたのだ。

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昔はこんな感じでお茶屋が両岸にせり出していたのだろう。その情景をあらわした「かにかくに 祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる」という歌碑が残されている

風情あふれる町並みが、実は戦争遺跡だったりする。これこそ歴史ある街の奥深さだと思う。

京都で先の戦争=応仁の乱なんていう話もあるけど、建物疎開もそうだし、西陣の空襲被害もそうだし、京都だって多くの人が戦争の影響を受けているのだ。

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祇園の南側にひろがる花見小路は2001年に石畳化・無電柱化された

また、世代によって見慣れた景色というのが異なる、というのもある。

自分にとって花見小路といえば昔からこの景観なのだが、2001年より前は、電柱の立ち並ぶ普通の舗装道路でかなり様子が違ったようだ。

今となっては想像できない。

なお、この花見小路は江戸時代まで建仁寺の境内だった。明治時代の神仏分離令により寺領没収となった後に建てられた、祇園でも新しい町並みだ。

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高台寺付近の「ねねの道」も、1998年に石畳化・無電柱化され、その際に名づけられたものである
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さらに清水寺へと続く産寧坂も2009年になってやっと無電柱化されたという(石畳はもっと古くから)。意外と最近なんだな
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哲学の道は1972年に命名され、産寧坂や石塀小路などとともに廃線となった京都市電の石畳が敷かれている

こうしてみると、古いものがそのまま残っているのもいいが、変化を追っていく面白さもあるな、と思う。

 

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