近くの図書館に行く
土地のことが知りたかったらその土地の図書館に行くべきである。筆者は過去の調査記事で何度も図書館にお世話になっており、そのたびにそれを実感してきた。今回は川崎市幸区の図書館に行く。なぜなら古市場は幸区にあるからだ。
図書館の奥のほうには地域に関する図書の本棚があり、そこを片っ端から調べ、有力な情報の書かれた3冊の本を見つけることができた。(図書館で情報収集をしているときが一番楽しいです。)
川崎幸区地誌を読む
1冊目は「川崎幸区地誌」である。1989年発行の本で、幸区という狭い地域の歴史を深く伝えてくれている。地元の図書館ならではの蔵書である。そこには1945年と1983年の道路網の図[3]が掲載されていた。
卍が形成されたのは、1945年から1983年の間だということがわかった。意外にもけっこう最近だ。(1945年が「最近」と感じられるのは、前回の調査で江戸時代の出来事を調べていたせいだ。)
さらに、この本には1983年の幸区内の商店街の地図[4]もあった。
また、当時の古市場の商店街について、詳細な記述[5]を見つけた。
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あの卍型の道路が本では「ロータリー」と表現されているのが少し可笑しい。確かに正方形の道が環状になっているが、自分の知っているロータリーとはずいぶん違う形をしている。
さて、この本にあった「商店街の地図」と「古市場の商店街の詳細な記述」の2つの情報を、今の地図[1]に重ねてみるとこうなる。
「にぎわっていた」と過去形なのは、いまはほとんどお店が無く、にぎわいが見られないからだ。
どうしても当時の様子を見たい方は、2009年撮影のGoogleストリートビューを見てほしい。全盛期と比べるとそれほどでもないのかもしれないが、そこには商店街のかつてのにぎわいがギリギリ残っている。
・卍を中心に商店街が広がり、にぎわっていた
古市場村の歴史
ここまでの調査を踏まえ、筆者は、卍を中心として商店街が広がっていたことと、地区の名前が「古『市場』」であることに関係があり、それが卍の手掛かりではないかと推察した。かつてここに市場があって、(よくわからないが)その都合で卍の形になった?そして、そのおかげで商店街も発展した?
図書館で次に見つけた資料はまさにそれに答えるものであった。川崎地名辞典に「古市場村」の項があり[6]、古市場村の歴史を事細かに伝えている。
結論から言うと、この場所に市場は無かった。なぜかというと、もともとの古市場の場所は東京都大田区矢口3丁目にあったからだ。地図上の位置関係[2]はつぎのとおり。
つまり、「古市場」という地名は市場の存在に由来するものの、その場所は現在の古市場とは一致しない。したがって、卍の由来に市場は関係がない。
ここで、鋭い読者は「多摩川の洪水で流路が変わっても、その地の座標は変わらないのでは?」と思われるかもしれない。しかし実際のところ、洪水によって土地を失った村人たちが集団で移り住めば、土地の名前も移動するのである。
・なぜなら、古市場という地名は、古市場が別の場所に存在したときのものだから
筆者の仮説は否定されてしまった。
しかし、大きな発見もあった。古市場村の沿革[7]の1945年と1948年の項に、次のような記載があった。
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1945年の大空襲で古市場は焼け野原となり、1948年に区画整理が実施された。区画整理とは、道路などの公共施設の整備とあわせて、土地の形や配置を整理し直す事業である。
これは、ひとつ前の本で得た「卍が形成されたのは1945年から1983年の間」とも合致する。ここから推察されるのは、焼け野原からの立て直しで古市場の街全体を作り直す際に、設計者が卍の道路を設けたのではないか?というものだ。
・1948年に区画整理が実施された
古地図で見る川崎市
3冊目は「発掘写真で訪ねる川崎市古地図散歩」という本である。そこには、まさしくその区画整理についての言及[8]があった。
この本に載っていた昭和30年(1955年)の地図[9]をみてほしい。
これで一気に真相に近づいた。この本によれば、卍は1948年の区画整理で作られたということになる。やはり、区画整理は卍の形成にかかわる重要イベントであった。
・当時、このあたりは「古市場住宅」であった
ここまでが図書館の調査である。 これでようやく、「卍がいつ作られたか」(WHEN) の答えにたどり着いた。
続きはインターネットで調べる
自宅に帰り、続きをインターネットで調べる。図書館で手に入れた検索ワードを使って「古市場住宅 開発」などで検索すると、有力な記事[10]が1件見つかった。その記事は、学習院大学の大学院の論文[11]を引用しながら、古市場住宅の造成事業について解説している。詳細について知りたければ、引用元の論文を読むのが良さそうだ。
以下、引用元の論文の内容をできるだけ分かりやすく、筆者なりの紙芝居で解説する。
ここでいったんストップ。例の卍である。1941年の時点で卍が計画されていたのだ。 そして、実際のまちづくりは川崎市から住宅営団に依頼される。住宅営団とは、戦時下の住宅供給事業を行った官民協力型の団体である。
これは筆者の推察だが、川崎市は古市場住宅地化計画にあたって、中央の交差点を特別なものにしたかったのではないか。だから卍型の特徴的な形にしたし、その付近に日用品や福利施設の配置を提案した。卍への熱意が感じられる。
以上が事の真相である。川崎市の卍への熱意を感じ、それが実現したことを知り、「よかったなぁ」という気持ちになった。実際、2010年頃まで卍を中心とした商店街がにぎわっていた。当然、そこでは日用品が売られていたことだろう。また、「福利施設」としての銭湯は今も存在する。川崎市の要望通りだ。
……あれ、ということは、あの銭湯「越の湯」は卍と同時期に出来たのだろうか?だとすれば、越の湯の主人に話を聞くのはどうだろうか。しかし、調べたところ、越の湯の創立は1967年で、卍が出来てから20年も後だったので断念。
それでも、かなり詳しいところまでわかってきた。
・1941年に川崎市が作成した計画図に、卍の交差点が存在する
・川崎市が住宅営団にまちづくりを依頼した際にこの交差点に言及していることからも分かる通り、川崎市がこの交差点に掛ける思いは大きかったと推察される
・住宅営団は川崎市の要望に沿う形で古市場の住宅地開発を行い、1947年に卍の道路が実現した
なお、図書館で得た情報では卍の道路が出来たのは1948年であったが、論文や航空写真によれば 1947年である。1年のズレがあるが、さすがに航空写真は動かぬ証拠ということで、卍の道路の実現は1947年と結論付けたい。
これで最初の疑問の答えは出た。
「卍」の形の交差点の成立について
→ 1941年の計画図に登場。
1947年に実現。
・だれが (WHO) がつくったか
→ 計画は川崎市の都市計画課。
実現させたのは住宅営団。
→ 人口1万人以上が集う地区の
中央の交差点であり、
特別なものにしたかったのでは?
(筆者の推察)
よし……。と言いたいところだが、完全にクリアになったわけではない。最後の「なぜ」(WHY) の部分は筆者の推察であり、設計意図についての文献を見つけることはできなかった。
また、その推察にも疑問は残る。特別なものにしたかったからといって、わざわざ交差点を卍型にするだろうか?カーブが4つも増えて不便ではないか? 本当に利便性を考えたら、ふつうの十字路のほうがいいのでは?
そこからは来る日も来る日も「卍の設計意図」について調べていたが、どうにも見つからない。

