歴史の連絡船とまぼろしのフェリー
話は関門海峡をめぐる旅に戻る。
海峡を渡るなら、”王道”の手段は船をおいてほかにない。ということで第五のルートは関門連絡船である。
連絡船は、ぎりぎり詰めれば100人くらいは乗れるかなというような小型船だ。
むかしの関門海峡には、橋もトンネルもなかった。この連絡船のみが関門海峡における唯一の公共交通で、国鉄の駅からそのまま船乗り場に接続されていたそうだ。
そういうわけでこんにちの連絡船は、実際的な意味合いはほぼなくなりもっぱら観光用である。片道運賃400円は、交通手段としてはほかのルートと比べても高額だ。ただし下関と門司の最大の観光地を最短距離で結んでいるので交通手段としてそんなに悪くはない。
出港時、下関方面に向けて回頭するときに火の山公園がくっきりと見えた。
余談ながら船つながりで、地図に気になるスポットを見つけたので紹介しておきたい。関門海峡フェリー「乗り場跡」である。
さっき乗ったのは関門連絡船で、こっちは関門海峡フェリー。フェリーのほうが乗り場がだいぶ西寄りで、日本海側への出口付近にあたる。「乗り場跡」というからにはすでに役目を終えているのだと思うけど、関門海峡の横断をテーマにした旅なので、跡地でもいいから一目みておきたいと思い寄り道してみた。
地図にしたがって下関の海岸沿いにレンタカーを走らせる。近くまでは来ているはずだが、なかなかそれらしい建物も見当たらない。何度か素通りしたすえに、この空き地が跡地であることがわかった。
とっくの昔にフェリーターミナルの建物は取り壊されていたようで、奥にひっそりと見えるボラードは唯一、フェリーが行き交っていた痕跡となるかもしれない。
調べてみたら航路廃止は2011年。この場所から対岸の小倉(北九州市の中心部)まで船が出ていたらしい。周辺の有料道路などの整備などで需要が減退したようだ。関門海峡を横断する、まぼろしの7番目のルートということになるだろうか。
あたりは車も人も通らず、ぎゅっと胸が詰まるような寂しさであった。
ひとの入り来る小倉の街
この旅のしめくくりとして、北九州市の中心部、小倉まで足を延ばしてみた。
小倉といえば関門エリアで最大の街。というか九州全体でもナンバー2の大都市である。
むかし、ここからモノレールで数駅いったところに5~6年住んでいたけど、小倉の中心地まで出かけたというような記憶はほとんどなく、懐かしいという感じはぜんぜんしない。
数時間の空き時間があったので、ふつうの旅先の街歩きのつもりでぷらぷらと商店街を歩いてみた。
北九州は活気がなくなってきたと言われ続けて久しい。人口減少に歯止めがかからず、高齢化は進むばかり。日本の課題を先取りしたようなこの街だが、正月からなかなかの人出だ。
これにて旅は終了であるが、小倉まで足を運んだのは街ぶらのためだけではない。ここまで来ないと、最後の海峡越えができないのだ。
とんちっぽい気がしないでもないけど、在来線とは別の海底トンネルなのでこれもルートの一つとして数えるべきだろう。
車内で眠ってしまった訳ではないけど、海峡のかなり手前から地下に潜り、気がつけばするりと関門海峡を渡り終えていた。
めっちゃ乗ってた第七のルート
この旅から帰ってきて1週間後。実家に帰って両親にあってきた。祖母の様子などを伝える際、ふと思い出したので、廃線になったフェリー乗り場のことも聞いてみた。
「ああ、あれもう結構前に廃止になったんやない。もうだんだん、あんまり人も乗りよらんかったけ」とよく知っている様子だ。というか口ぶりからすると、まあ父は何度も乗ったことがあるのだろうなと思った。
このとき突然、ぞわぞわとした感覚が突き抜けた。嫌な感情ではないけど、恥ずかしいような後ろめたいような感情だった。あれ、ひょっとしておれもあのフェリー乗ったことあるよな…?
「え?そうよ。だってお母さんの実家と乗り場がすぐやろ。そっちに用事あるときは関門トンネルよりもフェリーのほうが便利やったし」
あああ、なんということ。やはりそうなんだ。実は両親に質問してみようと思い立った瞬間にふと、家族で車に乗ったままフェリーに乗り込んでいくシーンが急に思い出されたのだ。この情景をきっかけとして芋づる式に、乗船の待機列に並んでいるあいだにカップラーメンを食べたシーンや、航行中に車から降りて海をみたいとごねたシーンまで(「もうつくからじっとしてなさい」と押し切られた)、どんどん記憶の引き出しが開いていった。
「なーん、おぼとらんの」
はい。完全に忘れてました。なんであの乗り場でこの記憶に思い至らなかったのだろうか。
ということで改めて。ずいぶん昔のことも含みながらですが、この旅で関門海峡の7つのルートを制覇したと訂正させてもらいます。