昔ながらの風景を後世に残すための制度である重要文化的景観。同じく文化財保護法のカテゴリである「国宝・重要文化財」や「重要伝統的建造物群保存地区(古い町並み)」ほど分かりやすいとはいえないが、その土地ならではのユニークな特徴を持った景色が残っており、なにより「なんとなく良い感じの風景」を目にすることができる。
そのどこか懐かしさを覚える風景こそ、日本の原風景というものなのだろう。価値ある文化財として大事にしていきたいものですな。
日本の古いモノを守る法律である文化財保護法には「重要文化的景観」(以下、重文景)というカテゴリが存在する。
これは全国に残る昔ながらの風景を保護するための制度であり、重文景に選定された地域をたどることで、日本各地の原風景を体感することができるのだ。
重文景は土地に根差した人々の生活や生業によって育まれてきた風景を対象とするもので、その種類は実に多様かつ複雑である。
中でも多くの割合を占めているのが農業に関する景観であり、特に棚田は重文景の花形といっても過言ではないだろう。山の斜面に拓かれた雛壇状の棚田は、どれも壮大で目を見張るものばかりだ。
蕨野における棚田の開墾は江戸時代の末期が始まり、明治時代から昭和20年代にかけて拡張され現在に見られる姿になったという。標高150~420mに渡って1000枚以上もの棚田が連なっており、まさに西日本を代表する棚田というべき威容である。
姨捨の棚田は長野盆地の南端部、千曲川を望む三峰山が地すべりを起こして堆積した土地に築かれている。西日本の棚田はその多くが石積みで築かれているが、東日本の棚田は土を固めた土坡(どは)であることが多く、姨捨の棚田もまたしかりだ。
姨捨の一帯は平安時代の頃より観月の名所として知られており、『古今和歌集』や『新古今和歌集』、『更級日記』などにも姨捨から見る月の様子が詠まれている。
近世に棚田の開発が進むと、水を張った棚田の一枚一枚に月影が映る「田毎(たごと)の月」が著名となり絵画にも描かれるようになった。実に古くからのいわれがある棚田である。
とまぁ、まずは東西の棚田ビッグ2を紹介してみたが、これら以外にも重文景に選定されている棚田は数多い。いずれも限られた土地を最大限に利用すべく様々な工夫が凝らされており、見た目も個性的なものばかりだ。
そもそも棚田は地形に沿って築かれるものであり、故に曲線的かつ不成形であるのが一般的である。しかしながらこの坂元棚田は幾何学的な長方形の棚田が整然と配されている。
というのも、坂元棚田が築かれたのは昭和初期と比較的新しく、牛馬を用いて耕作を行うことを前提として設計されているのだ。その直線的な法面は昔ながらの棚田とは一線を画しているが、合理的な設計思想による産業遺産として評価されている。
棚田に似た農業景観として、愛媛県の宇和海沿岸には「段畑(だんばた)」と呼ばれる耕作地が広がっている。この地域は険しいリアス式海岸が続くことから平地が極めて少なく、人々は少しでも多くの耕作地を確保すべく急傾斜に石積みを築き半漁半農の生活を営んできた。
宇和海における段畑の造成は江戸時代から始まり、明治時代には山の裾野から上部まで段畑が続いていたという。しかし石段を上り下りする農作業は極めて過酷なものであり、耕作機械を入れることもできないことから、戦後は徐々に衰退していった。
そのような情勢において、現在も段畑が良好な状態で維持されている2地域が重文景に選定されているのだ。
南北に長い日本には様々な気候や地形が存在する。人々はそれらの風土に適応して生活を営んできた。重文景に選定された地域は、その土地ならではの特徴を色濃く残しているところが多い。
中でも特に分かりやすい特徴を見せるのが、石川県輪島市の「大沢・上大沢の間垣集落景観」であろう。能登半島の北西に位置する大沢および上大沢の2集落が、ひとつの重文景として選定されている。
この大沢集落は能登半島の中でも日本海に面した外浦と呼ばれる地域に属している。北側が開けていることから冬には猛烈な北風が吹き付けるため、高さ4~5mの「間垣」を立てて波風から集落を守っているのである。
間垣は木材で組んだ骨格にニガタケ(細長く伸びる竹の一種)を隙間なく並べて築かれており、それらはいずれも集落裏手の里山で採取できる身近な素材である。
コンクリートや鉄板などより強固な建材が普及した現在にあっても、この地域では伝統的な素材と手法による間垣が維持されているのだ。
さて、お次は山村集落を見てみよう。滋賀県東部の米原市、伊吹山地の西麓を流れる姉川の上流域は東草野と呼ばれ、そこにある4つの集落が「東草野の山村景観」として重文景に選定されている。
山々に囲まれた東草野は雪深い土地であり、冬季には雪が2~3mも積もるという。なので各家は「カイダレ」と呼ばれる深い庇を備えており、積雪時にも作業ができるスペースを確保するなど雪国ならではの工夫を見ることができる。
東草野の主要産業は農業であるが、雪に閉ざされる冬季には各集落ごとに異なる副業が営まれてきた。
中でも良質な花崗岩が産出される曲谷集落は古くより石工が盛んであり、江戸時代には石臼の里として知られていた。今でも曲谷集落では未製品の石臼を転用した石段や蔵など、石工の村ならではの集落景観を目にすることができる。
重文景は小さな集落のみならず、規模の大きな町場が選定されることも少なくない。一見しただけでは普通の町のように見えても、重文景に選定されるだけの理由があるものなので、町の歴史や特徴を押さえておくとより一層楽しむことができるだろう。
例えば、山形県では最上川の舟運で栄えたふたつの町が重文景に選定されている。そのうちのひとつが最上川中流域の大江町に広がる 「最上川の流通・往来及び左沢(あてらざわ)町場の景観」だ。
最上川に関するもうひとつの重文景は、より上流の舟運拠点であった長井市の「最上川上流域における長井の町場景観」である。
長井は舟運の拠点であった歴史もさることながら、その最大の特徴は町全体に張り巡らされた水路網にある。これは町のすぐ側を流れる置賜野川(おきたまのがわ)の水を分散させて氾濫を防ぐため、江戸時代の中期に整備されたものである。
またこの水路は治水のためのみならず、生活用水路としても利用されてきた。各家は「入り水」と呼ばれる水路を敷地内に引き入れ、その水を活用してきたのだ。
長井の水路網は置賜野川の水量を抑制しつつ人々の生活も潤うという、まさに一石二鳥の水利システムなのであった。
重文景は地域によってやや偏りが見られるが、特にその数が多いのが滋賀県の琵琶湖岸である。
中でも琵琶湖北端の葛籠尾崎(つづらおざき)に位置する菅浦集落は中世の自治形態である「惣(そう)」の伝統が今もなお受け継がれている集落であり、周辺の山林や湖面域を含む範囲が「菅浦の湖岸集落景観」として重文景に選定されている。
菅浦集落はまさに陸の孤島というべき入江にあり、1966年に道路が開通するまでは舟もしくは徒歩で山を越えるしかアクセス手段が存在しなかった。
南に開けている上に湖岸から水深が急に落ち込んでいることから波風の影響を受けやすく、「ハマミチ」と呼ばれる路地に沿って波除けの石垣が連なっているのも特徴的だ。
多くの重文景がある琵琶湖岸地域において、特に目を引くのが琵琶湖西岸の高島市である。なんと同一の自治体に3件もの重文景があり、これは全国唯一である。
それら高島市にある重文景のうち、最初に選定されたのがマキノ地域の「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」だ。
海津地域は琵琶湖で最も幅が広い部分に接していることから波風が強く、台風などで大波が起きる度に被害を受けていた。そのことを憂いた高島郡代官が元禄16年(1703年)に石積みの堤防を築き、以降は水害がなくなったという。
現在もマキノ地域の湖岸には2.5mほどの石積み堤防が約1.2kmに渡って連なっており、これはなかなかに圧巻である。
高島市から選定された2箇所目の重文景は、水田が広がる高島平野に位置する「高島市針江・霜降の水辺景観」である。湧水を利用した水利システムが特徴の重文景だ。
カバタの仕組みがなかなかに興味深く、地下25mの水脈から湧き出た水はまずツボイケに蓄えられ、そこから溢れた水がハタイケへと流れ出るようになっている。
ツボイケに溜められたキレイな水は飲料水に用いられ、野菜や果物を冷やすのにも使われる。ハタイケでは鯉などの淡水魚を飼育しており、料理などで出た野菜カス、食事に使った食器や鍋などを沈めておくことで、生ごみを魚に食べさせて処理していたという。
高島市における3箇所目の重文景は、高島平野の南端に広がる「大溝の水辺景観」だ。
織田信長が居城を築いた安土城の対岸に位置することから、その守りを固めるべく築かれた大溝城の城下町をルーツに持ち、江戸時代には陣屋町として栄えた歴史を持つ。
琵琶湖岸は全体的に湧水が豊富な地域であるが、この大溝に限っては地下水に鉄分が多くて飲料に適しておらず、井戸を掘ることができないという欠点があった。
そこで生活用水を確保すべく、「古式水道」と呼ばれる上水道が整備された。背後の山々にある水源から竹筒(現在は塩ビパイプ)を継いで町へと導水し、所々に「タチアガリ」と呼ばれる分水槽を設けて各家に分配する仕組みである。
さて、お次は少し趣向を変えて、岩手県遠野市の「遠野 荒川高原牧場 土淵山口集落」である。
柳田国男の『遠野物語』で有名な遠野の周辺地域は古くから馬産の地として知られており、早池峰山の南麓に広がる荒川高原では現在も乗用馬の生産が行われている。
遠野地方における馬産の特徴は、夏季に家畜を山へ放牧し、冬季には里に下して飼育する点にあるという。この神社は夏季に牧場への放牧を行う起点でもあったそうだ。
重文景は製造業の産業景観も含まれている。大分県日田市の山間部に位置する小鹿田(おんた)の皿山集落は「小鹿田焼」と呼ばれる陶器の生産地として知られており、狭い谷間に沿って窯元が軒を連ねている光景を目にすることができる。
小さな谷間の集落であるが、路地を歩いていると唐臼の音や沢のせせらぎが聞こえてくる。陶土を砕くところから焼成まで陶器の生産工程がコンパクトにまとまっている点もポイント高い。個人的にお気に入りの重文景である。
これまでの重文景をご覧になっての通り、ひとくくりに重文景といっても実に様々な景色があるものだ。最後に紹介するのは、中世の荘園にルーツを持つ重文景である。
これらの地域では、田畑や集落など土地利用の在り方が昔の絵図とあまり変化しておらず、中世荘園の様相を今に残しているといえる。これぞ、まさに農村の原風景というべき地域であろう。
田染荘は11世紀に成立した宇佐神宮の荘園である。当時から大きな力を有していた宇佐神宮は九州の各地に荘園を有していたが、その中でも田染荘は「本御荘十八箇所」のひとつとして重視されていた。
こちらは東北地方、岩手県一関市の山間部に位置する本寺地区である。中世の頃は「骨寺村」と呼ばれており、平泉の主要寺院である中尊寺の荘園であった。
本寺地区は西側に聳える栗駒山を水源とする磐井川が通っており、栗駒山から強烈な西風が吹き下ろす土地柄である。故に各家は屋敷林を備えて家屋を強風から守っているのである。
また鎌倉時代に描かれた『陸奥国骨寺村絵図』には骨寺村の様子が詳細に描かれており、水田や水路、社寺や祠などの位置が現在と一致するものが多い。この本寺地区もまた中世荘園の様相を残す集落として貴重な存在である。
昔ながらの風景を後世に残すための制度である重要文化的景観。同じく文化財保護法のカテゴリである「国宝・重要文化財」や「重要伝統的建造物群保存地区(古い町並み)」ほど分かりやすいとはいえないが、その土地ならではのユニークな特徴を持った景色が残っており、なにより「なんとなく良い感じの風景」を目にすることができる。
そのどこか懐かしさを覚える風景こそ、日本の原風景というものなのだろう。価値ある文化財として大事にしていきたいものですな。
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