友達が連れていってくれた「ひとんちみたいな店」
020年1月下旬、友人であるヤスタライズさんと久々に食事をすることになった。ヤスタライズさんはミュージシャンで、主にヒップホップの曲を作っていて、「SMOKIN' IN THE BOYS ROOM」というクルーに所属していたりする。
Yasterizeという綴りが正式名なのだが、今回は読みやすさ重視でヤスタライズさんと表記させてもらいます。
そのヤスタライズさんは横浜市に住んでいて、「横浜の方にナオさんと行きたい店があるんで案内させてください!」と以前から言ってくれており、日程を調整してその店を訪ねることになったのが1月下旬だった。
ヤスタライズさんの指示通り、お昼に横浜市営地下鉄「岸根公園駅」に到着した。
駅出口から大通りを歩くこと数分。住宅街へと続くゆるやかな坂道へと折れ、そこでヤスタライズさんは立ち止まった。
「ここです!」とヤスタライズさんが言う。事前に電話して予約を取ってくれているそうなので、入って怒られることはあるまい。
店の中も、やはり「家」だ
ドアを開けると、まさに家らしい玄関で靴を脱ぎ、家らしい居間に通された。
ちなみに、店内の写真については「どこでも好きに撮ってください」との許可をいただいたものである。
家みたいだけど店なのでもちろん色々なメニューが用意されている。餃子、なすピーマン炒め、八宝菜などなど中華料理がたくさん。
瓶ビールをもらって乾杯しつつ、いくつかの料理を注文させていただき、それを待つ間にヤスタライズさんの話を聞く。
ヤスタライズさんはこの日も同行してくれた奥様と一緒によくこの辺りを車で通るそうで、「なんか家みたい店があるな」と気になりながらも、いざ行くとなると勇気が出せずにいたという。
後ほど店主の上重さんに聞いたところによると、店の外観上、なかなか一見さんが入ってくることがないらしく、近くをパトロールする警察官ですら入店するのに2年かかったという話があるそうだ。
この場所で営業を始めて14年になるといい、そのきっかけは店主の義理のお母さんが体調を崩して入退院を繰り返すようになったことで、そのお世話をしやすいようにと自宅を店にするスタイルにたどり着いたという。義理の母に続き、後に奥さんも病気をしてしまい、結局そのまま自宅で営業を続けているんだとか。
厨房から運ばれてくる料理がことごとく美味しい
家なので台所がもともとあるのだが、営業許可上、提供する料理を作るための厨房は外に別に作られている。一度玄関から外に出たすぐの場所にある。
そうして運ばれてくる料理はどれも絶品である。
目隠し状態で連れてこられたとしても「こんなに美味しい料理が運ばれてくるということは、さてはここ、家じゃないな?」と気づけるであろう。
参加者みんなで焼酎のボトルを入れさせていただき、腰を据えて飲むことにした。「氷がわりにこれ使ってください」と店主は冷凍レモンを持ってきてくれた。
絶品料理をつまみつつ、上重さんのお話を色々と伺った。
店主が元気なのは酒のおかげ
――この場所で営業をスタートしたのが14年前とのことでしたけど、それ以前は別の場所でお店をされていたんですか?
「そもそもは、(横浜市神奈川区にある)六角橋で『餃子菜館』っていうラーメン屋を20年間やってたんですよ。それから今度、原宿に日本酒を飲める店を出して、そこが立ち退きになって3年後に中目黒に移って、それが平成元年でしたかね。そっちは『越後』っていうお店でね。そこを閉めて、今の場所でやるようになって」
――居酒屋さんをやられてた時期もあったんですね。
「そうです。日本酒を出して、料理は中華料理を出して。もう今年で私、80歳ですよ」
――お顔がツヤツヤされてますね。
「お酒飲んでるから(笑)」
――ははは。いいお酒を飲んでるんでしょうね
「私が新潟出身でね、新潟の美味しい蔵元から直に仕入れてるから。でも私は今はお金がないから安い焼酎ばっかり飲んでます」
――新潟のご出身で、それで「越後」というお店の名前だったんですか
「そうそう。近くに音楽スタジオがあったから音楽関係の人がよく来てくれてたんですよ。奥居ちゃん、杉山さん、浜省とか、あとB'zの松ちゃんね」
――わーすごい!杉山さんっていうのは……
「ああ、清貴さんね。オメガトライブの」
――すごい面々が。店長も音楽がお好きなんですか?
「いや俺は、全然知らん!」
料理はすべて独学で身につけたという
――そこからこの岸根公園の方にお店を移されたわけですね
「ここはもともと自分の家として買っていた場所でね。35歳で買った。その頃は六角橋でラーメンやってましたから。女房のお母さんが具合悪くなって、それで病院に行ったり来たりしてたから、とうとうここをお店にしようということになって」
――それでもこうしてやられているのがすごいです
「今はもう一人で手がいっぱいだから、ここがちょうどいいです。女房も病気をして、最後の方は機嫌が悪い時が多くてお客さんとケンカしたりしてね。それでお客さんがいなくなって、戻ってくるのに3年ぐらいかかりましたよ(笑)」
――普段はご常連さんが多いんですか?
「ここはふらっと入ってくる人いないからね(笑)でも、休みなしでやってんですよ。12月も30日までやっていて、31日と元旦だけ休んだな。年明けは結構予約が入っちゃってね。コースもやっていて、数日前に予約してもらわないといけないんですけどね。コースは中華料理だけじゃなくてフランス料理も入ったり」
――そういう料理はどこかで修行したんですか?
「いやいや、全部独学ですよ。ラーメン屋の頃も長崎にちゃんぽん食べにいってみたり、台湾に行って色々食べてみたり、横浜中華街には毎週通っていました。自分で食べてみて、その味を自分流に直していく。参考書を買って読んでもさ、プロのレシピはたいてい調味料を1つ2つ抜いて書いてるんですよ!完璧にその通りには書かないんですよ」
――そういうものなんですか(笑)新潟出身で、東京に出て来られたのはいつ頃ですか?
「魚沼から15歳の時に出てきました」
――15歳で!
「私らの時代はみんなそうでしたよ。勉強するのが嫌いな子は働きに早く出て。私は勉強が大っ嫌いだったからね。15歳で原宿に出てきて、日本蕎麦の店に6年勤めました」
――その頃の原宿ってどんな町だったんでしょうか
「今とは全然違うよね。お店はなくて連れ込み旅館ばっかりだったね。あの辺は米兵がたくさんいてね。うちの店は竹下通りまっすぐ行った、明治通り沿いで、蕎麦の出前は渋谷とか千駄ヶ谷の方まで色々行ったな。江利チエミさんとか、山田五十鈴さん、作曲家の服部正さんのところとか。左手に、ここの天井ぐらい高くまでせいろを重ねて持って、風にあおられて倒れたりね。その頃は台風でも店を休みにしなかったから」
「当時、10年ぐらい勤めたらのれん分けさせてもらえたんだけど、今みたいにプラスチックのせいろなんてないし、日本蕎麦は結構資本がないと店を出せなかったんです。それで中華の方にいったんです。中華ならカウンターがあってどんぶりがあって、あと鍋とスープ煮る寸胴があればなんとかなるんでね」
新潟の地酒の美味しさに目覚めて
「それで21歳ぐらいから中華の方で働いて、最初は3年ぐらい出前やって。だけど、そこの親父さんも、もとは洋食のコックさんだったし、私は料理の先生っていなかったですよ。味のことは教えてくれなかった。だから自分で独学で、それで独立して、六角橋にお店を出したんです」
――そこでラーメン屋さんをずっとやって、そこから居酒屋を始めることにしたのはどうしてだったんですか?
「どっちかって言ったら、ラーメンより料理の方をしたかったんですよ。ラーメン屋だけだと酒類ってそんなに売れないですよ。もっとじっくり美味しいお酒を飲んで、色々料理を食べてもらいたいと。それで越後のお酒を置きながら、中華料理を出す店をね」
――地酒と中華料理の店ってあまり聞かない気がします
「そうだね。いい加減なんですよ(笑)いい加減な人生なんですよ。酒は40歳からおぼえたんです。それまでビールばっかり飲んでた。1年間、仲間と日本酒の勉強会をしてたの。集まって日本中の地酒を飲んで。そうやって飲んで、新潟のお酒が一番旨いなと思ったの」
「その頃、たくさんお客さんが来てくれて、その雑誌の篠崎正嗣さんなんか、ずっと仲良くしてくれて、今でも年に1回は一緒に食事していますよ。彼にはお世話になりました」
――他にもずっと昔から通っているお客さんがいるんですか?
「はい。大学時代から来てる子たちが、今、67歳(笑)。40年以上来てる。毎年飲み会やってくれてますよ。15人ぐらいでギュウギュウでね。それで、そんなにたくさん来ると私一人ではできないから、孫が手伝いにきてくれたりね」
――お孫さんも手伝ってくれているんですね
「娘や孫が可愛くて、それで仕事が頑張れてるようなもんですよ。忙しい時は手伝いに来てくれます。この間、中学生の孫と赤レンガ倉庫にライブ見にいってきたんですよ。音楽の」
――いいですね!なんのライブですか?
「クレイジーケンバンド」
――いいなー!
奥さんの話と自慢のラーメン
「女房とはね原宿で出会ったの。女房のお兄さんが原宿にいて、兄貴みたいに私が可愛がってもらってたんです。で、そこにたまたま遊びに行ったらいて、だから、デートもしてないですよ」
――そこから自然に、というか
「なんか、向こうが来た(笑)ちょうどその頃、その家に泥棒が入りそうになって、おばあちゃんからも『危ないからしばらくいてくれ』って言われてね。それもあって、兄貴の家でお酒飲んでると『泊まっていきな』って。もちろん、そんな時に手を出したりはしませんよ。その頃ちょうど私もそろそろ独立したいと思って、親にそう話したら『先に嫁もらった方がいい』って言われてね、それで女房に『結婚するか?』って言ったら、『する』って」
――そうだ。麺類のメニューもありますけど、これは六角橋時代からの味なんですか?
「いや、今の方が美味しいですよ。昔は忙しくて、スープに時間をかけられなかったの。今は12時間かけてしっかり作れるから。だから今のほうがラーメンは美味しいです」
――〆にラーメンをいただきたいと思うのですが……
「どれにします?どれ食べてもいいと思う。好き好きでね。『北京らーめん』は醤油ベース。北京の料理って醤油の味付けがメインなんですよ。一番たくさん具が入るのは『広東らーめん』だね。アサリやイカとか入るから、それは塩ベース。『担々麺』は練りごまにラー油の辛さなんですよ。『四川らーめん』は、ひき肉が『担々麺』より入って醤油ベース。豆板醤の辛さで玉子も入りますよ」
――……だめだ、なかなか決められないです!
「『四川らーめん』のスープにご飯を入れて食べる人も多いし、私は『担々麺』の方が好きだけどね、『広東らーめん』は40何年前に長崎で食べた一番うまいちゃんぽんを参考にしたの。いい材料を使ってますよ」
――じゃあその「広東らーめん」と普通の「らーめん」を1つずつください!
――美味しいです!どっちも美味しいです!
「他のラーメンも美味しいですから、また食べに来てください。あとはチャーハンね。中華で働いてる頃、チャーハンは365日、毎日食べてみました。それでわかったんですけど、塩って毎日、湿度や気温によって味わいが違うんですよ。同じ塩でも。長年やってきましたけど、塩の使い方はまだわかってないんです。塩ほど料理を旨くする調味料はないし、まずくする調味料もないんですよ。湿気の多い季節だったら少し炒って水分を飛ばしたりね。チャーハンは塩の味がダイレクトに出て、ごまかせないから怖いんです」
――えー!そう聞くとチャーハンも食べてみたいです
「ぜひ今度食べに来てください。塩によっていかにごはんの甘みを引き立てるか、また、ご飯の甘みでいかに塩の旨みを引き立てるか。中華で働いてる時、まかない食べる時もおかずなんてもらえなくて、そのかわりチャーハンなら文句言われなかった。それで毎日自分で作ってたんです。それが勉強になりましたね。小学校1年生ぐらいの子で、うちで一回チャーハン食べて、それ以来、ここのチャーハンがいいってずっと来てくれる子がいます(笑)」
――次は絶対チャーハンも食べます!ごちそうさまでした!
「上重朋文の店」は夢のような店であり、そして家だった。料理と酒が大好きな店主が行きついた究極の空間だ。
料理も美味しいが、何より上重朋文さんの穏やかな人柄が素晴らしい。茶目っ気もあり、酒好きだというところも最高だ。またゆっくりお邪魔しよう。
教えてくれたヤスタライズさん、本当にありがとうございました!
「上重朋文の店」は11時から20時までほぼ年中無休で営業しているとのことが、席数もなく、お一人でやっているお店なので念のため事前に予約しておくことをおすすめしたい。
また、近隣は住宅街で騒がしくすると苦情が来てしまうそうなのでお店に行く際にはその点、ご配慮のほどお願いいたします!
店主の上重さんの後ろに貼ってある「雨中春樹萬人家」という書は、この店の常連の習字の先生が書いてくれたもので、雨の中に立つでっかい木はみんなが雨宿りできる家みたいなものだ、みたいな意味らしい。
上重朋文の店
住所:神奈川県横浜市港北区岸根町408-7
営業時間:11:00~20:00(日によっては早く閉めることもあり)
電話:045-431-7180