この街に他人はいない
これはあとでわかったことだが、実はこの街の家畜市場はかなり大規模で、個人だけではなく、大口で羊を仕入れた業者が遠くの街の小さな市場に卸して…という商流もある。そのため普通の市場よりも開場時間が早く、朝2時にスタート、遅くとも7時か8時には完全撤収するらしい。
残念ではあるが、過ぎたことはどうしようもない。そもそもおれとしては「生体」の羊を買ってみたいというのはある意味、趣味の領域であった。ささやかな冒険心を満たすために、旅行中に課した小さな挑戦といってもいい。今回は神学校に謝意を伝えるために寄付ができればいいのであって、その目的自体はバザールで枝肉を買えば事足りる。
ベフ、連れてきてくれてありがとう。あとは自分で肉屋に行ってみるよ。そう声をかけようとしたところ、ベフはあちこちに電話をかけながらもう車を発進させた。通話の声のトーンに焦りや苛立ちは感じられない。何か勝算があるのだろうか。
と思ったら今度は急に電話を切って、車を停めて何かを叫んだ。訳がわからないまま、ベフが指さす反対車線の歩道のほうをみる。
「今、あそこに羊を連れた男がいた!たぶん家畜市場の帰りだ」
なるほどそれで?
「それで、彼と交渉して一頭売ってもらうのはどうだろう」
…え?
最初はあまりに大胆な発想にほとんど絶句してしまった。悔しそうに頭をかくベフを見ているうちに、ああ、なるほどなと思うことがあった。
人が連れている羊を直接交渉で買うという発想は、日本人には相当突飛だけど、ベフにはそうでもない。思うに、このあたりには日本語でいう「他人」という概念がないんじゃないかと思う。
ウズベク人は親切な人たちだとよく評される。ちょっとそこまで連れてってと頼まれれば知らない人でも車に乗せてやるし、腹が減っている人がいれば食事を振る舞ってやる。でもこういう行為は日本でも、他人相手ならさておき、知り合い同士であれば当たり前に行われている。
ウズベキスタンの地方都市の場合は、まだ街全体が同じコミュニティの仲間、ある意味では”全員が知り合い”という意識で社会が回っているのではないだろうか。そりゃいきなり通りすがりで、羊を売ってもらおうという発想も生まれてくるわけだ。
そんな風に一人合点して関心していると、ベフの携帯が鳴った。さっき電話をかけた相手からの折り返しのようだった。ベフの朗らかな声が、もう一段、トーンアップする。白い歯を見せながらベフはいった。
「知り合いのところで羊を飼ってるんだけど、見にいってみる?たぶん、頼んだら売ってくれると思うんだよね」
その知り合いというのは、日本語で言うところの知り合いなのか、ウズベク語の知り合いなのか、どっちなのだろう。と思った。
どうやら大物OBになれそうだ
ベフが連れてきてくれたのは、不思議な建物だった。外見は普通の民家なのに、壁はハリボテ状態で、中はがらんどうに近い。薄暗く、剥き出しの鉄骨や塗りかけの壁などが長らく放置されているように見えた。よくいうと新しめの廃屋、本音をいえば地下組織のアジトみたいな雰囲気だなと思った。
ボロ屋の中をくねくねと3回曲がって中庭にでると、はたしてそこには確かに羊がいた。バスケットボールコートほどのスペースに30頭の羊と馬が一頭。なるほど街中ではあるが、これは小さな牧場である。
ベフが牧場の主人に挨拶をする。二人の会話から「ヤポニャ(日本人)」という単語だけが聞き取れた。主人は、事前の電話で羊を譲ってほしいと聞いていたようだが、羊を買うのがベフではなく、隣にいる外国人旅行者だと知って、驚いた様子だった。
主人の命を受けて、取引の実務は牧場の若衆が引き受ける。ひょろっと背の高い、ジャージ姿の若衆がいう。さあどの羊がほしいのか選んでくれ、近くで見てもいいぞ。促されて柵の中に入ると、羊たちがずいずいずいとこちらに近づいてきた。頭突きでもかましてきそうな貫禄がある。
毛並みがいいとか、尻がでかいとか、歯が綺麗とか。家畜選びにはいろんな観点があるのだろうけど、こちらにそんなリテラシーは備わっていない。人類の叡智が生み出した世界共通の基準、「重さ」で選ぶことにした。
子羊なら30kgくらい。大柄な成体の羊なら50kgを超えるというから間をとって40kgくらいでどうだろうか。それならと若衆が手ごろな羊を2頭選ぶ。どちらもまだ大人になりきっていない若い個体で、真っ黒で角があるやつか、薄茶色で角がないやつか。
どっちがいいか?うーん、正直なところまったく判断材料がない。しかし命のやりとりなのにどっちでもいいとは言いづらい。少し考えて、おれなりに敬意をこめて、ちょっとでも体が大きそうな黒いほうを選んだ。この2択をやっているときに、薄茶色がうんこをひりだしており食欲が削がれたからというのもある。生死を分けるのはいつも紙一重である。
台はかりの液晶画面には、重量と同時に、キロ単価をかけた金額が表示される仕組みになっている。ピッピッピと軽薄な音がして、羊の命に値が付いた。
若衆がおれにもわかりやすいよう、スマホの電卓アプリに値段をタップしてくれた。
数字がばかデカくて一瞬たじろぐ。しかしウズベキスタンの通貨であるスムは価値が小さく、244万スムといっても日本円では3万2千円くらいだ。これまでの恩を考えても、寄付としては妥当な金額に落ち着いたと思う。
最後にもう一度、主人が出てきて、明日の昼に引き取りに来い。金はそのときでいいというようなことを言っていた。商談はまとまったようだ。契約書も何もない口約束だけの取引だが、まさか本当に羊を購入できてしまうとは。
どうだろうかベフ、これで学校には喜んでもらえるだろうか。
「このサイズの羊なら、全校生徒180人の2,3日分にはなるよ」
そうかそんなにか。これがもし部活のOBの差し入れだとしたら、かなり大物OB感ある。少なくともその道でプロ入りはしたのだろう。
まだ正午前であったが、無事に羊の手配ができた安堵感からどっと疲れが出た。早朝移動の眠気もあり、ベフとは一度別れ、ホテルでたっぷり昼寝をした。