以上、一見どこにでもありそうな小さな中華屋、そしてそのご主人の、尊敬すべきこれまでの歴史を記させてもらった。
きっと日本全国、いや、世界中のあちこちに、数えきれないほどのこういうストーリーが存在するのだろう。そのなかで、最後の最後のタイミングで龍正軒に出会え、こうして記事を書く縁をもらえたのは、本当にありがたいことだと思う。
初めに断っておくが、この記事で取り上げる「龍正軒」という店は、もうこの世にない。
少し前に初めて訪れ、その良さに感動し、これからたくさん通おうと思っていたところで、今年の4月いっぱいで閉店してしまうことを知った。にわか客の僕が図々しいとは思いつつ、なくなってしまう前にどうしてもこの店の歴史についてを聞かせてほしいと感じ、思い切って取材を申し込み、そこから最速のスケジュールでここに掲載できたのが今日というわけだ。
つまり、もし記事を読んで興味を持ってもらったとしても、この店に行くことはできない。それでも、この小さな中華屋の、決して平凡ではないストーリーを、どうしてもどこかに残しておきたかった。ということをご了承ください。
東京都練馬区、西武池袋線の石神井公園駅から徒歩10分ほどの街道沿い。土地勘のある方にわかりやすく説明するならば「石神井警察署」の目の前に、「龍正軒」という小さな中華料理屋があった。
WEB上の情報だと「りゅうせいけん」と書いてあったりするけど、ご主人が「りゅうしょうけん」と言っていたから、それが正しい読みのはず。
僕は石神井公園に住んでいて、仕事場がこの近くなこともあり、何年も前からよく前を通っていたからその存在を知っていた。けれども、なんとなく、本当にただなんとなく、行く機会のないまま過ごしていた。
ところが先日、同じ仕事場で働く編集者さんと打ち合わせをする機会があった。もちろん仕事場でも打ち合わせはできるんだけど、ちょっと気分が変わりそうなのと、昼時だったこともあり、軽くごはんでも食べつつにしましょうか、ということになった。
そこで、「そういえば近所に中華屋ありますね。あそこにしてみましょうか」と初めて訪れてみたのが、今年の3月上旬のことだった。
カウンターはすでに使われておらず、テーブルが4卓あるだけの小さく年季の入った店内だが、清潔感があって居心地が良かった。
また、左右の壁にずらりと並ぶ黄色い短冊メニューがどれも魅力的で、料理を頼む前からふたり、「いい店ですね!」「なんで今まで来なかったんだろう」と興奮した。
とりわけ興奮したのが、次のポイント。
こういうタイプの店にホッピーが置いてあることは意外と多くない。嬉しくなって思わず、「一杯ずつだけ飲んじゃいますか?」ということになった。昼間なのに。打ち合わせなのに。
あぁ、嬉しい。洗練された味のこの白滝のあえものをつつきながら待っていると、悩みに悩んだ注文の品が届きはじめる。
カリッと香ばしく焼き上げられた皮とジューシーな餡。熟練の技を感じる逸品。
どんなものか気になって頼んでみたら、ゴロゴロっと入ったピーマンが主役を張る肉野菜炒めといった感じで、これまた最高。中華屋の炒め物ってなんでこんなにうまいんだろう。
頼んだどの料理も美味しかったけど、特に感動したのがこれ! 醤油ベースのチキンソテーの上にたっぷりのチーズがとろりとのっていて、ふわりと焼き加減絶妙な鶏肉にたまらないコクとまろやかさを加えている。生まれて初めて食べた料理ということもあって、脳天を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。また、このタレに浸った野菜たちがいいつまみになるんだ……。
「一杯ずつだけ飲んじゃいますか?」という話だったけど、頼んだのはホッピーセット。
まぁ、頼んだ時点で実は、こうなることは想定していた。
この出会いで龍正軒をいっぺんに気に入ってしまった僕。あらためて、今まで来ていなかったことを後悔し、これからはたくさん通おうとワクワクしていた。
ところがその後、あまりにもこの店のことが気になり、ネットで情報を検索してみていて、衝撃の事実を知ってしまう。
こちらは、僕の何百倍も石神井の街に精通しており、地元の酒場では知らぬ者のいない「さかばクン」さんという方が主に記事を書いているブログ。もちろん龍正軒も登場するわけだけど、その記事になんと、「龍正軒が2021年4月いっぱいをもって閉店する」という情報がのっていたのだ。
我が目を疑い、何度も何度も記事を読み返した。が、どう見ても間違いなくそう書いてある。無論、今までにあまり感じたことのないタイプの喪失感に打ちのめされつつ、残された時間は2ヶ月弱。せめてその間だけでも、通える限り龍正軒に通おうと心に決めた。
前置きが長くなったが、今回はそんな龍正軒のご主人、渡辺正之さんに、これまでの歴史を聞いた記事となる。
にわか客の僕が図々しいとは思ったけれど、最後にどうしても、一瞬でも好きになった店の歴史を書き残しておきたかった。そう素直にお願いすると、渡辺さんは「いくらでも聞いて!」と快諾してくださった。
ここからは、僕が龍正軒で頼んだ料理たちの写真をたっぷりと挟みつつ、渡辺さんへのインタビューを軸にお送りします。
以下、『』の部分は渡辺さんの発言です。
『僕は昭和22年(1948)の生まれで、出身は新潟県の小千谷(おぢや)市。実家は「龍覚院」という300年以上の歴史のあるお寺なんだけど、今はそれだけだと食っていけないもんで、兼業で農家もやってました。うちは祈祷寺なんです。だから戦争中は忙しかったらしいですよ。兵隊に行く人に、戦死しないようにってたくさんお祓いしてね。
でももう今はお寺は閉めちゃったんです。寺を継いだ兄が2018年に急死しちゃって、甥が比叡山に修行に行っていたから坊主の資格は持ってるんだけど、今、田舎ではどんどん檀家さんが減ってるんですよ。それでも前は土建業をやりながら、法事や葬式があると休みをとって坊主の仕事をしていたんだけど、その後、街のほうに引っ越して会社に就職しまして、甥はもう47歳だったかな? どうしてもそっちが忙しいんだそうで、生きていくためにはしかたないからね。
実家は小千谷市のなかでも市内じゃなくて山のほうだから、僕が子供のころは、雪の季節は陸の孤島だったんです。11月から3月いっぱいまで。最高で7mも雪が降ったことがあってね。学校のグラウンドに積雪を測るポールがあるんだけど、中学2年か3年の時、その係をやらされてたから覚えてる。学校へ行くのも大変で、毎朝家から学校までの道を踏み固めながら行くんですよ。最近は温暖化の影響かぜんぜんらしいですけどね。去年は暖冬で、1mくらいしか降らなかったらしいから。
昔は、長男坊が家業を継いで、次男以降は東京へ出て手に職を持ちなさいという時代だったんです。うちは姉がふたりの下に男兄弟が3人。僕は次男だから、中学卒業と同時にこっちへ来た。東横線の元住吉にあった「やぶそば」って店に姉が勤めてたんですよ。日本そば屋なんだけど、ちょっと中華もあるような。そこのオーナーが小千谷市の出身でね。同郷の中卒の子らを集めて面倒みてくれてた。そこなら先輩がたくさんいて方言も通じるし、働きやすいからってね。
今となっちゃ笑い話だけど、こっちへ来るまで電話もしたことなかったから、出前の電話の受けかたからわからない。「も、もしもし……?」なんてやっと出ても、こっちは方言が抜けてないから、お客さんに「え?」なんて言われて(笑)。
その店の周りには大きな会社がいろいろあって、お昼に出前を持って行くのが僕たちの主な仕事なんですよ。出前持ちが5人くらいいて、「次はお前は庶務課、お前は営業課、さぁ行ってこい!」なんて言われて、自転車に乗ってだーっと。ほら、昔の写真なんかで見たことない? 肩の上にそばのざるを何段も重ねて。
まずあれをやったんです。もちろん最初からできるわけじゃないから、ざるに砂袋をのっけて特訓してね。2ヶ月もするとできるようになる。ただね、とにかく出前が忙しいから、そば打ちはもちろん、天ぷらを揚げさせてもらうこともできない。
しばらくして姉に「このままじゃ修行にならないよ」と相談したら、姉の彼氏の知り合いが鶴見で中華屋をやっていて、紹介してもらえることになった。そこのチーフに会いに行くと、その店も同じような環境で、「うちに来ても出前しかやらせられないよ」と言われてしまってね。「僕は仕事を覚えたいんです!」と食い下がったら、上野の「東天紅」か、新宿の紀伊国屋に入ってた「ニュートーキョー」のどっちかなら、ツテがあるから紹介してやるよということになった。「どっちがいい?」って言われてもわかんないもんで、名前がかっこいいニュートーキョーのほうを選んだ(笑)』
『当時のニュートーキョーってのは、日本ではまだ珍しい「バイキング方式」をいち早く取り入れた店だったんです。お昼が500円、夜は1000円で食べ放題。飲み物は別だけど、すごく人気があって、大宴会の予約が毎晩いくつも入ってた。
そこでついに調理場に入れてもらうことができてね。コックが25人もいるんですよ。みんなコック帽にダブルのコックコートを着て、ピークタイムはものすごい忙しさになる。特に印象に残ってるのが、おすもうさんの団体が来た時! 皿があっという間に空になっては「おかわり!」「おかわり!」って、まだ食うのかよ! って驚きましたね(笑)。「これはとんでもないところに来ちゃったな……」って。
それまでは忙しいといえど、周りは同郷のもんばっかりだからさ、方言でのんきに喋って、配達が終わったらわきの空き地でキャッチボールやったりしてた(笑)。午後3時から5時くらいは、たまに「お〜い、出前入ったぞ!」って呼ばれるくらいで、休憩時間ですよ。ニュートーキョーではそんな時間はなかったね。
最初にやらされたのが鍋洗い。中華鍋が50枚くらいあって、1品ずつ料理に使ったらポーン! と横へ放り投げてくるんですよ。熱々の鍋がカンカンカーンと飛んできて、「ぼーっとしてると危ないぞ!」なんて(笑)。それをきれいに洗って、ふたりいる鍋振りのところに戻す。常に2枚をガスの上に置いて焼いておかないと間に合わないからね。で、できたらポーン! のくり返し。それをひたすら、半年やったかなぁ。
後輩が入ってくると鍋洗いは卒業できて、こんどはから揚げとか酢豚用の肉切りみたいな雑用ですね。初めて使うでっかい中華包丁を使ってね。とにかく仕事を覚えたいから、なるべく早く作業を終わらせて、ヒマができたら「手伝わせてください!」とコックにお願いして、やることを与えてもらった。自分から積極的に動かないとダメなんですよね、あの世界は。
いちばんびっくりしたのはね、北京ダックってあるでしょ? それを作るための、内臓を抜かれたアヒルがどさっと届くわけ。「よし、これを膨らませ!」って言われて「どうやってやるんですか?」って聞いたら、首根っこをギュッとにぎって、アヒルのお尻に口をつけて、風船と同じですよ。プーっと息を吹き込むとぱぱぱーっと膨らむんだよね。ただ、生ぐさいんだこれが!(笑) 最初はなんの冗談かと思いましたよ』
『コックたちの持ち場は、「板」っていう材料を切る担当と、さっきも言った「鍋」ね、それと「前菜」「点心」「天ぷら」なんかに分かれてた。「前菜」っていうのは、クラゲとかピータンとかの冷製のおかずを、お皿にきれいに盛り合わせる担当。それも覚えて、うちでも前は宴会が入ると出してた。ニュートーキョーではアワビなんかものせてたけど、そんな豪華なものは出せなかったけどね(笑)。「点心」は、肉まん、あんまん、シュウマイ、餃子とか。「天ぷら」は、から揚げ、春巻きとかの揚げもの。
それから、まかない作りも新米の役割で、これはいい経験になりました。夜に仕事が終わると、残った食材を好きに使っていいんですよ。高級食材のアワビでも海老でも。魚のアラもたっぷりあるから、鍋で煮込んでスープがわりにして。
そうこうしているうちに、ある日「今日からお前、鍋やれ」と言ってもらえたんですね。同じ鍋でも、メインの料理を作る係と、それ以外の、そばをゆでたり、バイキングのちょっとしたおかずを作る係とあって、もちろん最初はそっちから。でも、作るごとにチーフに味を見てもらって、薄いとか辛いとか言ってもらえるのがありがたくてね。
当時で100種類くらいあったメニューが、ぜんぶ中国語なんですよ。だから、ひとつひとつ耳で聞いて、カタカナでメモして。今でこそ「回鍋肉」も「青椒肉絲」もメジャーになったけど、当時はそんなの知らなかったですからね。見るもの聞くもの食べるものすべてが初めて。寮に帰っても勉強勉強。本当の勉強は嫌いだけど、そのころからとにかく料理は好きだったから(笑)。なかでも特に難しかったのは、麻婆豆腐。八宝菜なんかはタレの調合が決まってるんだけど、あれはタレがなくてその都度味つけをしていくので、体調によっても微妙に変わってきちゃうんだよね。
まぁそんなだったから、先輩にはけっこう気に入ってもらえてたんだと思いますね。特に、2番コックが僕と同じ渡辺という名字で、みんなから「ナベさん」って呼ばれてた。僕はそこに正之の「正」をつけて「ナベショー」なんて呼ばれてね。「ナベショー、飲みに行くぞ!」って、あっちこっち連れてってもらって。もちろんそうやって行く先々でも、接客やら料理やらを常に観察するんです。みんないい経験になりましたね。
そこで3年修行して、4年目。新宿の三越の地下にニュートーキョーがテイクアウト専門店を作ることになって、その責任者に任命されたんですね。そこに10ヶ月くらいいて、こんどは銀座の三越にもテイクアウト専門店を作ることになって、有楽町の本店をちょっと経て、こんどはそっちへ。
テイクアウトでは、肉まん、餃子、春巻き、チャーハン、焼きそばなんかを売ってた。料理は店から持ちこまれるから、チャーハンならあおるだけ、肉まんもあっためるだけ。だからヒマって言えばヒマなんだけど、在庫は残しちゃいけないから、夕方5時ごろまでとにかく呼びこみ。地下3階のいちばん奥だったんで、声出さないとお客さんがこっちまで来てくれないんだよね。「何割引きするよ~!」とか「奥さん、そろそろ閉店だから、これおまけにつけるから買ってって!」とか(笑)。原価とか儲けのことはよくわかってないんだけど、とにかく来たものを残さず売っちゃわないといけなかった。そういう接客サービスみたいな部分は勉強になりましたね。
これだけこの仕事を続けてきても、忙しいときには餃子を焦がしちゃうこともあるんですよ。そうするともう売れないから、目の前の警察に出前に行くときに、「よかったらこれ、お金いらないから食べて」って持っていく。すると「いいのかい? じゃあ明日から毎日焦がしてくれ!」なんて(笑)。ここでお金をとれば「焦げてるよ!」と文句言われるんですよ。ところがお金いらないって言うと、「いいよいいよこのくらい」となる。捨てちゃえば損になるけど、こうすればサービスになるわけ。損して得とれってやつですよね。そういう商売のやりかたも覚えましたね。客商売、ただ腕がいいだけじゃダメだし、逆にお客さんにこびてばっかりでもダメだし』
『そのころは確か、月給が1万8000円だったんですよ。ただ、そのあと結婚したもんで、その金額ではちょっと暮らしていけない。そしたらちょうど、大塚駅前に同郷の人が経営している「喜楽」ってラーメン屋があって、そこも忙しいんで「給料4万円払うから来てくれないか」って言われてね。そりゃあ魅力ですよ。そこへ行ったんだけど、しばらくしたら、本当にあんまりにも忙しくて、ストレス病みたいになっちゃたんですよね。だから悪いなと思ったけど辞めさせてもらって。
その次は、浅草の松屋デパートの裏に中華屋があって、今までの経験を買ってもらって、責任者として雇われた。そこは給料が6万円。お店のそれまでの料理人さんは、野菜炒めでもチャーハンでも、朝まとめて作っておいて、注文が来たらあっためて出すだけだだったから、お客さんから文句が来てたんだって。こういう料理って、どんなに忙しくたってできたてじゃないと美味しくないから。そこで僕がやりかたを変えたら、オーナーから「渡辺さんが来てから売り上げが伸びて本当に助かってる」って言ってもらえてね。
そもそも当時の料理人なんていい加減だったんですよ。「コック45でのたれ死に」って言葉があったくらいで(笑)。「渡り職人」ってご存知ですか? いろんなお店を渡って歩く職人。日本そば、中華、寿司、それぞれにそういう組合があるんですよ。「うちの店、今ちょっと職人が足りないんだけど」って言うと紹介してもらえて、1ヶ月だけとか、半年とかの短い期間だけ働く。なかには腕も良くないのにいっぱしのこと言う人もいるんですよ。だけど僕はそうあっちゃいけないと思って、とにかく給料ぶん働かなきゃという意識でやってた。そしたら、そこには10ヶ月いたのかな? 最後は給料1万円上げてくれて、7万円もらってましたね』
『そのころは西武新宿線の鷺ノ宮に住んでたんだけど、8畳一間だったんで、二間を借りたいと不動産屋に行ったんです。そしたら、「渡辺さん、二間を借りる家賃だったら、こういう物件がありますよ」と紹介してもらったのが、ここだった。もとが中華屋で、居抜きで使えるから、「あんた中華の職人らしいじゃない。ここでお店やってみたらどう?」って。当時このへんの二間の家賃相場が4万円くらいで、ここも4万円。カウンターがあってテーブルがふたつあるくらいの小さい店だけど、食器も一式残ってたし、それから部屋の角のところにカラーテレビがあって、それも使っていいからって。当時はまだカラーテレビって珍しくてね、それで惚れちゃって(笑)。ただ、1年くらいほってあったから油だらけ。金がないから女房と一緒に一生懸命掃除して、ペンキ塗ったりとかもしましたね。
それから家賃とは別に、このお店の権利を譲り受ける「譲渡権利」というのに200万円が必要だったんです。その時、自分の持ち金が50万円しかなかったから、実家の親父と兄貴に相談して「お前が店出すんだったら」って100万円貸してもらった。聞いたらほとんど全財産だったらしいんだけどね。「誰かに取られたらいけねぇ」っていうんで、兄貴が腹巻きのなかに現金を入れて届けてくれた。大変だったですよ。今じゃ笑い話だけどね(笑)。それから、足りない残りの50万円は、大塚の「喜楽」の親方が貸してくれたんだ。ありがたいよね』
『そうやってこの店を開店したのが、ちょうど50年前の4月10日。実家が寺だからおじいちゃんに占ってもらったら、その日がいちばんいい日だからってことでね。店名の「龍正軒」ってのは、「龍覚院」の「龍」と、自分の名前の「正」をくっつけたんです。僕が24歳の時でしたね。
そこからは休みなしで必死で働いて、売り上げから借りたお金を返していきました。当時からこのあたりは住宅街だったんだけど、今みたいにコンビニもほか弁もない。出前ってのは日本そばか寿司かラーメンくらいしかなかったから、忙しかったですよ。目の前の警察署にも食堂はないしね。当時で平日は6000円か7000円くらい売れた。それでまた、日曜日になると家族連れがわーっと来てくれるんですよ。今はファミレスやら回転寿司やらいろいろあるけど、そういうのもないからね。だから日曜日になると2万円売れる。いい場所を紹介してもらえたなと思いましたね。
それからほら、よくTVドラマで警察官が、居酒屋なんかで飲みながら捜査の話をしてたりするでしょ? あんなの絶対ないんですよ。どこで漏れるかわかんない(笑)。でもうちで話してるぶんには安心だっていうんで、警察署の人たちにもよく飲みにきてもらいました。たまにちらほらおもしろい話が聞こえてきたりもするんだけど、むこうも僕のことは信用してくれてたからね。
ところが開店から5年後、5年ごとの再契約をしようと思ったら、大家さんに「建て替えたいから出てってくれないか」って言われてしまったんですよ。やっと商売も起動に乗って、借金も減ってきたところだったのにそれはかなわないでしょ。「じゃあここ、売ってくれないか?」と言うと「いくら出す気があるんだ?」と。そこで知り合いの不動産屋に相談したら、ここが当時の価格で70万円の物件で、たいていはそこから値引き交渉になるもんだと教えてくれた。そこで僕は「75万でどうでしょう?」って提案したの。そしたら向こうは、値切ってくると思ってたから逆に驚いたみたいで、「え? いいの!?」って(笑)。それですぐに決まっちゃった。
当時は狭山ヶ丘に住んでたんだけど、子供もできて、ここまで通うのが大変だったしね。それでこの建物を直して、2階を住まいにしたんです。それから、2階のひと部屋は宴会場にした。密室で何を話してもいいから、警察の人はさらに大喜びですよね(笑)。
そこで7、8人くらいの宴会もよく受けてました。「ひとり3000円で」なんて言われて、コースを出してね。当時この近くに釣り堀があって、いつでも鯉を売ってもらえたんですよ。1匹1000円くらいで買えたんだよね。それをから揚げにして甘酢あんをかけたのなんか出すと、「すげーなーこれ!」なんて喜んでくれて。油淋鶏も、鶏1羽を丸々揚げて、大皿に亀のような形に盛りつけて出したり。そういうのは、ニュートーキョー時代の宴会では必ず出してたから作れたんですね。
40年前にはね、この同じ通り沿いに「一番星」って居酒屋もやったんです。3年間。ここが終わって片づけをしたら、僕も夜9時からそっちへ行って、さらに12時まで仕事してた。焼鳥焼いたりなんだりしてね。中華風のつまみもいろいろ出したから、お客さんから「居酒屋なのに本格的だね」なんて喜ばれましたね。とにかく忙しい時代だったな』
『「チキンチーズ焼」はね、当時、行きつけだった鶏肉屋さんに仕入れに行くと、コーヒーを出してもらえたんですよ。で、コーヒー飲みながら世間話してるうちに知り合った近所の洋食屋のマスターがいて、そこにお昼を食べに行ったの。そこで食べたのがチキンチーズ焼で、これはいいなぁと思ってね。それで「俺もまねしたいんだけど教えてくんない?」って言ったら「いいよ」って(笑)。基本はなんてことないチキンソテーで、醤油で味つけてとろけるチーズを乗っけるだけなんだけど、洋食屋だから仕上げにワインを振るんだよね。だけどうちにはワインはないから、日本酒で代用してみたら、それはそれで美味しくて、お客さんにも受けたんですよね。
「ソースチャーハン」は、10年くらい前かな、みのもんたの「ケンミンショー」って番組、あれで「大阪の人は町中華へ行くと料理にソースをかける」ってやってたの。見たら普通のチャーハンにまでソースかけてて、うまいのかなぁ? と思いつつ、だけどよく考えたら、オムライスはごはんをケチャップで炒めるでしょ? ソースが好きな人は嫌いなわけないかと思って、チャーハンをソース味で炒めてみた。息子も今、調理師をやってるんで、女房と3人で「どのソースがいちばん合うかな?」って作り比べてみたら、ブルドッグの焼きそばソースがさっぱりしてて美味しかったんですよ。まぁ、焼きそばの麺がごはんになったようなもんですよね。出しはじめてしばらくしたら、僕は詳しくないんだけど、インターネットのクチコミってので話題になったりしたらしくて。それと、落語家の立川志らくさんがうちに何度か来てくれて、ソースチャーハンを気に入ってくれたみたいで、TVの町中華の番組で紹介してもらったりもしましたね。
ラーメンのタレはね、よそのことはあまり知らないんだけど、基本は生醤油をベースに作るんだと思うんですよ。だけど僕が勤めてた「喜楽」では、醤油と水を半々に混ぜて、それを沸かして、そこに塩を足すんです。そうすると醤油くさくなりすぎないんですね。それに、味はしっかりとあるんだけど、スープが真っ黒にならない。これはいいなと思って、まねしてね。まぁ塩の割合までは教えてもらえなかったから、自分なりに研究して。あとは、ショウガ、砂糖、コショウ、味の素とかね。
それからガラスープ。鶏のあばら骨を使う店は多いんだけど、あれは脂が浮くだけでいいスープにならないんですよ。最近は業務用の冷凍ガラスープなんかもあるんだけど、あれもやっぱり味がぜんぜん違うんだよね。うちではゲンコツっていう部位を使ってて、ハンマーで叩くとなかの髄が出る。それを煮干し、昆布、ショウガ、ニンジン、玉ネギなんかと一緒に、8〜9時間くらいじっくりと煮る。煮干しはひとつひとつ折って、そのまま入れると黒い粒々が浮くのが気になるからっていうんで、女房がお茶用のパックに入れてくれてね。
あるときね、お客さんに「マスターの料理は一流じゃないけど、大衆にウケる味だよね」って言われたことがある(笑)。確かに僕は一流料理店のチーフでもないから、それは認めますよ。それでもさ、こういうお店に入ってきてくれる人に「美味しかった」って言われりゃそれいいじゃない。うん』
『保健所の契約が5年に1回で、それが今月(2021年4月)いっぱいまでだったんです。もちろん更新手続きのハガキも来たんだけど、夫婦ふたりとも年齢的に無理がきかなくなってきたしね。50年で切りもいいし、このへんにするかと。保健所の人に「本当にいいの? 更新しないで」なんて言われましたけどね(笑)。
こないだ警察の各部署に「50年間お世話になりました」って挨拶に回ってきたんですよ。そしたら昨日も「もう食べられなくなるから」なんてローペン焼き(回鍋肉片)を8皿も注文してもらったり。もうずいぶん前に亀有警察から転勤してきた刑事課の人が、ここへ来てすぐ上司に「目の前に中華そば屋があるから好きなもの取っていいぞ」って言われて、食べてくれたらしくて、思い出の味なんだ、なんてね。そうやってみんな寂しがってくれるのはありがたいことです。
それに加えてコロナでしょ。やっぱり去年の4月、緊急事態宣言が出てからは、お客さんもガクッと減りましたね。1ヶ月前、警察署の他に、よく出前をとってくれてたお客さんたちにもハガキでしらせを出したんですよ。はるか昔のお客さんは別だけど、今でも1年に1回くらいはとってくれるお客さんまでには出した。そしたら50軒くらいはあったんだよね。で、「もう食えなくなっちゃうから」って、年に1回だった人が月に3回も4回も出前とってくれてさ、普段からそんだけとってくれりゃあもうちょっと続けたのに、なんて(笑)。
息子は今44歳で、代官山にある中華屋に勤めてるんですよ。名前がなんつったかな……? 忘れちゃった(笑)。100人近い宴会もできる大きい店で、自社ビルで家賃がかからないから、コロナでも閉店しなくてすんでるらしい。なおかつ今、目黒区の大きい病院3つの医師と看護師にお昼の弁当を無料で提供するってのをやってて、息子の店の割り当てが1日170個。1個1000円の弁当なんだって。写真見せてもらったけど、エビチリが入ったりで豪華だった。区がお金を出してくれるからお店的にはいい仕事なんだけど、とにかく忙しいみたいだね。もちろんその他に通常の仕込みもしなくちゃいけないから、最近は毎日朝6時に起きて行かないと間に合わないって。
息子は休みになるとここへ飯食いに来るんですよ。昨日も来て、飯食って、明日も忙しいからってぱっと帰っていったけど。好きなのはチキンチーズ焼ですね。よくお客さんに「この店、息子に継いでもらえばいいじゃない」なんて言われるんだけど、う〜ん……今はね、もう出前をするような中華屋の時代じゃないんですよ。それに、昔は建築関係の人がよくお昼を食べにきてくれてたけど、今はみんなコンビニで買って、駐車場のわきとか、車のなかで食ったりしてるでしょ。あと、このへんはお屋敷がけっこうあるから、暮れになるとみんな、植木屋さんを頼むんですよ。そうすると「3時のおやつにラーメン3人前」とかね、よくあった。ところが今は植木屋さんが来てもお茶も出さないみたいで、ケチになったとかじゃなく、お互いにそのほうが楽みたいですね。時代が変わったんだよね。
この店を閉めたらどうするかですか? う〜ん、まだあんまり考えてないけど、僕の地元は「へぎそば」が有名なんです。あれ、うまいんだよね。小千谷と十日町は織物の町でしょ? 反物を仕立てるときに「ふのり」を使うんだよね。それで、へぎそばにもつなぎでふのりを使う。その香りがいいんだ。こっちへ出てきて最初に勤めたのもそば屋だったし、僕、中華屋のオヤジなのに、日本そばが好きなんですよ(笑)。だからひとまず、女房とのんびり、美味しいそばでも食べに行くかなぁ』
当然、その日はやってきてしまった。龍正軒、最後の日。
もちろん僕もお別れに行ってきた。
古くからの常連さんのじゃまにならないようにと、昼時を少し遅れて行ったら、先客は2人。雰囲気からして、たぶん警察署に勤める、しかもけっこうなお偉いさんだろう。それぞれが「モヤシソバ」と「チャーハン」を噛みしめるように食べ、ご主人と「まだここには住んでるんでしょ?」なんて会話をした後、「ごちそうさん」と言って帰っていった。
ずっとこの日に何を食べようか考えていたけれど、最後はやっぱり、初めてこの店に来た日に感動した、チキンチーズ焼にした。
中華スープをすすり、ボリューミーなチキンをかじり、白米をほおばる。あぁ、こんな幸せが味わえるのも今日で最後なんだな。と、じっくりじっくり味わった。
きれいに食べ終え、完全に満腹。ふだんなら帰って布団にバタンと倒れこみ、しばらく休憩しないと復活できないくらいの状態だったんだけど、迷いに迷って、一品、追加注文。
やっぱりどうしても、龍正軒のラーメンをもう一度味わっておきたかったから。50年の歴史を感じる、もはや神聖な領域に到達してしまったかのような、神々しい一杯。その味が、僕の心に深く深く刻まれた。
以上、一見どこにでもありそうな小さな中華屋、そしてそのご主人の、尊敬すべきこれまでの歴史を記させてもらった。
きっと日本全国、いや、世界中のあちこちに、数えきれないほどのこういうストーリーが存在するのだろう。そのなかで、最後の最後のタイミングで龍正軒に出会え、こうして記事を書く縁をもらえたのは、本当にありがたいことだと思う。
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