台湾ラーメンのお株を奪う「名古屋うどん」
名古屋はかつて「台湾ラーメン」という、台湾にはないパワフルな料理を創作した。
まるでそのお株を奪うかのように、函館によって生まれた「名古屋うどん」。
少なくとも半世紀愛されている味を、酔狂な名古屋の方も、そうでない方もぜひ食べてみてほしい。
そして、まだ謎の多い「名古屋うどん」。当時を知っている方はぜひ思い出を語っていただき、その輪郭を映し出してほしい。
函館には「名古屋うどん」という、長らく愛されてきたメニューがある。
鉄板で焼いた洋風の具材をのせた塩味の焼きうどんに、好きなだけソース(しょうゆ)をかけていただく、ライブ感ある料理だ。
だがこのメニュー。名前とは裏腹に、名古屋には存在しない。
名古屋うどんの誕生は、半世紀以上前にさかのぼると言われる。摩訶不思議なローカルフードの実像を追った。
函館市内のいくつかの店舗で提供され、女性を中心に人気であり続けた「名古屋うどん」。
今残る提供店が、MEGAドン・キホーテ 函館店(旧長崎屋)にあるパーラーフタバヤだ。
1980年、大門地区にあった本店の分店としてオープンしたフタバヤの店頭に、見慣れないフォルムのメニューが鎮座する。
年季の入った食品サンプルとともに「名古屋うどん」のPOPが踊る。何やら異彩を放つ。
メニューを見ても、「人気の名古屋うどん」と目立つところに書かれており、否応なしに期待は高まるばかりだ。
そして、やってきたのはこれである。アツアツの鉄板でジュージュー言いながら、ただものではない雰囲気を醸し出す。
鉄板で焼かれて登場するのは、印象的な色白の麺と、ソーセージにピーマンにキャベツ、玉ネギ。おとものコンソメスープもついてきた。
おそるおそる口をつけると、麺には意外と味がついている。塩味のような、薄いバター味のような……粉チーズも振られている。これはこれで一興だ。
そのあとも余熱がしっかり残ってアツアツで、活気あふれる料理。そのままで少々食べ進めて、味を変えたいころに卓上のソースをかける。
ソースをかけると、またこれがうまい。味が足されて“完全体”になった感じがするし、ソースのかかった部分とかかっていない部分のコントラストで、味にメリハリが加わる。
鉄板だから、なかなか冷めないのもいい。取っておいたソーセージも最後にほおばって完食し、満足した。
いわゆる「焼きうどん」の一種だが、一般的なものとはいろいろと違う。よくあるのはお皿で登場し、かつお節や紅生姜などが載せられ、麺もすでにソースやしょうゆが絡められたものだ。
さらに名古屋では焼きうどんがしばしば「鉄板」に乗って登場するものの、それ以外の多くの部分は、この「名古屋うどん」とは異なる。
いったい何者だ? 名古屋うどん。
はたして、謎の一品がどう生まれたのか。なお、名古屋うどんの発祥に関しては諸説があり、その謎さえも楽しんでもらえれば幸いだ。
そのうちの一説を語ってくれたのは、パーラーフタバヤの池田良子さん。名古屋うどんについての話を知る数少ない方である。
そもそも、なぜ「名古屋うどん」というのか?
池田「75年ほど前、名古屋でうどんを食べた先々代が感銘を受けて、そこから生まれた料理を『名古屋うどん』と名付けたそうです」
1964年、函館の中心地だった大門にフタバヤがパーラーを開いた。数十年前の記憶から生まれた名古屋うどんは、その創業当時からあったという。
いったい名古屋のどんなお店でうどんを食べたのかと思うが、店名はわからないとのこと。そんな名古屋うどんは、時代によって姿を変えたのだろうか。
池田「おそらく当時から変わらないと思います。ナポリタン感覚で粉チーズをかけて、こういう具材にしたのが意外においしかったようで。さらにお好みでソースをかけていただくような形になりました」
フタバヤのメインはハンバーグだが、それに次ぐ人気を誇る。
池田「ご年配の女性の注文が多いですね、懐かしいって。ずっと人気のメニューだったんだと思います。名古屋うどんを必ず食べる常連さんもいますから」
なお、麺はかつてきしめんを使っていたが、取引していた製麺所の廃業により、数年前に平打ち麺に変わった。
だが記事の執筆中、業者の機械老朽化により「きしめんに戻った」とのこと。かつての麺に近いものらしいので、味わってみてほしい。
なおフタバヤグループでは、函館にほど近い北斗市の中華ジャンジャンでも、この名古屋うどんを提供していたが、2022年9月中旬ごろに提供を終了した。
函館の名古屋うどんの歴史を語る意味では外せないのが、パーラートップスである。
1969~2008年にかけて存在し、五稜郭界隈の女子高生を中心に「名古屋うどん」が大ヒットした名物店だ。
閉店から3年半たった2011年8月のGoogleストリートビューにはまだ「パーラートップス」の姿がある
筆者も函館市中央図書館の司書さんにリサーチの相談をしていたら、近くにいた利用者の女性から「当時の若い女性はこぞってトップスの名古屋うどんを食べていたんです!」と、熱をもって話しかけてもらったほどである。
なおトップスの名古屋うどんは、北海道で愛されてきた料理を描いた漫画「なまらうまい!たんぽぽちゃんの昭和ごはん 2杯目(青沼貴子/ぶんか社)」にも登場する。
名古屋うどんを函館に知らしめた立役者・パーラートップス。従業員だった畑中章一さんと畑中くみさんがパーラー花車というお店を出しており、話を伺った。
まず彼らが見せてくれたのは、当時のトップスのメニューだ。2008年に閉店する直前のメニュー表という。
1969年の創業当初からあった名古屋うどん。畑中さんは「パーラートップスから生まれた名古屋うどんを発端として、函館に広まった」との説を唱える。同時にパーラーフタバヤにはこうエールを送る。
くみ「発祥がどうかは置いておいて、名古屋うどんを知ってくれればうれしい。今も名古屋うどんを出しているフタバヤさんは応援しています」
残念ながら、当時の名古屋うどんの写真はない。ちなみに「名古屋うどん」との名前は、乾麺のきしめんを使っていたことから名付けられたそう。
章一「名古屋うどんは安いから、とにかく人気でした。学生にとっては、名古屋うどんとパフェのセットが1,000円以内で食べられたことも大きかったんです」
名古屋うどんは300円台の時代もあり、コンビニもファーストフード店もない当時は無類の人気を誇った。パフェを付けるのも定番だったとか。
トップスの店内は、まさに女子高生であふれんばかりだったという。
当時人気だったチョコレートパフェは、このパーラー花車でも提供されており、できる限り当時の作り方のままを再現する。注文したら実にボリュームたっぷりで、無くなるまで至福の時間を過ごせた。
このパフェと名古屋うどんのセットは、たしかに高校生にとっては夢心地になれるはずだ。
トップスの名古屋うどんは、函館の他店に広がった。函館が全国に名を轟かすハンバーガーチェーン、ラッキーピエロの前身「ポパイのほうれん草」も、名古屋うどんを提供していたという。
くみ「マスターは誰にでも作り方を教えていましたから」
1987年に誕生したこのパーラー花車でも名古屋うどんは名物メニューで、長らく提供されていた。
くみ「トップスに気を遣って『焼うどん』の商品名で出していましたが、人気でした」
だが、作るのがとても大変で、ほかのメニュー提供の足を引っ張るため、2年ほど前に提供終了となった。
ほかにも名古屋うどんの提供店舗はいくつか存在したが、それらはここ5年ほどで相次ぎ閉店。こちらで現在確認できた提供店は、パーラーフタバヤのみとなっている。
函館を彩った、名古屋にはないローカルフード「名古屋うどん」。ぜひ存在するうちに味わってほしいし、末永く愛されてくれと願ってやまない。
名古屋はかつて「台湾ラーメン」という、台湾にはないパワフルな料理を創作した。
まるでそのお株を奪うかのように、函館によって生まれた「名古屋うどん」。
少なくとも半世紀愛されている味を、酔狂な名古屋の方も、そうでない方もぜひ食べてみてほしい。
そして、まだ謎の多い「名古屋うどん」。当時を知っている方はぜひ思い出を語っていただき、その輪郭を映し出してほしい。
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