平田氏の不眠症は段々ひどくなって行った。やっと眠りについたかと思うと、突然気味悪い叫声を立てて飛び起る様なこともたびたびあった。
家族の者は主人の妙な様子に少からず心配した。そして医者に見て貰うことをくどく勧めた。平田氏は、若し出来ることなら、丁度幼い子供が「怖いよう」といって母親にすがりつく様に、誰かにすがりつきたかった。そして、この頃の怖さ恐しさをすっかり打明けたかった。でも流石にそうもなり兼ねるので「ナアニ、神経衰弱だろう」といって、家族の手前をとりつくろい、医者の診察を受けようともしなかった。
そして又数日が過去った。ある日のこと、平田氏の重役を勤めている会社の株主総会があって彼はその席で少しばかりお喋りをしなければならなかった。その半年の間の会社の営業状態はこれまでにない好成績を示していたし、他に別段心配する様な問題もなかったので、ただ通り一ぺんの報告演説をすれば事は済むのであった。
彼は百人近くも集った株主達の前に立って、もうそういう事には慣れ切っているので、至極板についた態度口調で話を進めるのであった。
ところが、暫くお喋りを続けている内に、無論その間には、聴衆である株主達の顔をそれからそれへと眺め廻していたのだが、ふと変なものが目に入った。彼はそれに気付くと、思わず演説を止めて、人々があやしむ程も長い間、黙ったまま棒立ちになっていた。
そこには、沢山の株主達のうしろから、あの死んだ辻堂と寸分違わない顔が、じっとこちらを見詰めているのだ。
「上述の事情でござりまして……」
平田氏は気を取直した様に一段と声をはり上げて、演説を続けようとした。だがどうしたものか、いくら元気を出して見ても、その気味の悪い顔から目をそらすことが出来ないのである。
彼は段々うろたえ出した。話の筋もしどろもどろになって来た。すると、その辻堂と寸分違わない顔が、平田氏の狼狽を嘲りでもする様に、いきなりニヤリと笑ったではないか。
平田氏はどうして演説を終ったか、殆ど無我夢中であった。彼はヒョイとおじぎをしてテーブルの側を離れると、人々が怪むのも構わず、部屋の出口の方へ走って行って、彼を脅かしたあの顔の持主を物色した。併し、いくら探してもそんな顔は見当らないのだ。
念の為に一度上座の方へ戻って、元の位置に近い所から、株主達の顔を一人一人見直しても、もう辻堂に似た顔さえ見出すことが出来なかった。
その会場の大広間は、人の出入自由なあるビルヂィングの中にあったのだが、考え様によっては、偶然聴衆の中に辻堂と似た人物がいて、それが平田氏の探した時には、もう立去ったあとだったかも知れない。
でも世の中にあんなによく似た顔があるものだろうか。平田氏はどう考え直して見ても、それが瀕死の辻堂のあの恐しい宣言に関係がある様な気がして仕様がなかった。
それ以来、平田氏はしばしば辻堂の顔を見た。ある時は劇場の廊下で、ある時は公園の夕闇の中で、ある時は旅行先の都会の賑かな往来で、ある時は彼の邸の門前でさえ。この最後の場合などは、平田氏は危うく卒倒する所であった。
ある夜更けに、よそから帰った彼の自動車が今門を入ろうとした時だった。門の中から一つの人影がすうっと出て来て自動車とすれ違ったが、すれ違う時に、実に瞬間の出来事だった。その顔が自動車の窓からヒョイと覗いたのである。
それがやっぱり辻堂の顔だった、併し、玄関について、そこに出迎えていた書生や女中などの声でやっと元気を回復した平田氏が、運転手に命じて探させた時分には、人影はもうその辺には見えなかった。
「ひょっとしたら、辻堂の奴生きているのではないかな。そして、こんなお芝居をやって俺を苦しめようというのではないかな」
平田氏はふとそんな風に疑って見た。併し、絶えず辻堂の息子を見張らせてある腹心の者からの報告では、少しも怪むべき所はなかった。
若し辻堂が生きているのだったら、長い間には一度位は息子の所へやって来そうなものだが、そんなけぶりも見えないのだ。
それに第一おかしいのは、生きた人間に、あんなにこちらの行先が分るものだろうか。平田氏はふだんから秘密主義の男で、外出する場合にも召使は勿論家族の者にさえ、行先を知らさないことが多かった。
だから例の顔が彼の行く先々へ現れる為には、絶えず彼の邸の門前に張込んでいて自動車のあとをつける外はないのだが、その辺は淋しい場所で、他の自動車が来ればそれに気のつかぬ筈はなく、又自動車を傭うにも近くに帳場とてないのだ。といって、まさか徒歩であとをつける訳にも行くまい。どう考えて見ても、やっぱりこれは怨霊の祟りと思う他はなかった。
「それとも俺の気の迷いかしら」
だが、たとい気の迷いであっても、恐しさに変りはなかった。彼ははてしもなく思い惑った。
ところが、そうして色々と頭を悩ましている内に、ふと一つの妙案が浮んで来た。
「これならもう確かなもんだ。何故早くそこへ気がつかなかったのだろう」
平田氏はいそいそと書斎へ入って行って、筆をとると、辻堂の郷里の役場へあてて、彼の息子の名前で、戸籍謄本下附願を書いた。若し戸籍謄本の表に辻堂が生きて残っている様だったら、もう占めたものだ。どうかそうあって呉れる様にと平田氏は祈った。
数日たつと、役場から戸籍謄本が届いた。併し平田氏のがっかりしたことには、そこには、辻堂の名前の上に十文字に朱線が引かれて、上欄には死亡の年月日時間と届書を受附けた日附とが明瞭に記入されていた。もはや疑う余地はないのだ。
「近頃どうかなすったのではありませんか。お身体の具合いでも悪いんじゃないんですか」
平田氏に逢うと誰もが心配そうな顔をしてこんなことを云った。平田氏自身でも、何んだかめっきり年をとった様な気がした。頭の白髪しらがも一二ヶ月以前に比べると、ずっとふえた様に思われた。
「如何でしょう。どこかへ保養にでもいらしって見ては」
医者に見て貰うことはいくら云っても駄目なので、家族の者は今度は彼に転地を勧めるのであった。
平田氏とても、門前であの顔に出逢ってからというものは、もう邸にいても安心出来ない様な気がして、旅行でもして気分を換えて見たらと思わないではなかったので、そこで、その勧めをいれて暫くある暖かい海岸へ転地することにした。
あらかじめ行きつけの旅館へ、部屋を取って置く様に葉書を出させたり、当座の入用の品をととのえさせたり、お供の人選をしたり、そんなことが平田氏を久しぶりで明い気持にした。彼は、いくらかわざとではあったけれど、若い者が遊山にでも行く時の様にはしゃいでいた。
さて、海岸へ行って見ると、予期した通りすっかり気分が軽くなった。海岸のはればれした景色も気に入った。醇朴な開けっぱなしな町の人達の気風も気に入った。旅館の部屋も居心地がよかった。
そこは海岸ではあったけれど、海水浴場というよりはむしろ温泉町として名高い所だった。彼はその温泉へ入ったり、暖かい海岸を散歩したりして日を暮した。
心配していた例の顔も、この陽気な場所へ現れそうにもなかった。平田氏は今では人のいない海岸を散歩する時にも、もうあまりビクビクしない様になった。
ある目、彼はこれまでになく、少し遠くまで散歩したことがあった。うかうかと歩いている内に、ふと気がつくといつの間にか夕闇が迫っていた。
あたりには、広い砂浜に人影もなく、ドドン……ザー、ドドン……ザーッと寄せては返す波の音ばかりが、思いなしか何か不吉なことを告げ知らせでもする様に、気味悪く響いていた。
彼は大急ぎで宿の方へ引返した。大分の道のりであった。悪くすると半分も行かぬ内に日が暮れ切ってしまうかも知れなかった。彼はテクテクテクテクと、汗を流して急いだ。
後から誰かついて来る様に聞える自分の足音に、彼は思わずハッとふり返ったりした。何かがひそんでいそうな松並木のうす暗い影も気になった。
暫く行くと、行手の小高い砂丘の向側に、チラと人影が見えた。それが平田氏をいくらか心丈夫にした。早くあのそばまで行って話しかけでもしたら、この妙な気持が直るだろうと、彼は更に足を早めてその人影に近づいた。
近づいて見ると、それは一人の男が、もう大分年寄りらしかったが、向うをむいてじっとうずくまっているのだった。その様子は、何か一心不乱に考え込んでいるらしく見えた。
それが、平田氏の足音に気づいたのか、びっくりした様に、いきなりヒョイとこちらをふり向いた。灰色の背景の中に、蒼白い顔がくっきりと浮き出して見えた。
「アッ」
平田氏はそれを見ると、押しつぶされた様な叫声を発した。そして矢庭に走り出した。五十男の彼が、まるで駈っこをする小学生の様に滅多無性に走った。
ふりむいたのは、もうここでは大丈夫だと安心し切っていた、あの辻堂の顔だったのである。
「危ない」
夢中になって走っていた平田氏が、何かにつまずいてばったり倒れたのを見ると、一人の青年がかけ寄って来た。
「どうなすったのです。ア、怪我をしましたね」
平田氏は生爪をはがして、うんうん唸っているのだ。青年は袂から取出した新しいハンケチで手際よく傷所に包帯をすると、極度の恐怖と傷の痛みとで、もう一歩も歩けぬ程弱っている平田氏を、殆ど抱く様にしてその宿へつれ帰った。
元の青空文庫の情報
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
2012(平成24)年8月15日7刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第一巻」平凡社
1931(昭和6)年6月
初出:「新青年」博文館
1925(大正14)年5月
入力:門田裕志
校正:岡村和彦
2016年6月10日作成
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