特集 2025年5月15日

源氏物語の登場人物の気持ちになりたくて、都から宇治まで約20km歩く

そして宇治へ

山を下りた。歩き疲れてきた。下り坂では足にダメージが蓄積する。

私の中の、文使いとしての下人の心境にもある種の変化が。これまでは、いっそ主人の手紙を捨てて引き返して「お姫様はあなたのことが嫌いだそうです」などと言ってごまかす選択肢もないではなかった。しかし、行程の半分を過ぎるとその手は使えない。引き返すよりも、さっさと目的地まで行ってしまった方が楽だからである。

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というわけで先を急ぐ。少しずつだが、日が傾いてきている気がする。

住宅地をひたすら歩く。疲れて集中力が落ちてきているので、あまり書くことがない。あっても気がつけない。

同行者が一言

「脚が牛になったみたい」

と呟いた。疲労によって感覚が鈍くなってきているということらしい。

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謎の看板の出現によって、ついに宇治市に入ったことを知る。

言われるがままに上を見上げた。電線が走った空以外なにもない。何に注意しろと?

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少し先にあった別の看板で意味が判明した。道にせり出した軒先に車をぶつけないよう注意してほしいということだったのだ。たしかに、さっきから背の高いトラックが頻繁に横を通っている。それにしてもこの看板は芸術度が高い。

そして、ついにゴールが目前に迫ってきた。

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橋が見えてきた。
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宇治橋だ!
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さすが宇治、道端の植え込みもお茶の木だ!

私が下人だったら、ようやく到着した達成感と、恋文の返事をもらって、即来た道を引き返さないといけない絶望感の板挟みになって、笑うか泣くか決められないだろうな。というか、よく反乱が起こらなかったものだ。

さて、脚の疲労に押しつぶされそうになりながらなんとか宇治橋までやってくることができた。だが、真のゴールはもう一つ別に設定してあった。橋を渡ったところにおわします、ある方のところへ行くのだ。

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「あ、あそこだ!せ、せ、」
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「せんせい!!」
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「せんせい!せんせい!」

作品を読んでどれだけ感動しても、作者に感想が届けることは絶対に叶わないのが、古典の悲しいところだ。だからせめて作者の像に語り掛けよう。「あなたの作品、最高でした!」

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ゴール!
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対岸には、ヒロイン浮舟と貴公子・匂宮の像があった。

きらびやかな平安貴族の世界はなにかとキラキラな描写がされがちだが、そこには汗と埃にまみれた舞台裏があるのだ。

前述の国語教師は「平安貴族はやることがないからエロいことばかり考えていた」というようなことを言っていた。当時は、たしかにそうかもしれないと思った。ただ今回、宇治まで歩いてみて思ったのは、やることがないから恋愛のことばかり考えていたというよりも、恋愛にかかるコストが高すぎてほかのことに割く余裕がなかったんじゃないかということだ。

以前よりも古典の世界を少しだけ深く理解できたような気がしたのだった。


もちろん帰りは電車を使った

帰りの電車内で、自宅からスタート地点までの移動を含む総歩行距離を確認したら、25キロを超えていた。当たり前だが、よく歩いたなあ。もちろんこんなことを毎日やるのは無理。古典の世界はフィジカル・モンスターであふれていたに違いない。平安時代のイメージがかなり修正された瞬間だった。

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宇治抹茶ソフトが沁みる!
編集部からのみどころを読む

編集部からのみどころ
こんなふうに体力で平安時代をとらえてる人ってなかなかいないんじゃないでしょうか。源氏物語を読破した人ならではの企画です。
そしてさすがに20キロ歩くと見どころが多くて充実した記事だと思いました。急に山奥でスピリチュアルスポット見つけるのも劇的ですし、そうかと思えば「脚が牛になったみたい」みたいな何気ない出来事が書かれているのも旅のリアルという感じで良かったです。(石川)

「あなたの作品、最高でした!」

源氏物語(1) 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

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