ちょうど良すぎる散歩コース
50年も前に廃止された鉄道の痕跡なんてほとんど残ってないだろうと思っていたものの、そんなことはまったくなく、あちこちに、そういえばこれ砧線の痕跡じゃないか、というものが残っている。
それほどまでに、鉄道路線というものの存在としての濃さを感じた。
もし、廃止されずに残っていれば……という想像をするのも楽しいが、やはり実際にあるいてたどってみるのもおもしろい。
かつて、二子玉川園駅から、砧本村(きぬたほんむら)にかけて、「砧線(きぬたせん)」という鉄道路線があった。
1924年に開通し、1969年に廃止された鉄道路線である。廃止から50年経った今、痕跡は残っているのだろうか?
※編集部より
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今回はデイリーポータルZの林さん、ライターのきだてさん、伊藤さん、そして私西村で、砧線の廃線跡をたどってみることになった。
その前に、砧線について、もうすこしだけ説明しておきたい。
砧線の全長は2.2キロほどで、二子玉川園駅(現在の二子玉川駅)と砧本村駅の間に、中耕地駅、吉沢駅、伊勢宮河原駅、大蔵駅などの駅があったらしいが、伊勢宮河原駅と大蔵駅は1943年ごろに無くなってしまったため、始発終点あわせて4駅という小さな鉄道路線だった。
この砧線は、渋谷から二子玉川までを走っていた路面電車、玉川線と時を同じくして廃止された。ちなみにこのとき廃止されずに残ったのが、現在の世田谷線だ。
二子玉川駅に集合したわれわれは、さっそく最初のポイントへ向かう。
田園都市線の高架下に自転車置き場があるが、ちょうどそこが昔の線路跡である。
現在、自転車置場となっているところがちょうど線路にあたるはずだ
道が不自然にクランクになっているのは、道路と線路がなるべく直交して交差するようにするためだろう。
この踏切跡も砧線の遺構といえるかもしれない。
ちょうど自転車置き場の向かいは細い建物が建っており、おそらくこの建物は線路があったころから建っているのだろう。建物の裏手には草ボーボーの空き地がある。
ひょいと覗いてみたところ、いきなり廃線の痕跡を発見してしまった。
鉄道柵だ。鉄道柵とは、線路内に人が立ち入らないよう、道路と線路の境界に設けられる柵のことだ。
かつて線路があり、電車が走ったであろう場所には、木がいくつも生えていたが、鉄道柵はおそらく当時のまま、ここに設置されている。
いきなりこんな痕跡が見つかっちゃっていいのだろうか。大人4人で「すげーすげー」といいながら草むらのなかを覗きこむ。
ちょうど通りかかった外国人の親子にうっかり「廃線跡なんですよー」なんて説明なんかしちゃったりして、うかれ過ぎである。
砧線は、クランクの踏切跡のある場所から大きくカーブし、国道246号線を直交するように横切る。
なぜここが砧線跡とわかるのか? それは、看板に書いてあるから。
我々は中耕地駅を目指してとりあえず、歩く。
西村「そういえば、この歩道のタイル、線路を意識したデザインになってません?」
林「え、そうなの?」
きだて「レンガの積み方がそうなってるだけじゃないの?」
西村「両端を線路とすれば実際の線路の幅になるのでは?」
林「測りますか?」
ここで、メジャーがスルッと出る辺り、しかも、林さんだけじゃなく、きだてさんもメジャーを持っていたし、なんなら、ぼくも持っていた。なんなんだこの40代は。
しかし、残念ながらメジャーの長さが足りない。そこでレンガの長さを調べる。
林「レンガの長さが1個20センチで7個なので約140センチ……」
西村「標準軌の幅が1435 mmらしいのでだいたいあってますよね」
西村「こっちのほうがもっと線路っぽいタイルありますよ」
きだて「これ、線路の上歩いてると思うと、グラドル感ありますね……」
伊藤「怒られちゃうやつだ」
グラドル風にしばらくあるくと、中耕地駅跡に到着。
林「史跡とかってたいてい棒ですよね、長岡京や六波羅探題も棒でした」
「史跡には棒がたちがち」史跡あるあるだ。
西村「中耕地っていう駅名がもう、いいですよね。耕地ですよ。むかしは農地だったんでしょうね」
きだて「ネーミングのパターンとしてはド田舎村と一緒ですよね」
いまでこそおしゃれな町というイメージのある二子玉川だけれども、砧線があったころはのどかな田園地帯だったと思われる。
Wikipediaに当時の中耕地駅の写真があった。
突然広くなる歩道が、昔の中耕地駅のホームの跡だということがわかった。これも痕跡のひとつといえる。
中耕地駅の次は吉沢駅である。住宅地を抜け、橋(吉沢橋)のみえるところまでやってきた。
情報によると、吉沢駅は橋よりも手前にあったはずだ。
西村「もう、跡形もないですね」
林「あれ、もしかしてあの石……」
林「このマークってもしかして昔の東急のマークじゃないですか?」
すごい、ぴったりだ! 吉沢駅の痕跡がのこってた。
きだて「向こう側にも似たようなやつありますよ」
西村「ほんとだ! すごい」
伊藤「今は、病院になってますけど、昔はこっち側に駅があったんですかね」
西村「いやー、それにしてもすごい、これに気づいてるひとそんなに居ないんじゃないかな。もしかしたら新発見かもしれない」
そんなテンションで、記念写真を撮影した。
しかし、後で調べたところ、この旧東急のロゴマークの入った標柱がここにあるのは結構有名らしい。
Wikipediaには、往時の吉沢駅の写真も載っている。
昔の東急のマークが入った標柱は、ちょうど、ホームの両側にあたる部分にあるのではないか。もっともこの写真をみると、標柱は線路を撤去してから設置したものかもしれない。
首尾よく吉沢駅の痕跡を発見した我々は、吉沢橋にやってきた。
吉沢橋は、もともと電車専用の橋だったが、立派な歩道付き道路橋にかけ替えられた。
下を流れる野川は、多摩川に流れる川だが、めちゃめちゃでかいコイが何匹もいる。
コイを見に来たのではない、砧線である。
橋のいたるところに電車の痕跡がある……のだが、よくわからないものもある。
きだて「これは、もしかして、車輪とレール? じゃない」
西村「あー、なるほど、下のがレールで丸いのが車輪かぁ、隠されたメッセージが次々と明らかになっていく」
伊藤「ダ・ヴィンチ・コードだ」
吉沢橋はダ・ヴィンチ・コードであることが判明した。
続いて大蔵駅跡に向かう。
大蔵駅は、最初にも述べたように、戦時中に休止され、そのまま廃止になってしまった駅だ。しかし、古い地図をみると操車場のような引き込み線がみえる。
引き込み線があったと思われる場所は住宅が立ち並んでおり、痕跡らしきものは一切ない。
駅のあった場所の向かいには大きなグラウンドがあるが、土地がかなり凹んでいる。
もともと、砧線は砂利を採取する目的で作られた路線で、このグラウンドは砂利を掘ったあとのくぼみに作られた。
なお、砧線で運び出した砂利は、玉川線を使って渋谷まで運ばれ、現在モヤイ像のあるバスターミナルの広場に砂利を置いていたという。ちなみにその頃の渋谷駅は現在の場所ではなく、新南口のあたりにあった。
砂利の採取はその後禁止され、ここで砂利採取がされていたことを示す痕跡はこのグラウンドのくぼみぐらいになってしまった。
砧線廃線さんぽも、いよいよ大詰め。最後のバス停まであともう少しだ。
いい感じの三叉路だ。
これは本来、右側の道を列車が走っていた。そのため、この家の出入り口はすべて左側の道に面するようになっている。家の裏を見ながら、その先に進むと公園があり、その裏に、バスのターミナルがある。
そう、これが砧本村駅の駅舎だ。おそらく、駅舎として使われていた当時とは、向きが90度回転していると思われる。
50年前に廃止された駅の駅舎を、そのままバスの待合室に転用しているので、作りがゴツい。
伊藤「これ、よく見ると、住所が“世田区”になってたり、“世谷区”になってたりしてますけど、わざとですかね」
きだて「あ、ほんとだ」
西村「よく見ると、稲の字もみたことないな……」
伊藤「上の病院の一般とか労災は見たこと有るけれど、福、寿、退という言い方もあんまり見ない言い回しだなー」
西村「なぞが多い……」
50年も前に廃止された鉄道の痕跡なんてほとんど残ってないだろうと思っていたものの、そんなことはまったくなく、あちこちに、そういえばこれ砧線の痕跡じゃないか、というものが残っている。
それほどまでに、鉄道路線というものの存在としての濃さを感じた。
もし、廃止されずに残っていれば……という想像をするのも楽しいが、やはり実際にあるいてたどってみるのもおもしろい。
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