ふくでもないし、魚でもないのだが櫛崎城跡の隣に静かにたたずむ「くじら館」もとにかくでかいし、醸し出す雰囲気がただならぬので下関観光の折にはでかいふく鑑賞とセットでどうぞ。
本州再西端の港町、下関。景観に歴史とコンテンツは枚挙にいとまがないが、海に囲まれ豊かな漁場を持つ下関を代表する食文化が「ふく」、つまりふぐである。町をうろうろしていたら、ふくがどんどんでかくなっていった。そんな旅であった。
女と書いて「ひと」と読む菓子、「長州の女(ひと)」に会いに下関までやってきた。(こちらの記事の取材です)
会うにあたって、地元の風土を体感し、あの女(ひと)にふさわしい感じをまとわねばならない、人として。
だから町を徘徊しようと駅を出るとすぐ、丸っとした魚群のオブジェに遭遇する。
下関はふくの町である。いわゆる「ふぐ」のことだが「福」につながることから「ふく」と呼ばれている。
「ふぐは食いたし命は惜しし」とことわざにあるように、たまらんほど美味なくせにテトロドトキシンという死に至る猛毒を持った魚で、どのぐらいたまらんかというと、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で下関に集結した武士たちの間で中毒死が多発したため、けっこうな罰則付きのふぐ食禁止令が発布されるという事態になってしまったほどだ。かわいいふりしてあの娘、わりと殺るもんだねという感じである。
明治時代までこの禁令は続いたが(とはいっても密かに食べられていたらしい)、初代総理大臣伊藤博文が下関を訪問した際、時化のせいで魚がまったく捕れず、仕方ないので宿の女将が処罰覚悟でふぐを出した。それにしてもすごい決断したな、かなりテンパってたのかなと思うが伊藤はその味に感動し、中毒もしなくて済んだので、明治21年、政治的なパワーを行使してふぐ食を解禁した。
そこから下関は全国的にもふぐの本場となり、天然、養殖のふぐが集められる一大集積地となった。なるほど巷にはふく料理店がたくさん点在しているが、料理店だけにとどまらない。
海と陸の境界をあやふやにしようとしているかのごとく、ふくがあふれているではないか。
コリアンタウンな感じだし、さすがにここにふくはいないかと思いきや、随所に姿をあらわしてきた。
全長153m、天空にもとどく勢いの海峡ゆめタワーのふもとにもふくは群生していた。
海峡ゆめタワーのある臨海エリアをちょっと頑張って海沿いに歩くとしものせき水族館に着く。
「おはこんばんちは」と言いたいがためにペンギン村から入ってしまったが、さすがふくの街下関の水族館とあってフグの展示・研究の充実っぷりがすごい。
この日は記録的な大雨が叩きつけるように降り注ぎ、イルカショーの会場でイルカのジャンプと同時にオーディエンスのスマホから避難警報がいっせいにプワップワッと鳴り響いた。
翌日、さらに北へ足を伸ばし唐戸町の中心部へ向かう。
しものせき水族館から連なるウォーターフロントとしてにぎわいを見せるカモンワーフ・唐戸市場から国道をはさんで内陸側に「唐戸商店街」というアーケード商店街が広がっている。
観光客でにぎわう湾岸部と比べるといささか寂しさはあるが、歩いてみるとなかなか味わいのあるお店や黒いポカリの自販機に遭遇する。
唐戸商店街のすぐ隣には亀山八幡宮という、「関の氏神」と呼ばれ市内一円に氏子をもつ立派な神社がある。そこにはふくがたくさんおるなと散歩していた私の心を突き動かすメッセージが掲げられていた。
ぐずぐずの天候の中、何度も強い雨に降られながら歩きに歩いて疲れ果てていたが、石段を一気に駆け上がるようなテンションだけ持ってやっぱりゆっくり歩いて上がった。
目の当たりにした世界一のふく像はやはり石段を登って見に行くべきものだった。
幅は2mほどだろうか。のたりうつ波に乗り、どや顔で周囲を見晴らす立派なふく。なんかこんな感じにしてみましたという思いつきレベルではなく、ちゃんとルーツがあった。亀山八幡宮のサイトによると、昭和9年に関門ふく交友会の人々が「波のりふくの像」を建立し、下関の名物として親しまれていたが、大東亜戦争末期の昭和19年、金属供出により鉄砲玉となってしまったという。
平成に入り有志により再建され、平成2年9月29日に除幕式が行われたという。2929でふくふくの日とのことだ、粋である。
※参照:亀山八幡宮「境内散歩 ふくの像」
このふく像が見下ろす先でにぎわいを見せているのが唐戸市場である。
昭和8年、「下関市唐戸魚菜市場」として開場され、改築や新築移転などを経て海響館やカモンワーフと一大ウォーターフロントを形成し、観光市場として活況を呈している。
ふくの寿司や唐揚げを堪能し、来客のピークも落ち着いた場内を見ると、ちょっととんでもないふくがいた。
さっき見た亀山八幡宮のふく像を凌駕するサイズ(鶴岡八幡宮のふく像はあくまで銅像で世界一)、ふく像の活き活きとした感じではなく、表情にはどことなく倦怠感を感じる。でも、これこそがふくの本質なのではないかと思わせるものがある。なんか頭がはがれているし。
取材も終わり帰路に着く。海をはさんだ福岡県の小倉へ渡りそこから新幹線で東京へ向かうつもりだったが豪雨で在来線は全て運行を取りやめ、小倉へ行くことができない。
やむなく新下関駅へ行き、東京行きの新幹線で帰ることにしてバスに乗り新下関駅へ向かう。
駅の構内で聞こえてきたピアノ演奏が度々つっかえていて、こういうストリートピアノのほうがおじさん好きだなとピアノの方へ歩いていくとそこにふくのでかいのが鎮座していた。
添えつけてある説明パネルによると外径3.5m、重量1000kgとスーパージャンボの称号にふさわしい体躯である。
「ふく鍋」とあるようにお飾りではなく、「下関海峡まつり」や「下関魚まつり」といったイベントで実際に使われていたもので展示されているのが2代目らしい。
「西日本液化ガス(株)さんにはジャンボ鍋専用の燃焼システムを開発していただきました」と尋常でないことがさらっと書いてある。
初代スーパー・ジャンボふく鍋制作時の実行委員長だったという味噌・珍味製造業の老舗「おかもと」社長日記には口の部分を開口して使用している際の写真が掲載され、「二代目ふく鍋は神戸製鋼所が航空機製作の技術を駆使し、アルミ合金製の鍋とふく型を作っていただきました」とこれまた尋常でないエピソードが綴られている。
※参照:おかむら社長日記:2007年5月9日・下関名物・ジャンボふく鍋!!
去る直前まででかいふくを眺めた旅となった。まだまだでかくなって、遺跡化して未来人を困惑させてほしい。
ふくでもないし、魚でもないのだが櫛崎城跡の隣に静かにたたずむ「くじら館」もとにかくでかいし、醸し出す雰囲気がただならぬので下関観光の折にはでかいふく鑑賞とセットでどうぞ。
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