低いところから高いところまで歩かずに行く
長野県乗鞍岳へは、かねてから行きたいと思っていた。
日本百名山を名付けた深田久弥が「日本で最もすぐれた山岳風景」だとえらく高い評価を授けているのだが、本当にそんなにすごいのか、気になっていたのだ。
そんなとき、DPZの林さんと「最短歩数で高いところまで行く」という企画の話が持ち上がった。そういえばと調べてみたら、乗鞍岳は標高2700mまでバスが通っている。これは日本で一番高いバス停らしい。乗鞍は、最短歩数で高いところに行くのに最適な山だったというわけだ。運命を感じた。
そうだ、せっかくだったら、日本で一番深い駅から出発するのはどうだろう、と思った。
つまり、日本でもっとも大きな標高差を最短歩数で行ってみるのだ。モータリゼーションの限界に挑んでいく。
日本で一番深い駅を調べてみると、群馬の土合駅がそうらしい。
というわけで、にわかにこんな旅行をやることにした。
深さ70mから2716mまで、2786mの高低差をなるべく歩かずに行ってみる。しかも群馬の山奥から、長野の山奥まで。
身震いがしてきた。いいじゃないか。
ルートを決めた
さっそく、私は友人をファミレスに呼び出し、旅行に誘った
少しの疑問符が浮かんでいるように見えたが、だいたいやることは分かってもらえた。それでいいのだ。人生、わからないことの方が多いのだから。
出発点が土合駅なのが悩ましい。土合駅の場所を地図で見せたとき、友人2人が明らかに引いていた。どう考えても、長野に向かうための出発点じゃないと思っただろう。
土合からJRで高崎までいき、そこから長野を経由して、松本を目指す。松本からはバスを2本乗り継げば、めでたく標高2716mに到着する。
電車・新幹線・バス。公共交通機関のコース料理だ。さあ、あとは実際に向かうだけである。
日本一のモグラ駅に着いた
当日になった。天気予報は晴れでうれしかったが、よく考えたらほとんど乗り物に乗っているから関係なかった。まずは土合に行く。東京から高崎線と上越線を乗り継いで群馬の土合へ。
この土合駅がすごいのだ。
とても駅だとは思えない。さすが日本一のモグラ駅というだけあって、ホームに向かうまでの階段がすごい。
一日の平均乗降客数は数十人だというが、私たちが行った日は多くの人がいた。駅を見にきたのであろう家族連れや、自転車をかつぐ人もいる。土合駅は、谷川岳の登山道がすぐ近くにある駅で、アウトドアーを楽しむ人々が主に利用するらしい。
歩数計をゼロにセットする。ちゃんと動いてくれよ、と言う。
ここで私たちはあることに気がついた。私たちがこれから乗るのは、上り電車だ。しかし、この地下深くにあるのは下り電車のホーム。上り電車のホームはこの階段の先、地上にあるから、この永遠に続く階段を登らなければならない。それって結構歩数のロスではないか。
とはいえ、このときはあまり深く考えず、「まあ、大股で階段を飛び跳ねればいいでしょ」などと友人と言い合っていた。でもすでにこのとき、私たちは大きなミスを犯していたのだ。
痛恨のミス
さて、歩き始めるぞ、といったところで、友人が階段の前にある看板に気が付いた。
ここの高さは標高583mだというのだ。なんだって。
「地下70m」とは、地上から計算して70mにあるということで、駅全体の標高が高ければ、地下70mの地点の標高も高くなる。考えてみりゃ、あたりまえのことだ。現にここは、標高583m。高尾山の頂上と同じぐらいの高さだ。高いな。
つまり、土合駅から標高2716m駅までいっても、その標高差は日本一にはならない。わざわざ苦労してまで土合に行く義理なぞ、なかったのである。友人に土合駅の位置を見せて引かれることもなかったのである。
いい年をした人間が3人集まって、なぜこんな単純なことに気がつかなかったのだろう。なんともいえない虚脱感が私たちをおそった。
「でもやってみようよ」
友人がいう。
なんかかっこよく聞こえたが、別にそれほどでもないことに気づく。というか、やるしかない。すでに、私たちは土合にいるのだから。なんといっても日本一のモグラ駅である。日本一のモグラ駅から日本一標高が高いバス停まで最短歩数で行くのだ。
人は動かないと酒を飲む
さて、高崎まで戻ろう。
次の電車を見てみると、まだ40分ある。普段のわたしだったら土方駅から少し足を伸ばして観光しているだろうが、今回は最短歩数で進むというルールがある(すでにルールの一部は破綻をしているわけだが、それだけは守りたい)。うかつには動けないけれど、土方を楽しみたい。そこで出会ったのが、
ここなら動かずに楽しめそう。というわけで、やはり楽しむには、
これを駅舎で飲む。動かずにだ。
ここで、私はふと気づいてしまった、動かないで楽しむのに最適なのは、酒を飲むことなのかもしれないと。
旧切符売り場のところで酒を飲んでいたら、なぜか本当の駅員に間違えられて「切符はここで買えますか」と聞かれた。その後に店員さんが来て、「そこに座っていると百発百中駅員さんに間違えられるんですよね〜」と言っていた。
カフェの雰囲気が最高で、ここなら駅員さんになってもいいと思った。じぶんがなぜ土合にいるのかもだんだん忘れてしまう。
おかげで電車がホームに入るまでその存在に気がつかなくて、全力ダッシュで飛び乗るという、最短歩数とは程遠いことをしてしまったのはここだけの話だ。
そんなこんなで高崎に到着。
土合の階段でロスはあったものの、おかげで歩数は順調に伸びていない。高崎までで800歩ぐらいだ。
お酒を飲めば、人は動かない。ただし、トイレに行きたくなるのが、たまにきず。大股でトイレに行く。
万歩計が動かない
土合の標高が高いことは痛恨のミスだった。
ツイていない日というのはどこまでもツイていない。高崎から長野に向かう途中で突然、万歩計の電源が切れたのである。電池切れを表す「Lo」が万歩計に表示された。おかしい。電池は前日に新品を入れたばかりだし、取扱説明書には電池一つで6週間はもつと書いてある。
いきなり企画終了かと一時は強制終了の感さえあったが、不幸中の幸いだったのは、歩数が奇跡的に追えたことである。
新幹線が動く前に歩数計が「810歩」と示してあるのを見て、そのあとは新幹線の車内で全く動いていないから、数値は追えたのだ。
電池切れの万歩計はずっと「Lo」(Low battery)という表示を出したまま、もう、うんともすんとも言わない。「Lo」が出せる余力があるんだったら少しでも歩数を測れよ、と歩数計に言ったのだが、彼は黙って「Lo」を表示していた。
仕方なくスマホの万歩計アプリをすぐさまダウンロードし、それで改めて歩数を測り始める。最初からこうすればよかった。
最短歩数で絶景を
すさんだ私を救ってくれたのは酒だった。
おまけに長野から松本へ向かう途中の「姥捨」という駅では、絶景を眺められた。実はこの「姥捨」という駅、名前に似合わず、日本三大車窓の一つに数えられる駅らしい。ホームからすぐに絶景が見られるので、歩数も少なくて済む。とてもうれしい。
ほとんど動かずにこんな絶景が眺められるなんて最高じゃないか。
ここまでの歩数は481歩。万歩計が動かなくなる前の、810歩と合わせると、1281歩。かなりいい感じだ。ほとんど動かずに松本までやってきた。
初日は松本で宿泊だ。標高2716mに行くために朝早くから行かねばならない。
動かない利点を感じつつ
2日目は松本駅から出発した。松本から松本電鉄で新島々駅まで行って、そこからバスを2本乗り継ぐのだ。旅行に行くまえ、「新島々」の読み方をめぐって論争が勃発した。
「しんしましま」か「しんしまじま」か、それとももっとエキセントリックな読み方なのかもしれない。
いずれにしても変な駅名だなあ、と思っていたのだが、駅についてみると「しんしましま」という読み方が正しいらしく、駅員さんやバス会社の人はみんな「しんしましま」と言っていた。真面目に言っているのが、なんだかかわいくて、おかしかった。
新島々からバスで1時間ほどゆられる。バスに乗るやいなや、私はぐっすり眠ってしまった。昨日は3人1部屋のビジネスホテルに泊まったのだが、ジャンケンで負けた私はツインベッドに友人と2人で寝ることになり、ベットの仁義なき領土争いの末、よく眠れなかった。3回ぐらい起きたぐらいだ。見ると、シングルベッドでよく寝ていたはずの友人も寝ているから、人の睡眠欲は無限大だと思い知らされる。
動かない旅の利点は、こんなところにもある。ホテルで眠れなくても、移動で眠れるのだ。
ふと起きると、バスはすっかり山奥に入っていた。窓の外にはダムが広がっていて、車内にはダムの由来を説明する音声が流れている。ふだんはバスを降りた後にどう動くかを考えるから、こういう音声もほとんど聞かないのだけれど、特にやることもない、この音声をずっと聞いていたら、けっこうタメになった。長くなるからここには書かない。
2日目にして、動かない旅の利点を感じつつあった。
気圧計のこと
そんなことをしているうち、バスは目的地についた。乗鞍高原の観光センターだ。ここから乗鞍山頂までのバスが出ている。
見ると、バスの出発まで1時間ほどある。とはいえ、動くわけにもいかないし、我々はとりあえず近くの喫茶店に入ることにした。
私が注文を言おうとすると、いきなりその店員さんが私が首に下げていた気圧計を指差して、「それ、ウェザーニュースのレポーターになったんですか?」とをたずねた。私は「いや、これは人から借りただけなんですけど・・」と答えになっているかどうかわからないことを言う。
店員さんはなんだか嬉しそうに、「そうなんですね!その気圧計、ウェザーニューズに何回も天気をレポートしないともらえないんですよ、ぼくは、社員だったけどもらえなかったんですよね」と一息に言った。
実はこの気圧計、旅行中の気圧を調べるためにDPZの林さんから借りたものだ。林さんは何回も天気のレポートを送ったのかもしれない。
気圧計の来歴も気になるが、なによりこの店員のお兄さんが元々ウェザーニューズの社員だったのも気になる。話をしたあとは、忙しそうにコーヒーやホットミルクを作っていたから詳しく話は聞けなかったが、出てきたコーヒーを飲みながら、お兄さんのこれまでの人生を勝手に想像していた。
妄想も動かずにできるな。
バスまでまだ時間が、あった。
ついに標高2716mへ
やっとバスがきた。
バスを待つ人の列はもう長くて、もっとみんなバスに頼らずに自分の足で頂上をめざしたほうがいいんじゃないかと思ったが、一番それを言うのにふさわしくない人間であることに気がついたので、口には出さなかった。
バスは乗鞍スカイラインという道路を通り、乗鞍岳の頂上近くまで私たちを運ぶ。
ウェザーニューズに天気のレポートをマメに送った人しかもらえない気圧計を見ると、どんどん気圧が下がっている。とてつもなく高度が上がっているらしい。
バスはぐねぐねと曲がりながら上昇を繰り返し、時おりとても良い景色が窓から見える。
換気のために少し開けた窓から、空気が入ってくる。空気の違いだけで、ここがもう地上の世界とは少し違うぞ、ということがよくわかる。なんとも言い表せないのだが、高地特有の空気感というのがあるのだ。
そしてバスは、ついに、こう言った。
「次は、標高2716mです」
これが、私たちが目指したバス停、日本で一番高い場所にあるバス停である。すかさずに下車を知らせるボタンを押して、友人たちと、ドタドタと降りる。もちろん、歩数が増えないように慎重にだ。
そして、ついに。
土合駅から、はるばる1日かけて、日本標高が高いバス停「標高2716m」にやってきたのだ。
歩数計はどうだろうか。
「767歩」と表示があった。昨日は1281歩、そして今日は767歩。合計2048歩だ。だいたい2000歩で標高2716mまでいけたのだ。
ちなみに私の身長で2000歩というと、だいたい1.4kmぐらいの移動しかしていないことになる。400mトラック3周とちょっとだ。ちなみに1500m走の世界記録は、3分26秒だというから、頑張れば3分ちょっとで行ける道のりでもある。
近いな。
酒飲んで、寝て、また酒飲んで、時おりいい景色をみてワーワー言ってたら標高2700mまで辿り着いていた。移動はしているんだけど、移動はしていないというような、なんだか不思議な気分だった。モータリゼーション、ありがとう。あるいは、バスを通してくれた乗鞍岳、ありがとう。
動かない旅もまた一興
いろいろアクシデントはあったけれど、旅を通じてじっとしていた。「旅に来てダラダラしてるなんてもったいなさすぎる!」と人に言っていたいつもの私では考えられない。
でも、だらだらする旅も良かった。立ち止まっていると、いつもは見えない風景も見えたし、きっと話さなかっただろう人とも話せた。それと、電車でお酒を飲むと酔いが早いこともよくわかった。おいしかったけど。
かたくなに動こうとしない私に付き合ってくれた友人にもお礼を言いたい。多分彼らはもっといろいろ動いて、見たかったと思う。