罰の味とはなにか
尾崎放哉は咳をしても一人だと言いました。その時、放哉は咳を味わったのではないでしょうか。ああ、これが咳だよなあ。咳というものなんだよなあ、一人なんだなあ、と。ダウナー感にも似ただよなあ感で味わったのでしょう。
私は「ああ、これが罰ゲームというものだよなあ」と味わってみたいと思っているんです。
「罪の味」と言われるとなんとなく想像がつきます。背徳感とないまぜになったような快楽です。
一方、字は似ているものの「罰の味」は聞いたこともありません。罰なんて味わってどうするというのでしょう。
罰ゲームとはただの罰である
罰ゲームとはなにか。ゲームではありません。ただの罰です。とは言っても窃盗による懲役三年は罰ゲームと言いません。罰ゲームはゲームのような「本当の罪ではない」ことに対しての罰という意味です。ゲーム罰です。
テレビのバラエティでは罰ゲームがつきものでした。
「罰ゲーム」で検索をすると宴会やレクリエーションで使うのでしょう「おもしろい罰ゲーム一覧」がたくさん出てきます。
そこでは初級として「声まね」から紹介が始まり、中級として「コスプレ」や「初恋トーク」上級として「SNSのアイコンを変更」というものがありました。最初から最後までただただ恥をかかされます。
罰って楽しい!
人間は集団で暮らす生き物です。たとえば刃物を発明してみんなで共有するように、結束した集団の強い文化がそのまま力となります。文化を乱すような強い個性が現れると排除しようとします。
でもどうやって? 笑いものにして、です。人間は社会的評価が下がると感じると恥をかきます。評価を下げたという意思表示に笑いを示します。
もちろん「文化を守ろう」と目的を持って笑ってる人はいません。その代わり笑いものにすると「楽しい」という感覚が得られるようになってるんです。
とはいえ、キャンプのしおりに「夜はみんなで罰ゲームをして思いっきり楽しみましょう!」と書かれていたらどうでしょうか。この楽しさは決して明るみにだされることのない楽しさなんです。
「楽しくなければテレビじゃない」というとあるテレビ局のスローガンは1981年に生まれたそうです。そこから罰ゲームも隆盛を迎えます。80年生まれでテレビ育ちの私は罰ゲームで育ったようなものではないでしょうか。
私達は罰がだいすき!
単一民族で外敵も少なかった島国ではこの排除する力、「笑いものにする」楽しさを好む人達が多く暮らしています。私はジム・キャリーがアツアツおでんを食べてるのを見たことがありません。落とし穴に落とされてるミスター・ビーンもありません。反例はいくらでも見つかるでしょうけど、雰囲気で流されてください。
ですよね。日本の芸能では正常でない行動に対して「ツッコミ」として人を殴打します。これも小さな罰ゲームです。
認めましょう。私達は罰ゲームを愛する国民なんです。発話してみましょう。「罰ゲームを愛しています」と。
さあ、なにか心の扉が開いたところで今、私達が愛した罰ゲームがなくなろうとしています。あれはどういったものだったのか、向き合ってみたいんです。
何からはじめましょうか。一人でしっぺでもしようかと考えたものの、なんとなく予想がついたのでやめておきました。やったことのないことがいいです。
味といえば罰ゲームの定番でもあります。たとえばシュークリームにわさびはどうでしょうか。罰を味わうにおいて、味覚から入るのは入門としてもよさそうです。
わさびシュークリームを味わってみる
シュークリームの中身をチューブわさびに入れ替えて、わさび入りのシュークリームを食べます。それもできるだけ知らないふりをして。
これがふつうのシュークリームなんだと思いこむために、まずはふつうのものを1つ。とっても甘いです。「高い和菓子は甘くない」の対偶である「安い洋菓子は甘い」もきっちり真です。
続いて、わさびシュークリームが口に放り込まれます。塩っぱい。
まず感じたものは塩気でした。チューブ入りわさびは保存のためか塩分が入っているようでした。続いて苦み、わさびの清涼感のある香りが世界を覆ってきました。嫌な予感がするとすぐに辛味がやってきました。
体をくの字に曲げました。つづいて両手を上げてへの字に仰ぎました。誰もいないのに「ああああ」という適当につけたゲームの勇者の名前のような言葉を発していました。
笑う者はいず、一人でした。自主的にのたうちまわりました。死者の踊りのようでした。誰も得をしない完全なボランティアでした。
逆説的に生を感じる罰ゲーム
間違いなく有事です。体は全力でそれ以上食べるなと危険信号を発します。信じられないことに私がこの罰を与えられているときに感じたことは主役感でした。それは人生でスポットライトが当たっているような感覚でした。
今、私にマイクが回ってきたような。私が今お誕生日であるような。
映画『ファイトクラブ』ではぬるい資本主義において希薄になった生を実感するために自分の体を痛めつけ始めます。ここにある高揚感はまさにそういうものでした。御柱祭のように死人が出るほど危険なお祭りも大きな意味では罰ゲームなのかもしれません。
罰を与えられているとき、私達は主役である
テレビで芸人たちがわさび入りシュークリームを食べてのたうちまわっているとき、彼らは「ここが見せ場だ」と思っていることを私達はうっすら感じとっています。
罰を与えられている時、人は主役である。それは一人のときも有効のようです。
(もちろん「罰を味わってみよ~!」と言い出したのに「罰とは主役だ」と言い出すのは話が先に進みすぎている気もします。その間には「罰って痛いよな、ひどいよな、あってはならないよな」という分かりきったことが挟まってますが、みんな大人でしょうから飛ばします。)
罰ゲームとは自身を主役にする行為なのかもしれません。もちろんこれは社会的な関係性のない罰ゲームにおいて、です。
「あなたは人生の主役」と両親に愛情を注がれた十代を終え、私が家を離れたとき、有名歌手と結婚していた俳優が2000万円の小説賞をとりました。私は彼の世界に生きさせてもらってるのかもしれないなと考え始めました。
たとえば会社や学校などで否定や疎外が続き、社会的に自身の「主人公」感が薄れていったとき。人々が休息をとる日曜日に、ひっそりとどこともしれない和室で自身を罰する。そうして生を実感しまた明日への活力とする。それは現代の模範的な庶民としてあるべき姿の一つなんじゃないでしょうか。
今度の週末はあなたも一人で罰ゲームを。まあそれがファイトクラブなんですけども。
つづいて罰は鼻に
こうした罰ゲームの有効利用方法を発見したところでこの記事を終わってもいいのですが、つづいて、まだ味わったことのない罰があります。鼻フックです。テレビでよく鼻にフックをかけられている映像を見るんです。あれは何なんでしょうか。
鼻フックはワイワイしていて楽しそうでもあります。それを一人でやるとどうなるのでしょうか。
まず鼻フックを作ることにしました。
検索をしてフックの形状を調べました。フック自体は痛くないように、太めの針金で曲面を作るようでした。でも考えてみたら罰なんだから、全て尖っていてもいいはずなんですけどね。針金を丸く丸くしているとこのやさしさはどこに向かっているのかと不思議に思いました。
ひもを引っ張る方向を考えると曲面はさらに90度曲げて…と小さく試行錯誤がありまして、それ自体は痛くなく、純粋に鼻をフックだけできるような装置が出来上がりました。
なんていうことでしょう。私はここにある鼻フックの写真に対して喜びや充実を感じているのです。つまりこんなことでもうれしいんです。
私達は自分が埋められるための穴を掘れと言われたとしても、きっと「よく掘れた」と少しは感じてしまうのでしょう。
世の中には罰を考える仕事がある
こうした試行錯誤をしているとテレビ番組のADさんの気持ちがわかります。一体どの罰がおもしろいのだろうか、どうやってやればケガしないのだろうかと、ADさんたちは誰も見ていないところで罰を試行錯誤しているのでしょう。
「私はそんなことはしないほうがいいと思うのですが…」と言って何にもしない会社員バートルビー。そういう海外の小説があります。その結末を知りたくない方は次の写真まで読み飛ばしてください。
彼は元々郵便局員でした。宛先を間違って届かなかった郵便物を処分する仕事を彼はしていたのでした。毎日毎日、誰かへの思いを無に帰していたんです。いつの間にかバートルビーはおかしくなってしまいました。
罰ゲームを考えるADさんはバートルビーに近いんじゃないでしょうか。そんなことを考えながら鼻フックを丁寧に丁寧に作っていました。このクリエイションはなんのために行われるのでしょうか。
鼻フックは痛くない
鼻フックはうまく機能しました。痛くもなくまっすぐに鼻を上向きに。そこで気付いたのは痛覚のなさでした。たとえば脇の下をちょっとつねるとすぐ痛いのに、鼻をぐいぐい引っ張られても痛くはないんです。はたしてこれは罰なんでしょうか?
顔がぐいぐいと上がっていきます。もちろん私が「痛い痛い!」と痛がれば、見ている人は笑ってくれるでしょう。でも誰もいません。ただ顔が上がっていきます。
ここで気づいたのですが、心が少し晴れやかになっていくんです。また話を先に進めすぎてるのは否めません。ですが、ただ顔を上げているだけなのに気持ちまでも上向きになっていってるのは事実なんです。
鼻フックされてる人には坂本九が流れている
私の鼻が上がっていったとき、私の心の中では坂本九が歌う上を向いて歩く歌のイントロのマリンバが聞こえてきました。
そもそもなぜ気持ちは「上向き」と表現するのでしょうか。太陽が上にあるからでしょうか。恥ずかしいと顔を下に隠すからでしょうか。卵が先かニワトリが先か、となってしまいますが、とにかく私達の体が上を向くと気持ちまで上向きになっていくようです。
多少鼻が吊られている感覚はありますが痛くはありません。私の気持ちの総量としてはポジティブな方へと傾いていきました。一人で鼻を吊られながら。「輝いている」と歌うディズニー映画のように。ここでも主人公感はうっすらと漂います。
負の遺産として罰ゲームを再考してみようとしていました。それはちょっとしたダークツーリズムのようなものだと私は考えていました。
ところがどうでしょう。やってみるとそこにあったのは主人公感や、気持ちの上向きさ加減でした。こうした実験においては「2」は具合悪いので「3」つめも一応やってみました。罰ゲームの定番として出てきた「尻字」でした。
誰に見せるものでもない尻字はただのフィットネスでした。体幹が鍛えられるような気がして、ちょっとした汗をかいた後にさわやかさが残ります。
たった一人の罰ゲームは、総じてポジティブなものだったのです。
罰ゲームそれ自体はひどいものではありませんでした。もちろんわさびを大量に食べて、身体的な危機を感じたことはたしかです。ですが、喉元をすぎれば苦しみよりも気持ちの振れ幅の大きさに満足感をおぼえるほどです。
罰ゲーム内の行為自体はダイナミックで楽しいものなんです。とすると罰ゲームの純粋な罰とは「社会的評価の低下」というところにありそうです。
そうでしたそうでした。考えてみれば罰ゲームはこれからです。この記事が公開されることで私は大きく社会的な評価を下げることでしょう。ここからが本当の罰ゲームが待っているんです。そうですよ、炎上している人もきっと主人公なんです。