連れて行かれる人の気持ち
グルメ漫画で「お前達に本物を食べさせてやる」と連れていかれる人たちってどんな感じなんだろう。
そんな話題がデイリーポータルZの飲み会で昔からよく語られていた。多少スケールダウンすればあれを実際に体験できるのではないか。
翌日京都に行ったりするのではなく、すぐ移動して2時間以内に収めるのだ。場所も用賀から電車で11分の渋谷、食べるものはちょっと珍しいものとしてタイ料理のマッサマンカレーを選んだ。
「記事の撮影をするので2時間空けてきてください」とお願いして人を集めた。
いきなり『美味しんぼ』みたいな人がいる
この記事の担当編集者である古賀さんには企画を説明しているが他の二人はわかっていない。
喪服を着てるのでなにかあるなと藤原は思ったそうだが実際は『美味しんぼ』のコスプレである。口もきかず、ずっとムスッとしている。ここからふざけるなと怒りだし、本物を食わせてやると立ち上がるのだ。
まがいもののマッサマンカレーを食べさせる
本物を食べさせに行くためにはまず偽物を食べさせないといけない。
「私がマッサマンカレーというものを作ってきたのでまずは食べて感想を聞かせてください」と、古賀さんが作ってきたことにして説明する。
実際は筆者がふつうのレトルトカレーに牛乳とピーナッツを入れて片栗粉でとろみをつけてきたものである。マッサマンカレーでもなんでもない、ピーナッツ牛乳カレーのばしだ。
いよいよそのときが来た
三人は適当に作られた偽物のマッサマンカレーをうまいうまいと食べている。実際に作った人が目の前にいるのだ、美味しいとしか言いようがない。
だが本物を知る男、山岡士郎(筆者がしてるコスプレ)はちがう。終始不機嫌にしていた男がついに口を開く…!!
「こんなものがマッサマンカレーだって言うんですか?」
もちろん自分が作ったのではあるが。
言うぞ、ついに言うぞ
この前日(明日、おれ本物を食べさせてやりますよって言うんだよな…)と天井を見ながらぼんやり思った。
水戸黄門の「控えおろう」刑事ドラマの「お隣さんなら留守ですよ」級の言ったことのなさ。まさか自分がこれを言うときが来るとは。とんでもない緊張感である。
そしてついにそのときが来た…!!
「みなさんにおれが本物の……」
こんなこと真顔で言えない
「おれが本物のマッサマンカレーを食べさせてやりますよ(笑)」である。一度こんな状況を作って自分でやってみてほしい。あれを実際にやるとどうしても(笑)がついてしまう。
言ってる(笑)、おれ、あれ言ってるよ(笑)、である。なぜか笑いが止まらない。ひいひい言いながらなんとか声を振り絞って言うことになる。
思ったよりテンションが上がらない
本物のマッサマンカレーを食わせてやるからこのあと12時40分に来いと指定をした。この後にくるのは本来のマンガであれば「なんだと!?」だとか「わかったわ!」だとか、とにかくテンションの高いリアクションだ。
ところが実際に返ってきた言葉は安藤の「今じゃなきゃだめですか?」である。
実際にやられると嫌そうだ
この日忙しかった安藤さんはこのとき心底、後日にしてほしいと思ったようだ。藤原にしてもそうだ。「カレーはもう食べたので、今日は十分だなと思いました」とそのときを振り返った。
「なんか怒ってて怖いし、偉そうだなと思った」と古賀さん。食べ「させて」やる、である。その後良い空気になるわけがない。
そしてこれがマンガであればこの悪い空気も「後日…」と飛ばせるが実際はちがう。この空気のまま移動が始まる…!!
そして気まずい時間がはじまる
明らかにみんな乗り気でない。当然だ。マッサマンカレーを食べたいなんてそもそも思ってないからだ。本物に対する欲求もない。筆者だってそんなに興味はない。この場のテンションが上がるわけがない。
12時40分渋谷集合にするのか、それともこれから一緒に行くのかと安藤さんから質問がある。美味しんぼにはなかったリアルな会話である。
次の予定も同じならなんとなくみんなで一緒に行きますか、となった。大人はなんとなく一緒に行動する。そして食べたものの片付けが始まる。荷物を持ってくる。
なんかおれのためにすいません、という美味しんぼで描かれなかった山岡士郎の心理があらわになり始めた。
移動中こそ本当の美味しんぼだ
この移動している時間こそが美味しんぼが描かなかった部分であり今日の醍醐味である。
「移動中、安藤さんが忙しそうだったのでスケジュールが大丈夫か不安でした」とは古賀さんの弁。
「タンカを切った大北くんもあれだけ偉ぶったからこれで不味かったら大変なことになるぞと心配でした」とも。
連れてく方は気まずいし連れられる方も心配をしている。これから美味しいものを食べに行くというのに、どこにも楽しさがない。
電車やエレベーターなどでは特にだれも喋らない。たまに喋ったところでこちらとしてはカレーの味を忘れてやしないか心配になる。
実際、渋谷に着いたとき、藤原は「あ、今カレーを食べに行くこと自体忘れていました」と言った。「みなさん、さっき食べたカレーの味を憶えててくださいね!」山岡士郎は怒った。
「雨が降っていて、やっぱり今日じゃないなと嫌な気持ちでした」と移動中を振り返って藤原は言う。この日は本当に寒かった。連れ出す方も申し訳なさがつのっていく。
美味しんぼで連れ出すのも雨だったら延期になってたはずだ。
Googleで検索した本物
最近食べたちょっと珍しいものとしてマッサマンカレーを選んだのであるが、「本物のマッサマンカレー」は検索で「渋谷 マッサマンカレー」で出てきた店にした。
タイ料理を出すお店なのだからきっと本物だろう。少なくともカレーにピーナッツ混ぜたものよりは本物だし、相対的に絶対本物だと言える。
店に着いてもテンションが上がらない
店に着いた。ガパオ食堂さんは恵比寿や青山などにもお店があるそうだ。本物、とわざわざ連れてこられるにしては店舗数が多めだ。
「へえ…ここかあ」雨の中とくに興味のないカレーを食べさせられる、それも本日2回めのカレーである。そんな思いを反映させたリアクションになった。
メニューを見ると専門店ならではの見たことのないおいしそうなものが並んでいる。参加者にも少し明るさが戻る。
だがすぐにメニューを取り上げる。今日は全員マッサマンカレー一択なのだ。「じゃあマッサマンカレー一人前と、あとはみんなで好きなの選びましょうよ!」そんな美味しんぼは見たことないからだ。
本物は美味しくて面目は保った
出てきたマッサマンカレーはちゃんと美味しかった。これで不味かったら気まずいどころではない。人間の尊厳がガタガタに崩れ落ちたことだろう。
ココナッツミルクをベースにした複雑で深い味わい、本物のピーナッツはこんなに甘く煮るんだ。ああ、本当によかった。この山岡士郎は今日初めて本物を食べたのだ。
三人も「本物はたしかに美味しいね」と納得してくれた。
とはいえ「まあ、おいしい!!」「これよ! 私がタイで食べたカレーはこれ!」「私が悪かった!!」とまではならなかった。
(ここは)美味しいですよ、(ここのは)美味しいですね、という心の内に多少ここまで来た道のりのめんどくささを内包したような反応だった。
本物は割り勘される
美味しんぼが最も描かなかった部分、それがお会計である。本物を食べさせてやると言われて連れていかれた先で割り勘をするのだろうか。それともおごってくれるのだろうか。移動費はどうなる?
私達はすべて割り勘である。割り勘してこの『美味しんぼ』は完結するのである。
実際にやると相当気まずい
冬のような気温で雨がずっと降っている。傘が小さくて濡れて寒い。こんな日に山岡士郎に本物を食べに行かされるのはごめんだ。
「本物のマッサマンカレー!?」「わかったわ!」「そこまで言うなら見せてもらおうじゃないか!」
漫画で描かれているこうした人々はみんなやさしい人なんだなと思わされる。食べさせる、なんて啖呵を切ってしまった人に気まずい思いをさせないでやろう。そんな本当の気遣いができる人たちなのである。
龍や魔法が出てきたりするのではなく、異世界に転生させられるのでもなく、「食べさせてやる」と言われて大げさに驚いたり前向きに食べに行ってあげる人々。こういうのが本当のファンタジーなのではないだろうか。
そんな日常におけるファンタジーに触れることができた。私は今日、山岡士郎だった。