SNSをながめていると引っかかってる人がタイムラインに流れてきた。
引っかかっているぞと思った。そういえばこういうことを最近してないなとも思った。大人になると人は街に引っかかったりしない。
彼らは白井愛咲さんとKEKEさんの二人によるアグネス吉井というダンスのユニットである。
街歩きの一つとしてダンス
アグネス吉井の二人のメインの活動は人前で踊ることではなく、街歩き×ダンスの活動「もやよし(※)」をWEBに載せることだそうだ。その中の動画の記録がSNSに流れてきたのだった。
「ふだんは路線図見てなにかありそうだなと思ったところを下調べもせずに来てますね」という。今日は筆者の土地勘のある下高井戸に来てもらった。
※もやよしとは『モヤモヤさまぁ~ず』のアグネス吉井版であるらしい
駅に降りてからぶらぶらと散歩がはじまる。市場を見たり古い建物を見たり、一般的な街歩きである。
「ブラタモリとか好きで影響されてたりするんですけど、専門家のような街歩きの知識があるわけでもないし、フィジカルに街を見るほうに重点を置いてます」という。
フィジカルに街を見る
"フィジカルに街を見る"とはどういうことだろう。
「斜めだなーとか曲がってるなーとか」
「ちゃんと調べたら建築法とか背景が出てくるのだろうけど、目に入ってきた形とか地形とかを素直に感じ取るんです」
なるほど、あまり考えずに見たままに反応するということだろうか。でもこの辺りものふつう散歩と大差ないだろう。
「変だね」「これもちょっと変だね」 とここで大きな木の根っこが気になりだした二人。
なぜ沿うのか
「我々のよくやることの一つなんですけど、体を沿わせる」
「ほんとそれだけなんですけど(笑)"沿う"っていうのがけっこうあるんですよね」
アグネス吉井はへんな木を見つけて体を沿わせる。それも一つのダンスとして。それを動画や写真に収めてWEB上に掲載する。そうしたダンス×街歩きがアグネス吉井のもやよしの活動なのだという。
玉川上水公園にはちょっと大きな遊具がたくさんある。二人はやはり気になっているようだ。
「どうだろう、このコースを周回するっていうのは…?」
「でもけっこう大きいからさあ」
「……」
「……巡礼とかやる?」
「よし、巡礼やるか」
「ハイスピード巡礼」
「それやってみようか」
「ハイスピードだとかつぐやつがいいのかな」
「やってみようか」
一体なんなんだ、ハイスピード巡礼のかつぐやつとは…!
一体どうしたんだ!?と思っていたが、話を聞くとこのような動きにも理由があるという
自分でなく、場所を見せたい
そもそもアグネス吉井の二人はどうしてこういうダンスになっていったのだろうか
「場所のよさを見せたいというのを一番重視しているんです」
「この場所の特性が一番映せる動きがなにかなって考えて」
「ちなみにここだとこういうレーンの形だよというので沿って動く。そして長さがあるからそこそこのスピードでいかないと見るのに長くなってしまう」
なるほど、場所の特性が動きを決めているのだ。振り付け by 場所だ。
ちなみにかつがない巡礼はこういう形なんだそうだ。めちゃめちゃ運ばれてるな…
「自分を見てほしいっていう感覚が我々にあんまりなくて」
「たとえば同じ野外のダンスだと『踊ってみた動画』とかありますけど、あれは見せたいのは"私"ですよね」
「私達は"景色"を見せたいので私達のからだは主役じゃなくていいんです」
「これを見てここ、こういう形なんだなって気づいてもらえたらいい」
「変だねって写真だけ撮るのではなくて、ぼくらがカーブを回ることでより強調する」
「蛍光ペンで大事なところに印をつけるみたいな作業ですね」
「ここを見てください、この曲線が、って」
そう言われるとこれはそんな特別なことでもない気がする。タージマハルをつまんだりピサの斜塔を支えて写真撮ったりするやつだ
――腑に落ちました。場所の特徴をとらえて際立たせる、それって街歩きの一つの形ですよね。スケッチしたり、俳句詠んだり…
「とはいえやってくうちに言語化されてったところもありますけど」
「最初はただ沿いたい、ただ転がりたいっていうところもあって」
転がるやつ。下が暗渠になっていて流れを示しているようだ
――あ、それだ! 引っかかってるのを見て、そういえばこういうことしてないなと思って。それって自分でもめちゃめちゃ引っかかりたいんでしょうね
「大人になったらあんまりやらなくなっちゃうんですけど、昔は引っかかってたはずなんですけどね」
「ダンスのいいところは通常やんないことをやっても許されるというのもあると思っていて。やってもいいんだぞと自分でも思えるような。」
「日常の規範から外れるところというか」
「やると楽しいんですよ、けっこう。あんまり地面に寝転がったりしないじゃないですか。普通に暮らしていると」
話の流れ上一回やってみましょう、ということになった。アグネス吉井の二人にはこの日「汚れてもいい白い服で来てください」と言われていた。
汚れてもいい白い服とはなにか。そんな禅問答に頭をもっていかれながらも自分で変なことをやれることに少し喜びを感じている。
――あの、すいません、これ顔はどういう顔すればいいんですかね……
「景色を見せるために体をつかうので景色の一部みたいな感じですかね」
「もう木になりきってください、私は木ですという」
――木です! 私が木です!!
木になる昼下がり
今自分は学芸会の木なんかよりもよっぽど木だ。自分でないなにかになるのは基本的に楽しいものだ。
しかし「ちょっと公園行って木になってくるわ」と言い残して父が出ていったらどう思うだろう。これは大いに不安を与える。
なので子供と公園で遊んでいる状況で「ちょっと木になってみる遊びをしよう」と提案したとしよう。これでもだいぶぎりぎりだ。血がつながってなかったら通報されていただろう。
その点、ダンスはいい。木の私が許されている。木に体をそわせながら感じたのは自由のうま味だ。日常の規範という刑務所から出てきたシャバの空気である。
三人でやらせてもらった。慣れてきた。理屈もわかってきた。だがこうやって動画で見ると(…なんだこんなことしてるんだ!)が蘇ってくる
――……今のは動いてないですね。ダンスってこんなに動かないものなんでしょうか?
「うーん、我々が"動かないがち"というのもあるでしょうね…」
「動かなさでいうと、もしかしたら最左翼かもしれない……」
「ダンス動画とか言いながら完全に動かないとかありますしね」
「ダンスなんですか?とはよく聞かれますけど、我々はダンスのつもりでやってますね」
――お客さんを入れてやるような公演はやらないんですか?
「この二人の組み合わせでやろうとすると舞台がむいてなかったんですよね」
「椅子にぎゅーって座ってなんかやってくれるだろって期待されてるなかでやるにはささいすぎちゃった」
「外で踊ってSNSでペラっと見てもらうくらいの距離感がいいかなーって」
これもダンスだ。心を無にして運ばれていったので感想はない
記念写真からも自由になる
なぜ人は写真に撮られるときにピースをするのだろうか。ピースがお決まりになってることをさっぴいても、この瞬間を残すにおいてピースであることを示したいからだろう。自分の状態を体で表現しているのだ。
これは別に自分の状態でなくてもいいだろう。木の形がおもしろければ木に沿うし、暗渠が流れていれば転がる。踊ってもいいわけである。
「私は平和です」でなくても「ここは大涌谷です」ピサの斜塔は倒れそうです」「これはペンです」を体で示してもいいのだ。
転がったり引っかかったり、踊ることは自由である。自由の何がいいのかというと突き詰めていうとくだらなさが許されるところだ。そもそもが人間が引っかかったりしてくだらないところが良かったのだ。私達ももっと自由に街を転がっていたいし、人が転がってる自由な街を歩きたい。
iPhone11のカメラは3つもついていてダサい。今は転がってるほうに"いいね"がつきますよみなさん。