そういえば、デイリーポータルライターの爲房さんのお父さんが岡山県の出身だったはず。
為房さんのお父さんの出身地と僕の家は桃鉄で2マスくらい離れているが、もしかすると牛神さまの牛の置物をお持ちではないか爲房さんに聞いてもらう事にした。
年が明けてからちょっと日にちが経ってしまったが2021年は丑(うし)年である。
岡山県南東部には牛の神社とそれにまつわる“倍返し”の風習がある。
まずはこの置物をご覧いただきたい。
岡山県の南東部の家にはこの牛の置物が飾られている。僕が調べた限り結構な割合で。
かく言う僕の家にも飾られているし、この地域に住む友人知人に確認したところ、
「ある(笑)」
「おばあちゃんの部屋にある」
「毎年お参りしてます」
「何年もそのままになっている」
「探したらあった」
と、かなりの割合で持っている(もしくは知っている)状態だ。
ただ、岡山市のなかでも西部や、岡山県の西側にある倉敷市、北東部にある津山市に至っては
「知らない」
「JAが配っているやつでしょ?」
「なにその謎風習(笑)」
「貯金箱?」
とあまり知られていない様子だった。
この地域で謎の普及率を誇るこの牛の置物は、備前焼(びぜんやき)でできている。
貯金箱ではないのでお金を入れるための穴はないが、持ちあげるとずっしりと重く、ひんやりとしている。
備前焼とは岡山県の南東部に位置する備前市(びぜんし)で焼かれる焼き物だ。
備前焼は「なんでも鑑定団」なんかに出てくる美術品のイメージだが、生活に根差した素朴な焼き物でもある。
食器はもちろん土管や水がめ(今で言うウォーターサーバー)、瓦、戦時中には手榴弾も作られるなど、身近な素材として実用品も数多く作られてきた。
そしてこの牛の置物もまた美術品というより、もっと身近な存在として家々に飾られるのだ。
そんな牛の置物が岡山県南東部の家に置かれる理由は、この地図の赤い×のところにある田倉牛神社(たくらうしがみしゃ)が関係している。
その理由を説明するために現地へと向かう。
なお田倉牛神社は地元では牛神様(うしがみさま)と呼ぶ人が多いので以降牛神様と呼ぶ。
牛神様へ向かう際は、家に飾っている牛の置物を持って行くのを忘れずに。
田倉牛神社へは岡山市中心部から車で約1時間の道のり、電車だと山陽本線の吉永駅から徒歩30分ほどだ。
ちなみにこの日の1月5日は田倉牛神社の大祭が行われる日である。そのため普段よりずっと人が多いはずなので、密にならないようになるべく早起きして出発した。
多くの人が訪れる大祭では特別に神社の近くの工場が駐車スペースとして開放される。その工場に車を停め、そこからは徒歩で向かう。
ちなみに今年の大祭は平日だった。そのため1月5日に休みを取ることをこの地域に住む同僚に告げたところ「あーはいはい、牛神さまね」的な感じだった。「1月5日=牛神様の大祭」は今なお地元の人にとって当たり前に連想される。
車から降りればたちまち体の表面温度を風が奪っていく、寒い。
川沿いの道をしばらく行くと「参道」と書かれた看板現れ、ここで曲がる。これがなければここを通るのが正解とは分からるまい。
「田倉牛神社」の看板が見え、ここまで来ると人の賑わいも聞こえてきた。
ここからはちらほらと屋台が建ち始め、その奥には鳥居がうかがえる。
屋台の中のいくつかには最初にご紹介したのと同じ牛の置物を売っている。多くの参拝者はここで牛の置物を買うのだ。
ロウソクとお線香とセットで1000円だ。
ここで改めて、田倉牛神社と牛の置物の関係性を見ておこう。
参拝者はまずここで牛の置物を購入する(1)、そしてこの先の神社ですでにお供えしてある牛の置物と交換して家に持って帰る(2)。
1年後にもし願いが叶ったら更に牛を買い足し神社に倍返しする(3)。そしてまた別の牛を1個借りて帰る(4)。
そして更にまた願いが叶えば更に牛を買い足し…を繰り返すのだ。
持ち帰った人の願いが叶い続ける限り、バイバインのように神社には毎年牛が増えていく仕組みである。
と言う事で僕もこの一年の無病息災のお礼に、家から持ってきた牛に加え新しい牛を買い足す。
お店の方によるとこの牛は近くの福祉施設で作っているらしい。備前焼は釉薬を使わないが、このように炎の加減や灰の加減で一つ一つ色や手触りが異なる。
そして牛の造形はクオリティが年々高くなっているようだ。昔はもっと手作りっぽい感じで、上手い牛や下手な牛がいた。
型を使っているのか今では全部同じだ。
こうして、新しい牛を買い足し参拝の事前準備は完了だ。
参道脇の屋台ゾーンを過ぎると現れたのは看板だ。
以下看板の内容のうち一部を抜粋する。
田倉牛神社の由来
田倉牛神社は、古代易道思想と共に疫病神として渡来したと伝えられている「牛頭大王」を祭神として、流行病や天変地異の災害から氏子をお守り頂こうとして勧進されたものであり、この年代は江戸時代初期と考えられる。現在の尽くご発効に至ったのは、往時岡山藩が農業振興策の一つとして農家に牛を買う事を奨励し各村に一祠あて祠せたものが、その一因であると言われている。
(中略)
お詣りする人は備前焼の子牛を献ずる風習があり、また既に祈願者が献じた牛像一体を借りて帰り、大願成就のあかつきには借りた牛像のお返しにはもう一つの牛像を添えて倍返しのお礼詣りをする習わしがある。
江戸時代初期からと考えると400年、この先の神社には願いが叶うたびに牛が増えているのだ。
奥の神社を目指し、ふうふう言いながら石段を登る。
石段を登り終えると視界が開ける。しかし普通の神社の様な社殿はなく(常駐する神職さんもいない)、代わりにあるのはどっさりとした山。
一見するとまるで落ち葉の山のよう。
近づいて見れば、もちろん落ち葉ではなく全部あの牛の置物だ。
その高さは手前の天井よりも高い。
この牛の置物、数は正確には分からないものの30万個くらいあるのではないかと言われる。
すべて人々の何百年もの信仰によって集まったと考えるとなんだか畏怖の念を覚える。
ここに先ほど買った牛の置物と家から持参した牛の置物を山に供える。持参した牛は一年ぶりの里帰りだ。
置いて写真を撮ろうと一瞬目を離すともうどこに行ったか分からない。
つづいて今年一年飾る牛を探していこう。牛の置物と言えども色も形も様々なので、こうして自分好みの牛を探すのもまた楽しみの一つだ。
結局、今年はこのちょっと栗まんじゅうっぽい色の牛にした。
人が増える前にスタコラサッサだ。
こうして牛神様を後にして帰路につく。
今となってはビーフや牛乳のイメージが先行する牛も、元来の牛は畑を耕すトラクターであり、荷物を運ぶトラックでもあった。今よりもずっと身近で大切な存在だったはずだ。
そんな牛を今なお大切にする風習、これからも続いていってほしい。
そういえば、デイリーポータルライターの爲房さんのお父さんが岡山県の出身だったはず。
為房さんのお父さんの出身地と僕の家は桃鉄で2マスくらい離れているが、もしかすると牛神さまの牛の置物をお持ちではないか爲房さんに聞いてもらう事にした。
▽デイリーポータルZトップへ | ||
▲デイリーポータルZトップへ | バックナンバーいちらんへ |