いま聞けて本当によかった
僕らにおなじみの大勝軒。その名前が付いた最古のお店の歴史と、守ってきたものと、行き着いた先のダイナミズムに正直痺れた。
欲を言えば、もう少し早くこのお店に来て、大勝軒の精神が詰まったコーヒーを飲みたかったが、まだ営業当時のまま残された店内でお話を聞けたのは幸運だった。
日本のつけ麺・ラーメン店を象徴する存在にまでなった、「大勝軒」。
その中でもっとも古くからこの屋号をつけていたのが、1913年ごろ創業したとされる、大勝軒本店(人形町)だ。
このお店を祖としてのれん分けされた「人形町大勝軒」のお店たちは、大勝軒の名の付くお店で最古の系譜であり、東京町中華のひとつの源流とも言われている。
そんな大勝軒本店だが、実は1988年より「珈琲大勝軒」と喫茶店に業態を変えて、2020年2月末まで営業していた。
元祖大勝軒としての知られざる歴史とは。なぜ喫茶店になったのか。ほかの大勝軒との関係は。
惜しまれつつも閉店したばかりの珈琲大勝軒へ足を運び、話を聞かせてもらった。
あまりに貴重なお話を伺ったのは、大勝軒本店4代目・渡辺千恵子さんと、5代目の渡辺祐太郎さん。
辰井:東京町中華のさきがけとも言われる大勝軒さんですが、お店はいつからはじまったんですか?
千恵子:明治38年(1905年)ごろね。林仁軒さんという方が20歳ごろに日本へ来て、初代の渡辺半之助と組んで中華料理屋さんを屋台ではじめたの最初らしいの。
辰井:そんなに昔から?
千恵子:ええ。初期のお店を長らく支えてくれた料理人さんで、戦後はGHQの専属料理人になっていたこともあった方ね。
辰井:GHQ! 当時としては名誉だったでしょうね。
千恵子:ええ。ちなみに大勝軒って屋号をつけて、きちんと店舗を出したのは大正2年(1913年)ごろ。
辰井:立派な店構えですね。ちなみに、この上にある書はなんですか?
千恵子:乃木大将によって書かれた、「大勝軒」の書よ。
辰井:うわぁぁ……すごい!
千恵子:乃木さんは若いころは柳橋の料亭とかに来ていたことがあるらしいんで、屋台時代に出会ったんじゃないかって言われていて。
辰井:そんな運命の出会いがあるんですね。
千恵子:ちなみに、「大勝軒っていう名前でやれ」と言われたのか、「大勝軒ってお店でやるので書いてください」って言ったのかは、ホントにわかんないの。
辰井:「大勝軒」の屋号になったワケは?
千恵子:有力な説が3つ。
辰井:どれも考えられそうですね……!
千恵子:そう。ウチの祖母によると、日露戦争で大勝したからって話だけれども。
千恵子:ちなみにウチではもともと「大勝軒」の登録商標を持っていたんだけど、当時はそんなに屋号を気にしていなかったし、更新もしなくて。でも平成4年(1992年)の時点で調べたら、東京と近県だけでも、大勝軒の名前が100軒ぐらい出てきちゃったの。
辰井:いつの間に。
千恵子:特許庁にも「これだけ多くなりすぎているから、大勝軒でこれから商標登録を出しても、ちょっと難しいのではないか」と言われて。
辰井:幸か不幸か、それだけ広まっていた……?
千恵子:だからうちもどうこう言ったってしょうがないし、実は向こう(別の大勝軒)から挨拶にも来るから、こっちも「わかりました、一生懸命やってください」とか言ってね。
千恵子:そしてこれが浅草にあった支店ね。
辰井:これ、すごい……
千恵子:当時の建物にしては立派でしょ、伝書鳩で開店ビラを配ったのよ。当時はいくつか支店もあって。
辰井:大歓楽街だった浅草ですから、それだけ繁盛していたっていうことですよね。
千恵子:それをやったのが、この二代目を襲名した半之助さん。この孫の四代目武文が私の主人で、祐太朗のお父さん。
辰井:ちなみに戦争の前後は営業できたんですか?
千恵子:食糧難でも、ヤミの商品をどうにか調達してお店を開けられたのね。でもさすがに戦争の末期は疎開して、帰ったらたまたまお店は焼けていなかったんだけど、その間にちょっと危ない人たちにお店を乗っ取られちゃったの。
辰井:えーー! そうだったんですか……!
千恵子:もうそんなの、ザラだったのよ。だから少し離れた今の場所にお店を構えたの。
辰井:元祖大勝軒こと、人形町大勝軒の系統ののれん分けのお店ってどれぐらいあったんですか?
千恵子:17軒ね。いま残っているのは浅草橋のお店の1軒だけ。
辰井:ええ!?
千恵子:ただ日本橋の本町のお店は再開発の関係でいま閉めているけど、代替えでもう一度建て直してやってくれそうなのね。
辰井:貴重なお店が残るのはうれしいです。ちなみになぜ後継ぎがいないんですか?
千恵子:昔と時代が違うし、いまはその人がやりたいことを、あんまり止めることはできないから。
千恵子:当時の人気商品と言えばシュウマイかな。当時は少なくとも1000~1500個は作ってたし、閉店のときは3000個はやってたね。
辰井:かけこみ客がいっぱい来たんですね。
千恵子:いろんな料理のおともになってたからね。シュウマイは餃子より一手間かかるから出すお店は少なかったけど、ウチでは作ってた。
千恵子:宴会では鯉の丸揚げも出してたね。一匹をまるごとあげて、その上に中華の食材をあんかけにして、それをかけて食べるの。
辰井:ごちそうって感じだ。ウラに書いてある「かにやきそば」もなかなか聞かない名前ですね。
千恵子:それはカタヤキそばの麺の上にのせるの、ちょっと高級でぜいたくなメニューだったよ。
祐太郎:やきそばは3種類できました。かたやき中焼き、生焼きっていう。ぜんぶ自家製麺でね。
千恵子:あとウチの春巻きは薄焼玉子の皮を巻いて揚げるんですよ。
辰井:それはいいですね……! ちなみに「大勝軒」って聞くと、ラーメンやつけ麺のイメージですけれども、ラーメンはどうですか?
千恵子:ラーメンはそこまで出ないね。ただ、とりそばとかの具をのせたメニューは人気がありました。
辰井:ちなみにいまでも、当時の中華料理を作るときはありますか?
千恵子:当時の常連さんとかに、シュウマイ500個くらいは予約で作ることもあるのよ。
辰井:へえ!
千恵子:ほかに、焼きそばや揚げシューマイ、揚げワンタンなんかも作るね。
千恵子:東池袋の方たちがはじめにつけ麺に目をつけたのはさ、それはそれで正解だったと思うけど、ああいうのはもうウチあたりではまかないで食べていたから。
辰井:元祖と言われる中野大勝軒が出す前から、つけ麺はあった!?
千恵子:いまでこそ「つけ麺」なんて名前でやってるけど、ああいうのは普通にあったのよ。
祐太郎:ウチも自家製麺だから、麺を打ったときの端っことかを集めて、ゆでてめんつゆなんかを中華スープで割って食べるのは普通にやっていました。
辰井:この1913年創業の大勝軒より先にラーメンを出したお店なんて、1910年創業の来々軒あたりぐらいですよね。ここのまかないとして生まれたのが最初の可能性もあります。だとしたら歴史が変わりますね。
千恵子:もちろんメニューとして出したのはあそこだけど、店員たちはしょうゆを付けるとかで日常的にまかないで食べていたよ。
辰井:長くお店を開けていて、苦労したこともおありでは。
千恵子:つらかったのを感じる暇もなかったけど、8時~23時過ぎぐらいまでは働きました。特に主人が亡くなったあと、子どもの学校時代は6時30分~26時で稼働していて。
辰井:すごいな……お休みもなかったんですか?
千恵子:ただ、お店のお昼過ぎは若干お客さんが減るから、あの時代に思い切って休憩時間を作ったの。
辰井:へえ! 何時ぐらいまでの間?
千恵子:14時~17時ぐらいかな。当時ほかに休憩時間を取ってたお店は、私が見る限りでは見なかったね。
辰井:だとしたら、休憩時間を取ったさきがけかも知れませんね。
千恵子:あと、ときどき日曜日を休みにしたの。従業員で子どもがいる人もいるからさ。
辰井:働き方改革の走りのお店でもあったんですか。
千恵子:ウチは修行期間に応じて役割分担をさせていました。まずは、エビの皮むきやメンマの下ごしらえをする下働きさんになって。そのあとにまな板さんがいて、そして最後の人に……
辰井:作り置きじゃなくて、そのたびに作る?
千恵子:下準備はしますけれども、料理ものは通った分だけその都度作るの。それで修行中の子は自分の仕事をしながら、それを横目で見て覚えるんですよ。まさに「見習い」ですね。
祐太郎:そう。ただ中国の昔の料理人は、自分の料理をカンタンに教えると自分の仕事がなくなるって感覚があったみたいで。そういった意味であえてレシピを作らないっていうのもあるみたいです。
辰井:「見習い」のウラにはそんな話もあったんですか……?
千恵子:それはあったかもね。でもウチでは、下積みを大事にしていました。寮や住み込みで人を抱えて、ウチから学校に通わせていて。
辰井:丁稚奉公ですね。
千恵子:昔はそうですよ。だいたい昔の人は10~20年修行して、のれん分けしてもらったの。4~5年でお店を離れて独立した人には、大勝軒は名乗らせなかった。ウチののれん分けってそれくらい厳しかったんですよ。
辰井:ちなみに著名人の方はいらっしゃっていましたか?
千恵子:そうねえ、青島幸男さんや永六輔さんとか。あと末廣亭が前にあって落語家さんが寄ってくれて。特に林家木久扇(元・林家木久蔵)さんは、子どものころからよくウチに食べに来てくれて。
辰井:もしかしたら、木久蔵ラーメンも、ここで食べたラーメンの残像みたいな要素があるかもしれませんね(笑)。
千恵子:あるかもよ? 記憶のどこかにね。
辰井:そうして中華の歴史を刻んできたお店が、なぜ喫茶店になったんですか?
千恵子:いろいろあったのよ。人手が足りないとか、建て替えるのに年数がかかるので、その間の保障だとか、事業用資産の買い換え問題とか。
辰井:問題が山積みだったんですね。
千恵子:それで家族でできる仕事ってことで、喫茶店に変えたんですよ。亡くなった夫も時間さえあればよく喫茶店に行っていたし、息子(祐太郎)もコーヒーが好きだったし。
辰井:家族ぐるみで好きなものが、仕事になったんだ。
千恵子:ええ。だから息子と2人でコーヒーの学校へ行って。違うことをやるんだから基本からやったほうがいいってことで、建物を建てている間に行ってたの。それで立て替えが終わったのと同時にオープン。
辰井:ひとつの料理を極めた方がイチから教わるって、なかなかできませんね。
千恵子:中華料理時代から、注文が入ってから包丁を入れるようなお店だったんで、コーヒーも注文があってから豆を挽いていました。
辰井:そこは中華時代と一貫しているんですね。
千恵子:そうです。いまはコンビニでもチェーン店でも、機械で圧縮して出すでしょ? ハンドドリップは自然に落とすから、それだけ時間がかかりますよね。
辰井:紙のフィルターではなく、セラミックなんですね。
祐太郎:セラミックだとスッキリした後味になるし、紙のゴミも出ないから。これだと余計に時間がかかるけど、できるだけこれを使っていました。
辰井:いかにもおいしいコーヒーができそう。
祐太郎:あとみんなバラバラのメニューを注文された場合は、もっと時間がかかりました。でもお客さんはみなさん承知して、待ってくれましたね。
辰井:中華料理時代と同じように、手をかけていいものを作ることが支持されていたんですね。
千恵子:ちなみにこれは有田焼の源右衛門さんのカップ。このカップで気に入ってくれていた方もいるんだけど、だいたい一客1万5~6千円はする。
辰井:超高級品……なぜそこまでこだわっているんですか?
千恵子:開店当時はバブル期だったのもあるし、中華のときからの伝統だから。この大勝軒のどんぶりも高いものだったし、お弁当も漆の箱で出していました。
辰井:大衆的な価格なのに、そんな器で料理を出してくれるとありがたみが増しますね。
辰井:閉店した理由に「近隣の環境の変化」「体力の低下」とありましたが。
千恵子:私ももう92歳だからさ。あとは再開発や時の流れで街が変わって、お客さんの流れも変わって来ちゃたし。
辰井:昔は人形町ってどんな街だったんですか?
千恵子:料亭があって、芸者さんもたくさんいて。映画館、寄席や料理屋もあって歓楽街で、兜町の証券マンも来てくれたね。けど、いまは住宅街になってきたねぇ。
辰井:一世紀以上の伝統がある「大勝軒」の屋号について、どう思っていましたか?
千恵子:御先祖様が残してくれた名前だから、やれるだけはやろうと思っていました。
辰井:だからコーヒー屋さんになっても、「大勝軒」。
千恵子:大勝軒は大勝軒だし。登記簿上でもまだ中華料理時代の登記があって、そこに喫茶店の登記を入れている形です。いまでも登記上は中華料理の大勝軒が生きているんですよ。
辰井:まだ登記上は中華の元祖大勝軒は不滅だと!
千恵子:名前の重みは感じますよね。何かしらの形で、残せていけたらなと思います。
辰井:えっ、残す?
千恵子:まだはっきりしていないですが、長男(祐太郎)は次にやることをちょっと考えているそうです。色んな店が何百年と代々続いていても、業務内容が変わっているところっていっぱいありますから。
辰井:確かに。
千恵子:やることが変わったにしてもね、その精神がずっと続けばいいですから。
辰井:最後に5代目、いったん歴史の幕を閉じるこのお店にひと声かけるとしたら、何ですか。
祐太郎:うん、なんだろう……月並みだけど、「お疲れさま」かな。
僕らにおなじみの大勝軒。その名前が付いた最古のお店の歴史と、守ってきたものと、行き着いた先のダイナミズムに正直痺れた。
欲を言えば、もう少し早くこのお店に来て、大勝軒の精神が詰まったコーヒーを飲みたかったが、まだ営業当時のまま残された店内でお話を聞けたのは幸運だった。
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