西の地・長崎県西海市にとても思い出深いスポットがある。
バブル期に花開き、“光り輝く黄金の仏像群×美しい花園×レジャー施設”というなんとも贅沢なコラボレーションで多くの人を賑わせた「西海楽園」だ。
割と紹介し尽くされたB級スポット(珍スポット)なので、ご存知の方も多いだろう。2007年に閉園したとのことだが、ちょくちょく期間限定で開放されている。せっかくなので現在の姿を見て、ついでに当時の様子を知る地元の方々にもお話を伺ってきた。
長崎の「平成遺産(わたしが勝手にそう呼んでいる)」の足跡を、ぜひみなさんにもご覧いただこう。
いのりの里 西海楽園
「西海楽園」は、「七ツ釜観光ホテル」を母体とするレジャー施設運営会社によって1990年に設立した。牛久大仏や仙台大観音など、次々と巨大仏が建造されたバブル期真っただ中のできごとである。※宮田珠己さんの著書『晴れた日は巨大仏を観に』でも、西海楽園が取り上げられている。
開園初期(1990年)のころの地図。いろいろ増える前のもの
投資総額約20億円。およそ20万平方メートルの広大な敷地には桜やあじさいなど四季折々の花が咲き乱れ、子ども向けプレイランドや草スキー場、スライダー付きプール、バーベキュー施設などが揃っていた。同園隣の七ツ釜観光ホテルは、地元住民らの冠婚葬祭イベントや観光客の受け入れには欠かせない存在であった。この2大施設のすぐそばには「七ツ釜鍾乳洞」があった。いや、いまもあるしずっと昔からある。施設はこの鍾乳洞を中心につくられたのだ。
1990年当時のパンフレットより。1936年に「七釜鍾乳洞」の名称で国の天然記念物に指定された
国指定の天然記念物で約3000万年前に海底から隆起してできたこの鍾乳洞は、材質と生成年代の新しさから世界でも珍しいものとされている。洞内は通年15℃前後に保たれていて、現在も格好の避暑スポットとして大人気なのだ。
そんな、西海市の経済の一端を担っていた2大施設は2007年に倒産し、閉園となった。
いのりエンターテイメント
西海楽園の入門ゲート。「いのりの里」のフレーズにとてもスピリチュアルなものを感じるけど、たぶん誰も気にしてなかったとおもう。
1990年当時
現在はこんな感じ。
2019年3月時点
当然、かつての賑わいは見られない。右手の、かつて園内マップが取り付けられていた建物は居酒屋になっている(2019年3月時点)。また、左手の入場チケット販売所があった建物はそのまま廃墟に。
ぐるっとあたり一面が廃墟だ
近隣でカフェを営む、当時の西海楽園の様子を知る男性に話を聞いた。閉園してから既に12年が経つが、県内外からわざわざ足を運ぶ人が絶えないという。いまだ根強い人気を誇っているのだ。
息切れする坂道は送迎バスでGO
肝心のいのりエンタメエリアはものすごく高台にある。なぜなら、その場所が海底の石灰岩が隆起してできた台地だからだ。
現地を訪れたとき、わたしは思わず別の入り口を探してしまった(あるはずがない)。入門ゲートから長い坂道を登っていかなければならないとわかり、フッと鼻から強く息を吐いて気合を入れた。もし訪れる予定がある方は、歩きやすい格好とそれなりの体力で挑むことをおすすめする。
徒歩で登った。登りで片道20分ほどだろうか(2019年3月時点)
歩道から七ツ釜観光ホテルの廃墟を見下ろせる。保存状態がとても良いことに驚いた
脇に腰かけて休憩する人も。なお、この独特の岩肌が、西海楽園の立地のヒントだ
当時は送迎バスが坂道を走っていた。
運賃はおひとり500円。バスというより、トラックの荷台に座席を設けて屋根を取り付けたようなつくりだった。添乗ガイドもいたらしく、景気の良さがうかがえる。バスの絵柄はアウトに近いがご愛嬌だ(1991年)
ちなみに、なぜ閉園後もこうして開放日が設けられているかというと、この周辺は絶好の桜鑑賞スポットなのだ。毎年春になると、桜と菜の花がピンクと黄色のコントラストで楽しませてくれる。
取材当時も、七ツ釜鍾乳洞界隈「櫻と菜の花まつり」が開催中だった(2019年3月)
バブルに映える。黄金に輝く40mの「七ツ釜聖観音」
坂をのぼった先には、あらためて口を半開きにして見上げてしまうものがあった。西海楽園の主役ともいうべき、七ツ釜聖観音(ななつがませいかんのん)だ。
でかい(1992年)
言わずと知れた、園内ナンバー1の記念撮影スポットである。いや、当時は県内随一だったんじゃないか。九州北部の40代以上のご家庭には、記念写真が少なくとも1枚は眠っているはずだ。
その巨大さゆえ、台座しか写ってないなんてことも多々ある(1991年)
高さはなんと40mで、10階建てのビルに相当する。長崎県の観光地における建造物としては類を見なかった。どうやって建てたのかと地元の方に聞いてみたところ、建設当時の貴重な写真をいただくことができた。
クレーンで上から観音様のパーツを重ねていく。中はどうやら空洞のようだ(1989年)
オーナーが、神からのお告げを受けて作り始めたという巨大観音像。
いよいよ御尊顔部分の吊り上げ作業。現場の緊張が感じて取れる(1989年)
…とその前に、記念撮影しとこうぜ!(1989年)
ちなみにこの観音像の立派な後光だが、ある大型台風に見舞われた際に、頭もろとも吹き飛んでしまったそうだ。直ちに修復が施されたが、後光はそのまま取り外されることになったという。
あちこちまだむきだしの状態。まだ園内は完成していないみたい。写真の色味がマグマ大使みたいだな(1989年)
極楽浄土をイメージしてつくられた庭園と仏像群
廟を模した建築物に囲まれた庭園は、四季の花々と黄金の仏像群で極楽浄土のような異空間になっていた。わたしが覚えているのは、むせかえるような肥料と花の香りと、ぎらぎらと照り返す日差しだ。まるで白昼夢のような記憶である。
仏像たちが花壇をぐるっと囲む。奥にも石仏が(1991年)
「十二支の御守本尊霊場」と書かれた石柱が。左端には梵鐘も見える(1992年)
ところで“十二支の御守本尊”ってナニよ!?と思うかもしれない。その名の通り、十二支によってそれぞれの「お守り本尊」が定められているといわれているものだ。その起源は易学の八卦に通じるといわれている。明確な理由付けは不明らしく、そのあたりは疎いので割愛させていただく。
幼少期のわたしは、そんな言われなどはどうでもよくて、それぞれの推し仏とチェキ会をやっているかのごとくはしゃぐしかなかったのである。
わたしも撮った(1992年)
庭園入口。朱色がとても鮮やか。お守り販売所もあった(1991年)
現在はかろうじて門の形は保たれているものの、ところどころが立入禁止になっている(2019年3月)
仁王像は健在だ(2019年3月)
ちなみに現在は、仏像は水子三観音と五百羅漢など一部を残すのみだ。庭園があった場所は自然そのままの状態である。
石柱だけはしっかり残ってる(2019年3月)
いまもまだ残っていた仏像群。
背後に滝が流れる涼しい景観のなかにたたずむ水子三観音(1991年)
2019年3月
慈母観音像。こんな穏やかな顔でおっぱいをあげつづけるのは無理だよな、と母親になってから気付く(2019年3月)
こちらのお堂は五百羅漢堂だ。
立派です(1992年)
中には500体の羅漢像がずらり。
なんだか台湾のお寺のような雰囲気ね(1991年)
浄財箱も景気よくいっぱい並べられていて、拝観者からの「宝くじが当たった!」とか「持病が治った!」とかという霊験あらかたな手紙が貼られていたりととってもカオスな空間だったそうだ。ちなみに、このなかのどれか1体に、“自分のお祖父さんに似たものが必ずある”といわれていた。
2019年3月時点。いまもお堂の中はそのままで、多少のカビ臭さと埃っぽさはあるもののとても綺麗に保たれている。
正面から(2019年3月)
羅漢像は、同じポーズや表情のものが10種類ほどならんでいるようだった。
ざっくりとです。ガチャをつくるなら10種類ぐらいだろうなっていう(2019年3月)
言い伝え通り、わたしの祖父に似ている像を探したが見当たらなかった(2019年3月)
緩やかな坂道に沿って並ぶ石仏。ここでは十三仏と呼ばれていた。
遠いが写真中央に横一列で並んでいるのが十三仏。ここで一体ずつ手を合わせて拝む熱心な人たちもいたらしい(1991年)
現在では、蓮の台座だけを残してどこかへ行ってしまった。
カッパドキアかな?いいえ、石灰藻球化石群です
西海楽園が高台にある理由が、日本一と称される石灰藻球化石群(せっかいそうきゅうかせきぐん)だ。
まるでカッパドキアのよう。ここはずっと変わらぬ光景を保っている(1991年)
石灰藻とは、20数億年前、地球上で初めて光合成で酸素をつくったといわれる単細胞の藻類の1つだ。この化石を多量に含んだ岩(石灰藻球石灰岩)が海底に堆積。大陸の移動と隆起を経て、このような台地をズドンと形成したとのことだ。
台地は西海楽園の経営者によって切り崩され整形されることとなり、一大レジャー施設へと変貌。ここにある、石灰藻だけが集中した化石群「化石の森」は、日本的にも珍しいものとして大切に保存されているのだ。
「化石の森」。迷路のような化石群の間を自由に散策できる。春は桜と化石群の異様なコラボレーションを見ることができる(2019年3月)
敷地内にはこんな歴史スポットも
長さ50mにおよび広がっている鍾乳洞で、なかにも仏像があったそうだ。かつて殉教したキリスト教宣教師・金鍔次兵衛(きんつば・じひょうえ)が身を隠した場所ともいわれている。
現在は立ち入り禁止だ(2019年3月)
そばにあった看板の文字はほとんど読めず。隠れキリシタンゆかりの地としても知られる西海市だが、とても意外なところに史跡があった。
いのって遊んで
さきほどの濃いいのりエリアと並列して存在していた多目的レジャー施設エリア。この玉手箱だか宝船だかをひっくり返したかのようなごちゃごちゃ感が、いかにもバブル期らしい。
屋内ゲームコーナー(1992年)
屋外には乗り物コーナーも。奥には草スキー場もあった(1992年)
スワンボート、漕ぐの大変だったよね(1991年)
土産処やお食事処でちょっと休憩したり。
地元名物が揃っていた「樂屋(らくや)」 (1992年)
当時販売されていたポストカードセット。サイズは色紙サイズで、「色紙額に入れて御覧いただけます」とある。施設の紹介文の熱気がすごい
こちらのお食事処は、「観音亭」。なんだかあやかれそうな店名だ。
手打ちうどんとそばがイチ押しメニューだったみたい(1992年)
メニューにも、「観音」がつくものが並んでいたりしたのだろうか。鉄観音入りのウーロン茶しか思い浮かばないのだが。
このほか、ふれあい動物園やスライダー付きプールなどもあった。
冒頭で敷地面積20万平方メートルと書いたが、これはルーブル美術館の床面積、東京ドーム4個分強という驚異の広さ。1日中遊びつくせたかも分からない圧倒的ボリュームで多くのファミリーが救われてきたのだなあ。すっかり廃墟となってしまったが、1992年にハウステンボスが開園するまでは、九州北部を代表するレジャースポットだったのだ。
なぜここで記念撮影をしたのかよく覚えていない(2019年3月)
かつての賑わいをわずかに残し、いまでは兵どもが夢のあと。
観音さまのおひざもとでイベントを
また、七ツ釜聖観音をバックにさまざまなイベントが催された。「一万人コンサート広場」と名付けられた会場では、大規模な夏祭りやコンサートで盛り上がった。
イベントなども行われていた広場。遊具も設置されていた。まさに観音様のおひざもとで (1991年)
夏祭りでは多くの人出があり、夜空には大輪の花火が上がっていたそうだ。また、鍾乳洞そばの飲食店では、観音像を遠くに見上げつつ流しそうめんを楽しむことができた。
「一万人」という響きになんだか夢を感じるが、決して名前負けしていなかった。あの千昌夫さんもコンサートで訪れたことがあったそうだ。アーティスト界隈では、【西海楽園でライブをするとヒットする】というジンクスが囁かれていたとか、いないとか。
また、毎年冬になると西海楽園の周辺では「七ツ釜ロードレース」が行われ、地元学生や大人たちが汗を流して観音像の下を駆け抜けた。
西海楽園のこれから
西海楽園跡地のこれからを、地域に詳しい方にうかがった。
聞くところによると、広大な敷地は同園のオープン前から多数の所有者がおり、現在も所有権はそのままだそうだが持て余している状態だという。
当時の建物をかすかに残し、敷地のほとんどは更地か土地所有者のソーラーパネル、畑となっている(2019年3月)
清掃や草刈りなどの手入れは施されているが、再開発の目処は立っていないということだ。いつまで現在の光景が見られるかはわからないが、今後の期間限定開放日に関しては、西海市のイベントサイトなどでご確認いただきたい。
仏像はどこへいった?
ところで、40mの巨大観音像をはじめとした仏像群は、一体どこへ消えたのだろう。七ツ釜聖観音像は、閉園後すぐに安全のため真っ先に解体されたそうだ。その巨大なパーツは福岡のどこかの森林にひっそりと眠っているという。それを聞いて、わたしの脳裏にはカンボジアのアンコール遺跡群のような絵面が浮かんできた。
また、十二支本尊も各地のお寺などが引き取り、新しい場所でまたもやいろんな人たちに拝まれているらしい。仏像冥利に尽きるとはまさにこのことだ。わたしが気が付いていないだけで、ひょっとするとどこかで再会していたのかもしれない。
本当にでかかったんだな。ところでこの像って航空障害灯ついてたのかな