05:30-杉の森であわや遭難の危機に
朝になった。人がやって来て面倒なことにならないうちにテントをたたみ、 神社で登山の無事を祈願して、出発だ。
集落を通り越し、整備された林道をしばらく行くと、 村山古道はみるみるうちにワイルドな山道へと変わった。
山道には赤いビニールが点々と木に結び付けられており、 それが正しいルートであるという目印になるのだが、 こうも草が伸び盛っていると小さなビニールは覆い隠され、 その先を見えなくしてしまっている。
実際、何度かルートを外れ、妙な道に迷い込みそうになった。 コンパスがなかったら、そのまま間違った道を進み、多分遭難していたことだろう。
それに、アザミというトゲのついた葉っぱがわさわさ生え放題なので、 それらが頻繁に足にあたりチクチク痛む。
おまけに草は朝露によって濡れており、靴やズボンはあっという間にびしょ濡れ。 防水タイプの軽登山靴、乾き易いズボンを履いてきて助かった。 村山古道を歩くには、これらの服装は必須である。
草木を掻き分けながら3時間ほど山道を登っていくと、 突然目の前に大きなケヤキの木が現れた。 それにはいくつものの木札がぶら下がっている。 どうやらそれは、村山古道を登った人たちが登山を記念して掛けていったもののようだ。
このケヤキのある広場は、かつて札打場のあった跡らしい。 札打場とは、修験者が富士山へ入る際に札を掛ける場所。 かつての村山道の姿が忍ばれる遺跡だそうだ。
10:00-思わぬ人物との思わぬ出会い
札打場跡からさらに登ると、広い舗装道路にぶつかった。 数は少ないものの、時々車も通る立派な車道だ。 富士サファリパークとか、その辺りへ繋がる道路らしい。
高度計が示す標高は約1000m。側に天照教の施設があり、 その前が少し開けた場所となっていたので、私はそこで朝食を取った。
朝食後に休んでいると、どこからともなくチリンチリンという鈴の音が聞こえてきた。 クマ避けの鈴だろうか。誰かが村山古道を降りてくる。 今回、山に入って初めて会う登山客だ。
しばらくすると、初老の男性が林の中から姿を現した。
私は「こんにちは」と挨拶をし、村山から村山古道で登ってきた旨を話すと、 その人は「それはごくろうさまです」とこちらに名刺を差し出した。 その名刺には畠堀操八とあった。
畠堀……操八さん……?はて、どこかで聞いたことがあるような……どこかで……あぁ!
これには本当、おどろいた。 畠堀操八氏は、私がこの村山古道の存在を知ることができた本、 「富士山村山古道を歩く」の著者だったのだ。 村山古道を今に復活させた村山古道の第一人者でもある。
畠堀氏にお話を伺うと、今日は富士山新六合目から、 歩行の邪魔になりそうな笹を刈りつつ下りてきたのだそうだ。 このまま村山まで行き、村山浅間神社で行われる閉山式に出るという。
あぁ、そういえば、昨日会った犬の散歩のおじさんも、 閉山式のことを言っていたなぁ。
そうして、畠堀氏は「それでは」と村山道を下山していった。 非常に紳士的な方であった。
一つ、惜しまれることは、思わぬ出会いによって舞い上がってしまった私は、 畠堀氏に写真を撮らせていただくお願いを忘れてしまったことだ。 カメラには畠堀氏の去り際に慌てて撮った写真一枚だけしか残っていなかった。残念!
11:00-苔むした岩石、ひっそりたたずむ中宮八幡堂
再び登山道へ入った。
村山浅間神社から天照教社までは杉の植林地帯であったが、 標高1000mを過ぎてからは杉が消え、ブナやミズナラ、クヌギの木などに変わった。 道を阻む障害物も、アジサイから笹に変化している。
また、駿河湾から吹いた風はこの辺りの標高で雲となり、多くの雨と湿気をもたらすらしい。 そのため、富士山の火口から流れ出た溶岩流の岩石に 鮮やかな緑色のコケがみっしりついているのがこの高度の特徴だ。
途中、中宮八幡堂と説明板のある祠があった。
それによると、今は小さな祠しかないこの中宮八幡堂には、 明治初頭まで茅葺屋根の立派なお堂があったそうだ。
富士山は今でこそ誰でも登ることができるが、明治の始めまでは女性禁制の地とされていた。 女性が登ることができるのはこの中宮八幡堂までで、 これより上へ立ち入ることは許されなかったらしい。
それだけ、富士山は大事にされていた山なのだろう。きっと。
中宮八幡堂からさらに30分。 車のエンジン音がけたたましく響いてきたと思ったら、 富士スカイラインに出た。
普通の富士登山では、車で富士山五合目まで行きそこから徒歩で山頂へ向かう。 このスカイラインは、富士宮から富士山五合目まで行く道だ。
森が広がる五合目以下の富士山。 村山古道に人の姿は全く無いが、 このスカイラインにだけはひっきりなしに車が走っている。