スウィート・アメリカン・メモリー
20代のはじめに、アメリカの語学学校に通っていた時期があった。学校があったのは東部のはずれにあるインディアナ州。大都会でもなく、かといって大自然もなく、ついでにこれといった名物もなく。米国人からは困惑気味に「ヘイ、なんでわざわざインディアナ???」と必ず聞かれてしまう、押しも押されもせぬ地方中堅都市である。
ホームステイ先の家庭は、若い夫婦だった。毎晩の食事の用意は、妻のアマンダの仕事だったが、仕事で帰りが遅い日にはマフィンやベーグルサンドを買ってきてくれて、それで夕飯を済ませることが多かった。
数あるテイクアウトメニューのなかでもっとも嬉しいのが、地元で人気の「Yats」というレストランが提供しているチリ・チーズ・エトフェであった。
エトフェの味というのは不思議なもので、食べ始めはふーんおいしいねと余裕があるのだが、一口一口食べ進めていくたびにじんわりうまさが加算されていき、どんどんスプーンが加速していって最後まで止めることができない。そして食べ終わってみれば「めちゃくちゃ美味かった!」となるのだ。
その後もアメリカには何度か足を運んでいるが、チリ・チーズ・エトフェを超える料理には出会っていない。暫定的には、庶民派レストランのたかだか7ドルの一皿が、これまでアメリカで食べた最もうまい料理の座に座っている。
日本に帰ってから年に一度くらいは、ふと懐かしくなって大阪のケイジャン料理の店にいくつか足を運んでみたが、残念ながらチリ・チーズ・エトフェを提供している店はなかった。ある店で、ケイジャンの本場、ルイジアナ州出身のシェフに、むかし食べたメニューを説明していると「ぷはーっ!!あんたそれ!インディアナでケイジャンて!!」と文字通りの大爆笑をいただいた。
ルイジアナとインディアナの距離1500km。ひょっとしておれ「北海道で最高にうまい豚骨ラーメンを食べたと言い張るやつ」みたいな感じになっているな
提供している店がないのなら、自分で作るほかない。ネット上に転がっているレシピを数年前に見つけて以来、食材を適当に置き換えた"ジェネリック"版は何度か試作しててみたが、忠実に再現する試みはこれが初だ。
聖なる三位一体
ちなみにセロリ、たまねぎ、パプリカは、ケイジャン料理の基本を成す3つの食材ということで「聖なる三位一体」と呼ばれている。なるほどどんな文化圏の料理でも、これだけは欠かせないというような「魂」となる素材がある。我が家の日々の食卓に欠かせない三位一体は、なんだろうか。
先ほどルーを炒めていた鍋に、刻んだ野菜を加える。
野菜に火が通ってきたら、各種のスパイスやハーブを投入する。
元々が素晴らしい香りを放っていた鍋だが、この時点では本当にすばらしい香気になっていた。こうばしさと野菜のフレッシュな香りに、ハーブ類のアクセント。不思議なことにこの香りは、どういうわけか"アメリカ"を強く想起させる匂いだった。
ある匂いが、特定の記憶を呼び起こす現象は、プルースト効果と名前がつけられている。そのくらい、匂いと記憶には密接な関係があるということだ。いま、鍋からただようこの香りは、実にアメリカ的だ。現地に滞在中、確かに街中でよく嗅いでいたはずの匂い。その正体を見極めるべくさらに嗅覚に集中し、記憶の引き出しをひっくり返した結果、大事なことに思い至った。これはピザの匂いだ。
別の鍋でとった鶏ガラだし3カップを加えながら、ルーをのばしていく。
懲役200年の味
少し前からギルティフリーという言葉を、よく耳にするようになった。カロリーや脂質が控えめで、食べ過ぎても罪悪感を感じにくい食べ物のことだ。
主役たるチーズの出番である。ひとつ問題がある。レシピの「3カップのチェダーチーズ」という分量が、本当によくわからない。あるサイトは400gほどだといい、別のサイトは600gに相当するという。
後ろ暗い気持ちを胸に、チーズを少しずつ鍋に浮かべ、だまにならないよう溶かしていく。チーズ一切れ26kcal。チーズ二切れ52kcal。ぼこぼこ煮えた鍋からは、犯罪の匂いがする。
鍋から立ち上る湯気にさえ、熱量が含まれているような気がしてくる。良心に追い討ちをかけるように、ここにさらに生クリームと牛乳も加える。
大量の乳製品が完全に溶けて混ざったら、いよいよ完成間近だ。仕上げにソテーしたエビを鍋に加えて少し煮る。