今回めぐった女(ひと)は
昭和の終わり〜平成はじめにかけて登場し、蒸しカステラにクリームという装いで、それらには全国的にブームとなっていた仙台銘菓「萩の月」の影響が見てとれた。
そんななかでその土地土地の風土と寄り添い、独特な味わいを生み出していた。
次の、また次の場所へメーテルのように私をいざなうあの女(ひと)をめぐる旅は始まったばかりである。
あの女(ひと)の菓子が私の停車駅なのだ。
あの女(ひと)に会いたい
昔の写真の整理をしていたら、10年ほど前に私の実家の割と近く、神奈川県清川村の宮ヶ瀬ダムを訪れた時に土産店で見たあの女(ひと)の姿があった。
ややうつむき加減に微笑をたたえた和装の麗人。10年前の当時でも、どこか懐かしみのある雰囲気だった。いったいいつの頃の宮ヶ瀬だろうか、宮ヶ瀬にこんな女(ひと)いたのだろうか。
そういえば福岡の定番みやげに「博多の女(ひと)」というのもあるな。菓子は女を「ひと」と読ませるのだろうか。
女と書いて「ひと」と読む菓子の分布をざっと調べたところ北は北海道から南は九州まで10品ほどが見つかった。
日本の各地にバランスよく存在している女(ひと)達を俯瞰した時に巻き上がった情動は郷土菓子を取り寄せて食べ比べ、的なものとは異なるものだった。
「会いにゆかねば」彼女達もそれを望んでいるに違いない。
根拠のかけらもない妄念と共に、女(ひと)と呼ばれる菓子を買いに行く紀行をスタートさせたのである。
耳をすませば、バカな出会いよ利口に化けろと細川たかしのエールも聞こえる。
宮ヶ瀬の女(ひと)に会いたい
宮ヶ瀬湖は都心から西に約50km、神奈川県の東丹沢に宮ヶ瀬ダム建築によって出来た湖で、都心から一番近いオアシスとして多くの人が訪れる。
広大なダム湖周りに点在する観光エリアのうち、クリスマスツリーで有名な宮ヶ瀬湖畔エリアにある水の郷商店街では開放的な露店感のある店が立ち並び、郷土料理や特産品を楽しむ事ができる。
三角屋根に鹿のマークの棟屋が印象的な「旅館みはる」の売店で、あの女(ひと)は10年前と違わぬ姿で微笑を浮かべていた。
「ダムカレーの取材はよく来ますが、宮ヶ瀬の女(ひと)の事を聞かれたのははじめてですよ」
話を聞かせてくれたのは若き支配人、川瀬心さん。
「もうずっと定番として売っていたので特に気にしていなかったんですが、問い合わせをいただいてうちに土産品を卸してくれている会社の社長に聞いてみたんです。
そしたら「宮ヶ瀬の女」はうちにしか入れていない、つまりうちでしか売っていないという事実がわかりまして(笑)」
――まさかのオンリーワンですか!たしかに道の駅清川とかにも売ってなくて、いったいどういう規模でやってるんだろうと思っていました。
「まあ、清川村ならともかく宮ヶ瀬っていうとエリア的に限定感はありますよね」
――いつ頃から販売しているんですか?
「1990年頃だそうです。ダム建設で今の場所に移ってきてそんなに経ってない頃からずっとあるという事です。私が子供の頃から売っていたんですね」
――平成のはじめからずっとあるんですね。なんで「宮ヶ瀬の女(ひと)」だったんでしょうか。
「このあたりは記憶もかなり曖昧になっているらしいのですがメーカーからの提案で、紀州だったか秋田のほうだったか「女(ひと)」と名付けたお菓子みたいなのがあったのを参考にしたと思うが記憶違いかも、という事でしたね」
――パッケージは和風ですけど、お菓子は蒸しケーキ風という感じですよね。
「当時蒸しケーキにカスタードというのが人気が出ていて、そこにストロベリージャム味を加えて2種類にしたそうです」
――何かこの女(ひと)というか、お菓子ですけど、特別な思い入れはありますか?
「私にとってはほんとうに小さい頃か当たり前のようにうちにあったものなので、ここでいろいろな事を知って、思い入れが強くなりましたね(笑)。先ほどの社長さんによると「昔、このお菓子を販売していた人がこの女性に面影が似ていた」との事です」
――なんかミステリアスな登場人物来ましたねー(笑)
はっきりとそこに存在しながら、おぼろげな輪郭しかつかませない宮ヶ瀬の女(ひと)は宮ヶ瀬湖の静かな湖面のように幽玄な魅力を醸し出す女(ひと)だった。
穂高の女(ひと)に会いたい
長野県安曇野市、JR穂高駅を出て穂高神社の大鳥居を横目に見ながら歩くと「塩の道」こと千国街道に出る。
糸魚川(新潟県)と松本(長野県)を結ぶ輸送路として古くから整備され、戦国時代、塩が止められちゃってどうしようとなった武田信玄に上杉謙信が塩を送った有名な故事「敵に塩を送る」の塩はこの道を通ったと言われている。
穂高は「保高宿」と呼ばれ、松本から数えて3番目の宿場だった。
宿場の北側に店を構えているのが明治42年創業の老舗菓子店、「丸山菓子舗」本店である。
創業から110年以上の長きにわたり、素材や風味、口当たりにこだわりながらも地元安曇野の風土と寄り添った和菓子・洋菓子を製造・販売してきた。
ここにいる女(ひと)は「穂高の女(ひと)」である。
しっとりとした蒸しカステラの生地に包まれているのは小豆とモカクリーム。口の中で優しい甘さとほのかな香ばしさがひろがる繊細な風味、なんというか、感受性の高い女(ひと)である。
老舗菓子店の一角で端正な花を咲かせる穂高の女(ひと)をもっと知りたい。
よくわからないパッションで丸山菓子舗の4代目社長、丸山正男さんにお話を聞いた。ありがたや。
企画趣旨を伝えたところ、いきなり意外なコメントが飛び込んできた。
「そうですか、では北海道の「小樽の女(ひと)」はご存知ですか?」
――え?はい、事前に調べて存在を知っている程度ですが......。
「実は「小樽の女」を作っている新倉屋さんとは先代が交流させていただいていて、うちの「穂高の女」を作ったのは先代なんですけど、その時にはすでに「小樽の女」はあったのでコンセプトみたいなものは影響を受けていると思いますよ」
――そうなんですか!いきなり次の行き先が決まってしまった!「穂高の女」はいつ頃発売されたものなんですか?
「厳密にはわからないんですけれど、昭和の終わりから平成の初めですね。平成元年に工場直営店リニューアル時のチラシには載せていたと思うし、私が修行から戻ってきた平成4年にはあったので」
「この商品は安曇野出身の彫刻家、荻原碌山の有名な作品「女」をイメージして作られているんですよ」
――あ、あの教科書とかで見るやつですね。
明治期に活躍した安曇野出身の彫刻家、荻原禄山こと萩原守衛。若くして海外へ渡りオーギュスト・ロダンに学ぶ。30年の短い生涯ながら日本の彫刻界に新風を巻き起こし、日本近代彫刻の扉を開いたと評価されている。彼の絶作となったのが郷里の先輩の妻、相馬黒光への愛と苦悩を投影したといわれている「女」である。
――なるほど、この商品では安曇野の風土感というのは「女」に込められていたんですね。
「はい。安曇野のお菓子として売り出す時にその禄山の作品のイメージがあって、それで先ほど言ったように新倉屋さんの「小樽の女」みたいな、蒸しカステラタイプのお菓子という事で開発されました。今でこそコンビニとかで普通に買えますけど、当時はこういう和菓子と洋菓子の間みたいなものは出始めていたけどそんなには無かったですから」
このあたりの時代感は先に聞いた「宮ヶ瀬の女(ひと)」とも通じるものがある。
――30年続いているとあって、やはり丸山さんの中ではもう定番になっているというか。
「和洋折衷の食べやすいお菓子としておかげ様でうちの中でもよく売れて主力商品のひとつとなっています。安曇野というだけでなく、昔から和菓子に限らずプリンやケーキなど多様にお菓子を作って郷土菓子にも取り入れてきた我々を象徴する商品でもあるので皆様に楽しんでいただきたいです」
穂高の女(ひと)は海外から近代彫刻の感性を持ち込んだ禄山のように、カステラにモカクリームのモダンな装いで来る人を魅了する女(ひと)だった。
小樽の女(ひと)に会いたい
札幌からJR函館本線で北上し50分ほどで小樽駅に着く。
駅前から小樽運河にむかってまっすぐ伸びる中央通りを少し進んで第一大通りに入りひたすらまっすぐ歩く。
昭和初期の駅舎から大正6年発足の商店街を抜けてたどりついたのは明治28年創業の老舗菓子匠「新倉屋」本店である。
2022年で創業127年、明治37年の色内大火災により現在の花園町に移転、昭和11年頃より製造販売された「花園だんご」は観光客や地元の人に小樽名物として長く愛されている。
店内には定番のどら焼きや最中などと共に小樽の風土と結びついた創作菓子が並ぶ。
この由緒あるお店で、あの女(ひと)は丁寧に箱入りだった。
僥倖は小樽の女(ひと)に会えただけではなかった。社長の新倉吉晴さんと副社長の新倉正三さんにお話を聞かせてもらえる事となったのだ。小樽まで来てよかった。
――先に「穂高の女(ひと)」でお話を聞いた安曇野の「丸山菓子舗」さんは新倉屋さんとは(先代が)修行時代に懇意にしていたとの事で、「小樽の女」の話もよく出てきたんですが.......。
吉晴さん:同じコンサルタントの元で勉強した仲ですね。昭和50年代の後半だったからもう40年以上も前になります。今の「小樽の女」もそのコンサルタントの先生に提案されて開発した商品なんです。
――コンサルタントの提案ですか!どういう提案だったんですか?
吉晴さん:仙台の「萩の月」がヒットしていましてね、ああいう和と洋の折衷のような商品を開発したほうがいいということで。
――ああ、萩の月ですか。たしかに有名ですよね。
吉晴さん:それでカスタードクリームを作って、後に宇治金時を出したんです。
吉晴さん:その時、名前はどうしようかとなって、ちょうどうちで「小樽の女(ひと)」というのが空いていたので、ふわっとした感じがイメージ的にもいいんじゃないかとなったんですね。
――ちょうど空いていた?
正三さん:以前この名前で商標を取っていたんです。
――前のバージョンがあったという事ですか?
吉晴さん:昭和34年ですね。ここのお店の建物を改築した時に、なにか記念になるものはないかという事で、私の先代が小樽と名のつくお菓子を作ろうと。
――おお、一気に古くなった。で、女(ひと)をつけて......。
吉晴さん:今でも比率的に女性が多い街ですけど、江戸時代の頃から小樽は経済的にかなり栄えていた都市で、各地から人もおおぜい集まり文化的にもかなり発展していたんですね。地方都市の中でも洗練されて美人が多い街と言われていて、それで「小樽の女(ひと)」という商品にしたんです。
――へえー、ちなみにどういったお菓子だったんですか?
吉晴さん:最中ですね。半月というか、まん丸からちょっと切った可愛らしい形の最中だったんですが、そのうち鶴岡雅義と東京ロマンチカが「小樽のひとよ」という曲を出して大ヒットしました。それが昭和42年。
――おお、でもロマンチカのほうはひらがなですね、「ひとよ」
吉晴さん:それで我々も「よ」をつけてみたんですね(笑)「小樽の女よ」
――ここで改名してるんですね!
正三さん:厳密には商標登録は「小樽の女よ」で登録されているんです(笑)。それで昭和50年に形を変えてまたリニューアルをしているんですね。つまりこの時は「小樽の女よ」という最中だったわけです。
ただ、あまり売れなくてちょっとお休みしておりまして......
それで昭和57年くらいに経営コンサルの方に提案されたお菓子を作るにあたってこの「小樽の女よ」があったのでこれを使って、「小樽の女(ひと)」に戻してとなったんです。
――パッケージは小樽運河のイラストですよね。しっとりした色合いがいいですね。
吉晴さん:そう、浅草橋です。これは昭和57年に今の商品になってからずっと変わっていません。
――つまりこれがその頃の小樽運河の風景という事ですね。今と結構変わっていたりするんですか?
正三さん:右手の倉庫や左手のガス灯は全然変わってませんが左手のの建物のほうは結構変わってますかね。
吉晴さん:小樽の人のようにソフトでありながらもしっかりしたお菓子だったり、箱のイラストだったり、とにかく小樽らしさを出すことを意識していますね。それで小樽に来た人や小樽から出かける人のおみやげに活用していただいています。「旅情菓」と書いてありますけれど、このお菓子を手に取り、口にする方が旅情を感じてくれるとうれしいですね。
小樽のひとをひとり残して来てしまった鶴岡雅義と東京ロマンチカと違い、私はしっかり持ち帰り美味しさや愛しさを堪能したのだが、やはりぽつぽつと歩いてきた小樽の街並みを思い出し、ロマンチカのごとく「よ」をつけてしまうのだった。小樽の女(ひと)よ。