特集 2020年4月7日

握手ができなくなりました

握手に代わりになるものとは? そもそも握手はなんのためにしていたのか?

このご時世、握手ができなくなった。ともあれ握手なんてあんまりしないものだ。

握手がひんぱんに行われている国では代わりの挨拶が生み出されている。ひじをコツンと合わせたり、足をパンパンしたり。

それは何が何に代わったのだろうか。一体どういう不都合が生まれているのだろう。いまいちぴんときてないので知りたい。せめて握手だけでも世界に追いついておきたい。

動画を作ったり明日のアーというコントの舞台をしたりもします。プープーテレビにも登場。2006年より参加。(動画インタビュー)

前の記事:なぜ自転車に乗ると説得力が失われるのか?

> 個人サイト Twitter(@ohkitashigeto) 明日のアー

まずはじめにふつうに握手をしてみる。

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まずふつうに握手をする。してはいけないというのでポリエチレン手袋をはめてやってみた
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あ、これはちがうな。やけにさわさわして変な感覚だ。くすぐったいというか。「エロチックですらありますね」と藤原。そうかな︕︖ し慣れてないことは挨拶にむかないのか も
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そういえば握⼿は「他の器官よりも感覚が鋭敏である⼿」を使う。そこが握⼿の優位点なのだろうか

ポリエチレンの⼿袋を使うと感触が変だったので⼿袋に代えてやってみた。

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⼿袋をしてみると今度はすっきり。冬の握⼿だ。「し慣れている」というのは⼤事なのかもしれない。

ポリエチレンでなく⼿袋がよかったのは「し慣れていた」からだろうかそれとも「カサカサしない感触」だからか。

挨拶において⼤事なのは「し慣れている」ことや「感覚が⼼地よい」こと︖なのだろうか。まだまだ例を⾒ていこう。ここから⼀つ発展してみよう。複雑な握⼿である。

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握⼿の発展型がある。クラブで交わされる挨拶がある。ふつうの握⼿を⼀回してから握り込む形になり…

 つづいての例はクラブで交わされる挨拶だと個⼈的に思っているもの。⼀回握⼿してから、腕相撲のように握り込む。体の「接触⾯が増え」て「動きが独特になる」という変化がある。

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軽くハグにまで発展するものだ。これはたしかに親密度が上がった気がする。

そこからハグに発展する場合もあるだろう。これは場所によって違う。流派がある。合⾔葉のようにそれを知ってることが仲間でもあるわけだ。

また、ハグによって体の接触⾯積も増えていく。抱き合うのだから顔も近くなる。より親密度も上がる。

やってみるとこりゃ仲が良いわなという挨拶である。

挨拶の⾝振りに必要なのは「体の接地⾯積」や「顔の近さ」で表す親密度か。それとも「独特な体の動き」が合⾔葉になる仲間意識だろうか。もしくはどちらもか。

まだ他の例を⾒て判断をしていきたい。まずは握⼿の代案とされてい る挨拶である。ヒジをコツンとやるらしい。

握手の本場では代替案で盛り上がっていることだろう。

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そこで代わりに⽣み出されたのがヒジでコツンとやる仕草だそうだ。実際に⾏われているのかは知らないが…やってみると握⼿よりも味気なさを感じる。

ヒジでコツン。……こりゃ味気ない。親密度が⾜りないというか。

やはり「接地⾯積のなさ」「鋭敏な感覚のなさ」「し慣れなさ」あたりがマイナスに働いてるのかもしれない。

ただ「独特な動き」という点はある。ところでヒジ以外にも握⼿の代替案があるそうだ。

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パンパンと足をはたき合うようする挨拶。

握⼿の代案としての他の案。お互いの靴をパン、パン、と触れ合うというものもあるようだ。これは少しはよかった。ヒジを突き合わせるよりか多少親密度が上がった気がした。なぜだろう。

あんまり⾒たことがない動きの「独特さ」が上がった。あんまりし慣れない動きだ。そして靴を当て合う「相⼿と⼒のやりとりをする」ことがある。

とはいえこの代案たちでは握⼿に対してやはり物⾜りなさがある。あんなに近くてギュッとするものは強い。

そしてこのヒジでコツンや⾜パンパンにはまだ問題がある。対⼈の距離がちょっと近いのだ。

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下に置いたロープが2m。握手も含むこうした挨拶は対人距離が近すぎるのである

距離を遠くした挨拶を考える

握⼿も含めて私達の挨拶はまだ距離が近すぎやしないか。下に置いたロープが2mである。今や対⼈距離はこれくらい離れるのが望ましいらしい。じゃあどういう挨拶が握⼿の代わりとしていいのか。

考えてみたのだが靴をパンパンと合わせるのを遠くからやってみたらどうだろうか。

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⾜をパンパンとやれないからとりあえず⽚⽅、靴を脱ぐ

「やあどうもどうも藤原さん」「お元気ですか大北さん」と言葉を交わしながらお互いの靴を一足脱ぐ。

2m離れた挨拶として提案したいのがお互いの靴を投げてぶつけ合わせる挨拶だ。これは「遠い距離で」「靴を合わせる」ことが狙いである。

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そして真ん中でパン、とぶつけ合わせる。各々回収する

……これがなんだというんだろう。射的のようなゲーム性は増すのだがなんにも⼿触りがない。いや、おじぎも⼿触りがないのだから⼿触りなんてなくてもいいか。それにしても「だからなんだっていうんだ」感が強い。

意味や機能を与えてみる

無意味なのが悪いのだろうか。ここに機能を加えてみよう。投げてもらった靴を磨くのである。

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靴を脱いでもらって投げてもらう

 

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そのあとブラッシングしてみる

「やあどうもどうも」と靴を投げるのは変わらず、そのあと靴をブラッシングしてみる。するとどうだろう。左の⼈が卑屈に⾒えやしないか。そう、⼒関係が⽣まれたのである。

これはいけない。挨拶において平等であることは大事だ。仲間なのだから。

やはり挨拶をする⼆⼈は同じことをするのが前提条件なのだろう。次に靴を投げ合ってみた

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バラバラに靴をなげあってみた。靴をつかった挨拶がつづく

これが今までで⼀番よくなかった。無味無臭の挨拶だ。PCのソフトがクラッシュしてまた同じ作業してるような味気なさ。こんなサッカ ーしてたらセルジオ越後が怒るだろうなと思った。

なぜ靴をパンとあわせたときにはまだよくて、これがよくなかったのか。それは「せーの」にあるのではないかと思いあたった。投げたのは「せーの」でタイミングを合わせたのだ。

タイミングを合わせることがよいのか? 

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タイミングを合わせることが挨拶となるなら旗を上げるのはどうだろう
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「やあどうもどうも藤原さん」「⼤北さん、⼤変な状況ですね」

 

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お互いにタイミングを見計らってズバッと同時に上げる。なにか「やったな」感は出た

タイミングを合わせるといいかもしれない。「せーの」と⼝に出したわけではないが、⽬で呼吸をあわせて⼀緒に旗を上げた。そして同時に降ろした。

するとなにがしかの「できましたな」という充実感はあった。ボディタッチはない。しかし協調したという仲間意識はそこそこあった。

デメリットとしては目立つ。そして旗を持ち歩くやっかいさなどがあげられるだろう。旗を持ち歩く。これがなかなかに嫌だ。親戚にいてほしくない。なんらかの思想がだいぶ強い。

タイミングと動きも決めてダンス化したらどうか?

せーの、は挨拶において有効だった。同じ時間を⽣きるような協調性がある。

先ほどのクラブの挨拶のときに思ったがこれは⼀種のダンスのようだなとも。ダンスはタイミングと動きを合わせるものだ。ダンスっぽい挨拶はどうだろう。ハカっぽい動きをかんたんに作ってやってみた。

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ハカっぽい動きを適当に決めてやってみた。「やあ、藤原さんお久しぶりです」と言いながらハカをする。仲のよさはある

 ダンスは挨拶としても強い

これは親密度が上がった。独特な動きであることが仲間意識を⾼め、時間と動きも合わせることで親密度も上がる。なるほど、ラグビーチームが採⽤するわけだ。あれは⼤きな意味での挨拶だったわけだ。

せーの、は時間の話だったが動きも同じにすることは有効だった。ここにさらに⾜してみよう。挨拶であるわけだから会話の冒頭でもあるしポジティブさを⾜せばいいのではないか

そう思ってくす玉を割ることにした

祝祭性やポジティブさを付与してみる

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せーの、で時間は同じ。体の動きも同じ、やることも同じ。そしてくす⽟には祝祭性がある。これが現時点で考えられる最⾼の挨拶ではないか。「お久しぶりです藤原さん」「⼤北さん、元気でいらっしゃいましたか︖」せーの、

 

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パカッ
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なんて逆説的な響きがするのだろうか

なにがおめでたいのか

おかしい。おめでとうという⾔葉はこんなに空疎な響きだったろうか。理論上は最⾼の挨拶であるはずなんだがそういうわけでもなかった。くす⽟は問題なく開いた。しかしいつもより春の⾵を多く感じた。

また原点に戻ろう。握⼿が⼀番よかった。握⼿を離れてやる代案を考えてみよう。

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道具を使っていいなら右⼿を作ってきたのでこれをラジコンで送ってみよう
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「どうもお世話になっております藤原です」「藤原さん大変な状況ですね今は」

 

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きたきたきた。握ったままラジコンカーがバックし始めたとき握手っぽさを感じた…!!

力のコミュニケーションか?

ラジコンで右⼿を送って握⼿をしてみたところ、これはまあ予想どおりというか「ラジコンの上に載せられた紙粘⼟の右⼿のオブジェに⼿を沿わせた」以上の意味は全くなかった。ところが、だ。

握⼿をしたままラジコンがバックしはじめたとき急に⼈の存在を感じるのだ。これはやはり挨拶だ。怪しい雲⾏きのときにほほに⼀滴の⾬粒が落ちるような。「⾬だ︕︕」と⼤きく意味が変わる⼀滴がラジコンのバックだった。

遠隔の握手になかったもの。それはお互いに握る力を感じる、力のコミュニケーションではないだろうか。

たとえばこのロープを引っ張ってみるとどうだろう

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弱い力でひっぱるより

 

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強い力で引く方が挨拶という感じがする

きてるきてる。これは挨拶だ、挨拶性がきてる。

ロープを引き合うとお互いの力を感じる。お互いの存在を感じて道具を介してではあるが身近に感じられる。なるほど、この理論でいけば数千km先のパイプラインから送られてきた石油も挨拶になるかもしれない。

おもしろかったのはロープをつまんで弱い⼒で引張り合うよりも、ぐっと握って綱引きのようにしたほうがお互いの存在を強く感じ、挨拶という感じがしたのだ。

挨拶はパワーである。もしかしたら挨拶はパワーかもしれない…︕︕

挨拶はパワーだ!

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ほら、挨拶はパワーだ! 見えない力を感じろ!
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気功で投げ飛ばされる…これが、、これが挨拶!?
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さてまた戻ろう。握⼿を道具に置き換えてみよう。マジックハンドと⽕バサミである。これで道具を介した握⼿をしよう。
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なんとこれが思いのほか握⼿っぽいのだ…︕︕
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お互いの棒を握られたとき、⾃分の体ではないはずなのに「握られた」という感覚を持つ。これは不思議なことだ。
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ためしにぎりぎりのところで⽌めるエアー握⼿をしてみたのだが、これがぜんぜんよくない握ることはとても重要なんじゃないか

 

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ここで⼀つ気づきが。先程のロープであるが、綱引きをするよりも握⼿をするくらいの⼒で握るとこれがより挨拶っぽいのだ。もしかしたら「握る」こと⾃体に挨拶の挨拶性みたいなものがあるのかもしれない︕
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⾚ちゃんに指を⼀本差し出すと⾚ちゃんは握ってくれる。把握反射というそうだ。⼈間が猿だった時代に⽊から落ちないためにする名残の習性だという。私達の握⼿はもしかしたらお猿さんから来ているのではないか︕

握手は握るから挨拶なのでは?

⼒のコミュニケーションや接地⾯積、距離感や独⾃性やタイミングなど⾊々あるがもしかしたら握ること⾃体に意味があるのではないか

ここで一つの発見があった。

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せーの、で
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ぎゅっと握ったふりをすると当然よくない

せーの、でぎゅっと握ったフリをするエアー握⼿だとこれはそんなに挨拶っぽくなかった。しかし、せーの、で⾃分の右⼿で⾃分の左⼿を握るのだ。これはもう握⼿だった。まぎれもなく右⼿は握⼿だった︕

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これが新しい握⼿だ。せーので⾃分の⼿を握ると遠隔の握⼿の効果がある。

ちなみに左手は痴漢に握られたようなものだ!


握⼿の代案は「せーの」で⼿もみ

私達の⽣活がおびやかされている。そのこと⾃体はもちろん残念でうれうべきことだが、温暖化で溶け出した凍⼟の中にマンモスがいた感じで、今までに⾒えなかった本質が⾒えたりもする。⼤変だなあ…と⾔いながらも「へえ〜マンモスってこんな感じなのか〜」となった次第だ。

握⼿はよくできている。あいさつには儀式や符牒、同時性などさまざまな要素があるが、握⼿は握るから握⼿なのである。握ること⾃体に信頼と安⼼がある。今⽇からしばらく⾃分の⼿を握っていよう。もうかった感じも出てよいと思う。

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