なぜギロチンだったのだろう
さてなぜギロチンを作ろうと思ったのだろうと自分でも不思議だったのだが、実際にギロチンにきゅうりをセットしててすぐにピンと来た。バナナをセットして確信に至った。去勢なんじゃないか。競走馬が勢いを落とし、中国の宦官が女性だらけの後宮に入るためのあれだ。隠喩を超えて直喩とも言えるほど去勢な見た目だった。
つまりこの既視感にとらわれたりする気だるい感情は男性ホルモンの低下の顕れなんじゃないだろうか。
バレンタインデーのチョコレートを手作りしたことがある。今まで気にしていた「あげる/あげない」などどうでもよくて、チョコそのものがとても愛おしいものとなる。作ってみて初めてわかることってある。
一方、人類からギロチンが失われて40年が経った。主にフランスで使われていた死刑執行のための断頭台である。
ギロチンとはどのようなものなんだろうか。私達の生活に導入することは可能なのか。実際に作ってみた。
ギロチンとは関係ないがコントの舞台を書いている。今年は9年目になり、脚本を書いていると既視感が増えてきた。
考えてみれば他の作家のおもしろいものに出会うことも少なくなってきた。飽きたのか消費なのか、そもそも笑いのパターンには限界がある。むしゃくしゃしたのでギロチンを作ることにした。
なぜギロチンなのかは私にも分からないが、意外と使い道もあるかもしれない。にんじんしりしり器、ゆで卵スライサー、考えてみればギロチンくらい残酷な装置は私達のキッチンにある。
命を絶つという用途以外に例えば調理器具として、工具として、私達の暮らしにギロチンが入る余地はないのだろうか。まずはギロチンの形状を調べた。
ギロチンを検索してみると他サイトであるオモコロの記事が出てきた(『探求!ギロチンはこれからどうすればいいのか』)。やばい。かぶった。これを書いた人もそうなのか。人はどうして煮詰まるとギロチンを作り始めるのか。
とはいえ、そちらの記事はダンボール製で切れないものだったのでこちらは暮らしに導入できるような実用的なギロチンを作る。
「切れないでしょう」とギロチンを作ると聞いた担当編集の安藤さんが心配をする。安藤さんはかつて物の動きや機構を学ぶ授業で投石器を作ったことがあるらしい。そんな人が言うと説得力がある。
刃をまっすぐ落とすだけだからなんとかなりそうな気もする。だけどそのまっすぐ落とす精度が難しそうでもある。
家で簡単に図面を書いてホームセンターで木を買ってきた。断頭するための穴と刃の鉄板を斜めにカットするのはお店のサービスになかったので諦めた。できるかぎりでよい。それが自分なりのギロチンではないだろうか。
「おいしくなくてもよい」と言ってくれる料理の土井善晴さんに学んだ教えで私はギロチンを作る。
工夫した点としては土台部分を箱型にして厚みをもたせたこと、60cmというそれなりの高さをつけたこと、そして上部に飾りをつけたこと。
すべてギロチンとしての怖さや威厳をもたせるためにやった。ギロチンは人々を畏怖する見た目でないといけない。
刃部分は厚さ3mmの鉄板を砥石で研いだ。斜めにできなかったのが悔やまれる。
そもそもギロチンの刃はどんな首でも落とせるように斜めに付いていたそうだ。たしかに包丁をまっすぐ落とすところを想像すると切れなさそうだ。はたしてその切れ味はどう出るか。
設計も買い出しも面倒であるが一度材料がそろえば組み立ては熱中をする。それはギロチンにとっても同じことだった。オッペンハイマーの気持ちが今なら分かるような気がする。
刃をまっすぐに落とすためにねじれなく2本の柱を立てられるかが問題であった。なにか工夫があるわけでもなくただ慎重に、慎重に、まっすぐに立てたいという願いのようなものが込められた。
翌朝、木工ボンドが乾いて高さ60cmを超える手作りのギロチンが出来上がった。愛着がみるみるわく。こんなに残酷な装置なのに。
ギロチンとは残酷な装置のようでいて、実は殺される人に苦痛を感じさせないように作った博愛の装置なんだという。
小説家のバルザックは「革命のおかげで、われわれにはギロチンがある。今では、 復讐としてではなく見せしめのため」と言ったそうな。(参考 千葉大学『バルザックとギロチン』泉利明著)
どういうことなんだろう。実はギロチン以前の処刑はもれなく苦しくて、一番苦痛がないのが斬首刑だった。でも剣で人の首を切るのは技術がいるので貴族だけが斬首刑だったそうな。庶民は絞首刑。
そんな折、自由と平等を求めるフランス革命が起こる。貴族でなくても、ということでギロチンが発明されたという経緯もあるそう。(参考 『History "「死刑執行人サンソン」が生きた時代" chapter3』)
そうしてきゅうりは何の苦しみもなく、ギロチンにかけられるのであった。
こうしてギロチンが落とされて、鈍い音とともにきゅうりの先が落ちた。私はなんてことをしてしまったんだろう。むしゃくしゃしてギロチンを作ったばかりに、何の罪もないきゅうりの先が落ちてしまった。
それはとてもきれいに落ちていた。包丁で切ったような断面のきれいさで。そこに一抹の充実感をおぼえてしまう。そうだ、ギロチンはうまくできたのだ。まっすぐに落ちる機構は完成していたのだ。
だけどなんだろうこの感覚は。先を落とされたきゅうりの後ろ姿は包丁で切ったものとは明らかに違うのだ。もしもピアノが弾けたならすぐに歌にしていただろう物悲しい後ろ姿である。
さまざまな残酷な装置が私達のキッチンにあり、そこにギロチンがあってもおかしくはない。と思っていたのだが、この悲しさはなんだろうか。
このきゅうりはただ包丁で切ったものと同じきゅうりであるはずなのに、なぜこんなにも心が揺さぶられるのか。
ギロチンはかつて復讐にとってかわり、見せしめとなった。娯楽や見世物と言わずともそこには少なからずドラマがある。日常をドラマで満たしたいなら、NetflixやAmazon primeなどのサブスクを。それでも足りなかったらギロチンを導入してみよう。そうすればきっと君の情緒は毎日乱高下し、人格はガタガタになるはずだ。
さてなぜギロチンを作ろうと思ったのだろうと自分でも不思議だったのだが、実際にギロチンにきゅうりをセットしててすぐにピンと来た。バナナをセットして確信に至った。去勢なんじゃないか。競走馬が勢いを落とし、中国の宦官が女性だらけの後宮に入るためのあれだ。隠喩を超えて直喩とも言えるほど去勢な見た目だった。
つまりこの既視感にとらわれたりする気だるい感情は男性ホルモンの低下の顕れなんじゃないだろうか。
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