内なる子ども体験
ランドセルを大きくして子どもに見えることはない。30年の月日は抗いがたい事実として僕にしみこんでいる。だが子ども時間をちょっとだけ体験できたのは得難い体験である。心の時代ですね。
結果が出ないから心の問題にすり替える。そんなことができるのも大人ならではである。
とあるミュージシャンのプロモーションビデオでランドセルを背負った女の子が踊っているのを見た。
とてもダンスがうまいのでもしかしたら大人なのではないかと思ったのだ。ランドセルを大きくして相対的に子どものように見せているのかもしれない。
ということは僕も大きなランドセルがあれば小学生に見えるんじゃないか。
※2011年1月に掲載された記事を、AIにより画像を拡大して加筆修正のうえ再掲載しました。
でかいランドセル背負って半ズボンをはいたら遠目には小学生のように見えるかもしれない。でも近くで見るとおっさん。面白い。
だが遠くても近くても変質者に見えるかもしれない。それはそれで現実として受け止めたい。
ところできっかけとなったプロモーションビデオに出演しているのは本物の小学生だそうだ。ツイッターに書いたらたくさん教えてもらった。だが小学生に見えたいという欲求に火がついてしまったのでランドセル作りに邁進したい。
子どものランドセルは肩甲骨からベルトぐらいまであるので、僕のもそれぐらいの大きさにする。ネットで調べたランドセルは高さ305ミリ、僕の肩甲骨からベルトまでが400ミリ、その比率でランドセルを拡大する。
材料は家にたまっているダンボールを使うことにした。発泡スチロールも考えたが形をけずり出すのは大変だし家が粉だらけになる。
右上の黒いカッティングシートを貼る前の状態はどうしようかと思った。ゴミが形を変えた(ちょっとランドセルに似てるかなぐらいの)ゴミになっている。ダンボセルという新しいものを作ったという記事にすべきか悩んだ。
色むらのある肌色を見ていると秘宝館や地方にある個人経営の博物館(館長ひとりが自作のオブジェを展示しているような)のちょっとエッチなオブジェを思い出すことを発見した。
え、これで完成?と思うかもしれない。僕もちょっと思った。だが遠目で見てランドセルに見えるのが目的なのでこれでいいのだ。これでいいのだ(2回目は自己暗示)。
距離が離れるほどどこかで子どもに見える瞬間がやってくるのではないか、という目論見である。図解するとこう。
ランドセルを背負ってXXメートル離れると子どもに見えます。子どもに戻りたい人は人から何メートル離れよう!といった教訓を導きたかった。ライフハック。
たかった、といきなり結果を予想させる書き方をしているがまずは結果をみていただこう。
15m離れてもはしゃぐ大人である。広角のレンズで撮っているのでわかりにくいが拡大するとこうだ。
これ以上離れるともうどこにいるのか確認できない。
この星は生まれたときから大人だ。離れて子どもに見えるとかそういう要素はない。
子どもの横に並んだらなじむかという淡い気持ちは一瞬で消えた。並ぶ前に「あ、これはだめだ」と察知した。
このとき僕はほんものの子どもを先生と呼びたくなっていた。子ども先生。
平行に撮っていたのかいけないのかもしれない。高いところから撮れば身体が寸詰まりになって子どもに見える可能性もある。
いっそう不審者っぽさが増しただけであった。
小学生のころ、学校の近くに大人なのに子どもの格好をした変質者が出るという噂があったが、それはタイムマシンで未来からやってきた僕かもしれない(藤子F不二雄SF短編でいえば)。
しかし発見もあった。半ズボンは寒いが無闇に走り回ると暖かくなる。だから子どもは走っているのだ。そして日なたのありがたさを心から感じた。野生動物か。
遊具に乗ったら2週間前に手術した痔の傷跡にヒットしてしまった。拡大写真はその瞬間の表情を捉えたものである。痛かった。遊具が痔に優しくないなんて子どものころは気づかなかった。
子どもは健康な肛門してるんだろうな、いいなー。と犯罪者ギリギリのことを思った。
でかいランドセルを背負っても僕は子どもではない。
だがランドセルを背負って走り回っていると(寒いから)いろんなことを思いだした。
学校の帰りにランドセルを放り投げてベルトを壊して半泣きになっていたのはあれは古井だったけ。そんな個人名まで思いだした。
ランドセルを大きくして子どもに見えることはない。30年の月日は抗いがたい事実として僕にしみこんでいる。だが子ども時間をちょっとだけ体験できたのは得難い体験である。心の時代ですね。
結果が出ないから心の問題にすり替える。そんなことができるのも大人ならではである。
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