岡山の郊外の福岡では今も定期市が開かれている
岡山の郊外の福岡では今でも月に一度の定期市が開かれている。僕が訪れた日はたまたま定期市の日だった。
参考文献
- 備前福岡町並み歴史散歩 備前福岡史跡保存会会報 第24号(特別号)備前福岡史跡保存会/〔編〕
- おかやま雑学ノート 第11集 やっぱり出たか 赤井 克己/著
福岡県や福岡市などの「福岡」は、遠く離れた岡山県内にある福岡という地名が由来だという。
調べたところ「福岡城を作るときに先祖が住んでいた土地の名前を義理堅くつけた」ということのようだ。
県名の由来が他県にある唯一の例らしい。他県で県名の由来になるほどの“岡山の福岡”はどんなところなのか。
現地を歩きつつ、ことの顛末をまとめてみた。
都道府県は47あるが、その都道府県の「県名」はそれぞれの土地に由来することがほとんどだ。
しかし福岡県の「福岡」は、他県の、岡山県内にある福岡という場所から付けられたそうだ。
その時は「へー」と思っただけだったが、改めて考えてみると不思議だ。なぜ県名を遠い場所の地名から付けたのか、空間がねじ曲がってつながっていたりするのか。
調べてみようと岡山県内で福岡という地名がある岡山県瀬戸内市(せとうちし)へと向かった。
瀬戸内市は岡山市の中心市街地からおよそ車で50分ほど。岡山市のベットタウンでもあり、農業や漁業なども盛んな場所だ。
ちなみに福岡市からだと高速道路を使っても車で6時間ほどかかる。
ナビに従って降り立ったのはこのような住宅地。周辺には田んぼも広がる。
郊外ならどこにでもあるような、ごくありふれた風景に見える。特別なものもなさそう。
ぼくのような岡山県民でさえほとんど来ることはないだろう。
コンビニやスーパーなども見あたらないが、郵便局を発見した。
看板には「福岡郵便局」の文字。岡山県内にある福岡郵便局だ。なんともややこしい。
つまりこの岡山の福岡は、岡山県瀬戸内市にある大字(おおあざ)である。分かりやすくいうと、郵便番号がひとつ割り当てられている範囲だ。
福岡県や福岡市に比べると岡山の福岡はとても狭い。
そんな岡山の福岡はどんなところなのか、散歩しながら探ってみることにした。
郵便局から延びる道は土手へ向かって登っていく、そしてなぜか土手の上には緑色のネットが張ってある。
土手の向こうの河川敷は広大なゴルフ場になっていた。
土手の上の道は交通量が多いので、万一にもゴルフボールが飛んでこないようにネットがはってあったようだ。こういうの初めて見た。
ゴルフ場の更に向こうは大きな川が流れていた。
大体の様子が分かってきたし、写真にも収めたので次に住宅が集中しているほうへ向かう。
さきほどの川から家々が立ち並ぶ中に入って来た。家の間には小さな畑も点在する。
民家の軒先に繋がれた犬がバイオハザードのゾンビ犬くらいの勢いで吠え掛かってきたが、それ以外はとても静かな住宅地だ。
地方でよく見る郊外の住宅地にみえるが、同じような場所とは何かが違う。
最初は何が違うのかうまく言語化できずモヤモヤしたが、こういった郊外の住宅地ではまっすぐな道が縦横にあることは珍しいんじゃないか。
あるとすれば新興住宅地だが、その場合は新しい家ばかりになる。その点、ここは古そうな家もあって縦横にまっすぐな道路が伸びている。違和感の正体はそこだと思う。
住宅地を抜けると、さきほどの土手の間にちょっとした広場があり、社が建っていた。
広場には大きな石碑も建っていて「福岡の市跡」と彫られている。
そして石碑の横には解説の看板が建っていた。
実はここには、中世…つまり鎌倉時代から戦国、安土桃山時代にかけて、山陽道で随一の賑わいだった定期市があったそうだ。
さきほどの住宅地の中のまっすぐな道路はその名残なのかもしれない。そして川がそばにあるので物資の輸送もしやすかった。
調べてみると、この看板の絵は有名なものだった。
この絵は一遍上人絵伝もしくは一遍聖絵(いっぺんひじりえ)と言い、踊り念仏(盆踊りのもとになったとも)を始めた一遍上人が各地で説法している様子が描かれた絵巻だ。
だいたい時代は元寇があったころで、当時の人々の暮らしぶりをうかがう貴重な資料である。
中でも一遍上人がここ岡山の福岡を訪れた場面は有名で中学校、高校の歴史の教科書には必ずと言って良いほど載っている。
こちらは教科書の鎌倉時代だが、さきほどの看板の絵と同じ人がいる。(中央の上寄りに)
覚えているか覚えていないかは別にして、多くの人がここ福岡を見たことがあったのだ。
ここが今よりも繁栄していたことは分かったが、それがどうして福岡県の県名の由来になったか、まとめてみた。
由来の謎だけ知りたい方に向け、おおむね青枠のところを読んでいただければわかるようにした。
室町時代の終わりの1511年、近江国(滋賀県)に住んでいた(※諸説あり)黒田高政はその時の10代将軍・足利義植(よしたね)の怒りを買って領地を失う。
一族をたよって、ここ岡山の福岡に4歳の息子の黒田重隆を連れて流れてきたそうだ。
妙興寺の境内には黒田高政をはじめとする一族の墓がある。
摩耗して文字は読めないので高政の墓がどれなのかはっきりとは分かっていないそうだ。黒田高政が福岡へ来てから亡くなるまでの記録も残っていないが大切な領地を失い、ここでかなり厳しい生活を送っていたんじゃないかと考えられている。
黒田高政が亡くなった翌年、重隆に長男の黒田職隆(もとたか)が生まれる。
重隆はそれから数年後、職隆を連れて隣の播磨の国(現在の兵庫県)の姫路へ移り住む。
そこで重隆は目薬を売る商売を始めて大ヒット。地元の有力者になっていった。
職隆は戦国武将の小寺政職に仕え、姫路城代(姫路城を守る役割)に出世する。
そして1546年、職隆に嫡男、官兵衛が誕生する。
黒田官兵衛は2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公だ。
官兵衛は22歳で家督を継ぎ姫路城代を引き継ぐが、織田信長が播磨へ侵攻してくると、織田につくか毛利に味方するかで迷う主君を織田につくように説得、以降、信長や秀吉に認められ軍師として大活躍することになる。
黒田官兵衛の息子、黒田長政は関ヶ原の戦いで徳川家康の味方について勝利をおさめた。その功績により筑前(現在の福岡県)五十二万石の大大名となる。
そして新しく作った自分の城に先祖が住んでいたここ福岡にちなんで福岡城と名付けた。
しかし4代も前に先祖が住んでいた場所を城の名前にするのは、自分のルーツを大切にしていたんだと思う。
そして城と共に作られた城下町も福岡と呼ばれ、明治時代の1871年の廃藩置県により福岡県が、1889年の市制施行時に福岡市か博多市かの論争ののち福岡市が誕生する。
一方、中世ごろまで岡山の経済の中心だった福岡だが、戦国大名の宇喜多直家は、現在の岡山市の中心市街地に城を作り、福岡の商人たちを新しく作った城下町に移住させる。
これによって経済的な中心は福岡から岡山へ移り、福岡は急速に衰えていく。
岡山駅から徒歩20分ほどの場所にある表町商店街はかつて福岡の商人たちが移ってきた場所だ。
商店街のすみっこにある石碑には、かつてここが福岡町とよばれていたと書かれていた。
岡山の郊外の福岡では今でも月に一度の定期市が開かれている。僕が訪れた日はたまたま定期市の日だった。
参考文献
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