緑の鼠の糞
角田光代さんの短編小説「ロック母」に収録されているタイトル「緑の鼠の糞」という話が好きだ。
おもしろい短編を集めた「ロック母」
たまに話の中身はあまり覚えていないのに、ある場面だけ強烈に残っている小説ってないだろうか。僕にとってこの「緑の鼠の糞」という話に出てくる主人公がタイで青唐辛子を食べるシーンがそれである。
「緑の鼠の糞」いいタイトルである。
文中、主人公がタイの屋台で調味料として置かれている「プリッキーヌ」という唐辛子をかじりながら氷の入ったビールを飲むシーンが出てくる。タイ語「プリッキーヌ」は日本語に訳すと「緑の鼠の糞」。小さな緑の唐辛子のその形が鼠の糞に似ているからだ。小説でも「世界一辛い鼠の糞」として紹介されている。
砂糖入りのナンプラーに漬かったプリッキーヌをつまようじで口に放り込む。それをかみ砕くと頭は脈を打ち体は熱を帯び、タイの夜の蒸し暑さと自分とが同化していく。空気と自分とを隔てる皮膚という壁が極限まで薄くなっていくのを感じながら、氷の入ったビールを一気に流し込む。
こんな感じの、最高に美味そうな描写が頭にこびりついて離れない。主人公はそのあとたしか差し歯が取れる。
そういえば前にタイへ行った時の写真を見返していたところ、その「プリッキーヌ」と思われるものが写っているカットがあった。
ライター地主くんとタイの道端でご飯を食べている写真。このときテーブルに載っているもののひとつがおそらく小説に出てくる「プリッキーヌ」じゃないかと思う。
これ。
この時はまだこの「緑の鼠の糞」の小説を読む前だったので、特に気にすることもなく美味しくご飯を食べて帰った。もしかしたらプリッキーヌにも手を付けたのかもしれないけれど、正直覚えていない。
日本にいながらタイ気分
どうしてもこの小説に出てくる辛い唐辛子が食べたい。そしてタイの空気と一体化した体に氷入りのビールを流し込みたい。
本当はタイまで行きたいところだけれど、それは夏休みにでもとっておくとして、今回は近所にあるアジアの料理に詳しいお店「
クーカイ」さんにお願いしてタイの唐辛子と一緒にビールを飲ませてもらうことにした。
このお店はひとつひとつの料理へのこだわりがすごい。タイ料理の専門店ではないのだけれど、トムヤムクンなんかを作るときのためにタイの唐辛子の酢漬けを自家製で作っているのだという。
ぜひそれを食べさせてください。
こちらがタイの唐辛子の酢漬けです!
小説に出てきた緑の鼠の糞とはちょっと違うが、タイの唐辛子をタイの穀物酢で漬けたものなのだとか。そういえば小説中、プリッキーヌの他にもテーブルに常備されている調味料として「大きめの唐辛子を酢漬けにしたもの」が出てくる。それがたぶんこれだろう。
瓶を開けると一瞬で東南アジアの屋台のにおいが広がった。そうそう、この感じである。
普段は調味料として使っているのでこうやって食べる人はいないそうです。タイビールがなかったのでベトナムビールで。
うおー、辛そう。
ここはタイではないので日本の冬の格好をしていて恐縮ですが、タイの川べりの屋台にいることを想像しながら、いただきたいと思います。
いただきます!
酢漬けなので油断するとむせる。
息を吐きながら噛みしめる。すると、彼方からタイが駆け足でやってくる。
かーーーっ、、、ら
ビー。
……うまい。
唐辛子の酢漬けは噛んだ瞬間に頭のてっぺんあたりがぼわっと「開く」感じがした。それが徐々に全身に広がっていき、もうどうしても耐えきれなくなったところに氷入りのビールを流し込む。氷ですこし薄まったビールはなんの抵抗もなく体にすっとしみこんでいく。
このヒリヒリした感じ。傷口にビールがしみこんでいく感じは確かに僕の記憶の中の「緑の鼠の糞」のイメージを彷彿させる。
ビールに氷を入れるだけで暑い国のビールの味になるから不思議。
体にいい飲み方ではないような気がするけれど、これほど鮮烈にビールを感じられるやり方もないだろう。味覚というより痛覚で味わう感じ。おかげであまり酔いが回ることもなく、スポーツのように一瞬でビールを2本開けてしまった。
でもこうなってくるとやはり「緑の鼠の糞」も気になる。自作してみたいと思う。
緑の鼠の糞、入手
タイの唐辛子の酢漬けは確かに美味かったのだけれど、こうなると小説に出てきた「緑の鼠の糞」がよけいに気になってくる。アジアの食材を扱っているお店に問い合わせて売ってもらった。
これが緑の鼠の糞!
アジアの食材を扱うマーケットには大小さまざまなサイズの唐辛子が売られていた。クーカイさんいわく、タイではサイズによって唐辛子の呼び名が違うのだとか。
たしかに「プリック・デーン」「プリック・キヤオ」など色やサイズによっていろいろな名前の唐辛子が売られていたが、いちばん「プリッキーヌ」に近い響きの「プリック・キーヌースワン」にした。サイズ的にもこれが一番小さく、小説に出てくる「緑の鼠の糞」に近い。
ところどころ白いのは凍っているからです。
開けた瞬間からやばい
冷凍の状態で売られていたので袋を開けて自然解凍していると、徐々に部屋の中に不穏な空気が満ちてきた。なんだか目がしょぼしょぼするし猫がやたらと走り回っている。
どうしたどうした。
解凍しただけなのにこの臭気はすごい。これは期待できそうである。プリッキーヌはライム、ニンニク、砂糖と一緒にナンプラーに漬けこむらしい。
こまかく刻んでライムとニンニク、砂糖と一緒にナンプラーで漬けこみます。それぞれの量は適当。
ナンプラーも穀物酢も同じアジア食材のお店でタイ製のものを買ってきた。特にナンプラーはいろいろな種類があったけれど、このシェフがエビを背負っている絵が気に入ってジャケ買いした。
漬けて一日くらい置くと食べられるそうです。
こちらはシンプルに酢漬けにしたもの。
ナンプラーや酢に漬けて置くと目がくらむほどの臭気を発することはなくなった。だけど確実に辛い。ためしにひとかけら食べてみたら書いている今でもまだしびれているくらいである。辛いけど味がある。国境の向こうから来る味だ。シンプルな材料なのにこれほど深い辛みが出るとは。
かじりながらビールを飲む前に、今回はつけ汁であるナンプラーをいたものをいろいろな食べ物にかけてみることにした。たぶんこの調味料としての使い方の方が正しいのだろう。
中華まんがタイまんに
まずはコンビニの肉まんにかけてみる。
すこし多いかな、くらいかけます。
肉まんはご存知のとおり中国からきた食べ物であってタイ料理ではない。しかしこれが驚いたことに、ひとかけでタイまんに代わってしまった。食べてみるとあんの肉汁にプリッキーヌのエキス入りナンプラーが絡んで最高にタイである。気を抜くとそのへんから野良犬が出てきそうだ(タイには野良犬がたくさんいます)。
もしかして、と思って普通のチャーハンにかけてみたところ、こちらも一瞬でタイチャーハンになった。
ふつうのチャーハンが一瞬でタイチャーハンに。
ほおばれば遠くに金ピカの寺院が見える。オレンジの袈裟をまとった微笑みの国のお坊さんたちが静かな手つきでチャーハンを調理しているようだ。サワディークラップ。
ゆで卵こそ最高
今回、いちばん美味かったものを先に紹介してしまおうと思う。それはゆで卵である。
プリッキーヌ・オン・ボイルドエッグ
これが驚くほど美味かった。たまごには塩か醤油かソースか、みたいな議論がたまにあるが、正解が出てしまったように思う。プリッキーヌである。いま書いていて気付いたのだけれど、これぜったいたまごかけご飯にも合うと思う。今度やろう。
それにしても何にかけてもタイになる調味料である。僕は恐ろしいものを作ってしまったのかもしれない。冷蔵庫をあさって家にあった食材を手あたり次第タイ料理にしてみた。
タイ風さつまあげ。
タイ風卵焼き。
タイ風サラダ。といってもブロッコリーをゆでただけだ。
かつてこれほどの影響力を持つ調味料があっただろうか。何に加えても一瞬でタイ料理にしてしまうのだからすごい。意味もなく皿の下に宇宙柄の布を敷いてみたのだけれど、図らずもプリッキーヌの広さを表現した形になってしまった。
もちろん小説そのままに、これをそのままかじりながら氷入りのビールを飲んでも、そこはもちろんタイの川べりなのであった。最高です、緑の鼠の糞。
ビールはすぐに飲み干しちゃうけど。
プリッキーヌは万能調味料
緑の鼠の糞、と呼ばれるプリッキーヌは、ナンプラーや酢に漬けておくと、調味料やビールのつまみとしてものすごく使えるものになることがわかった。しばらく我が家にはタイの風が止まないと思います。
プリッキーヌを触った手は石鹸で洗ってもしばらくダメ。目とか触ったら本当に危ないので注意。