ほんとうにここ青山か
また再開発とか団地とか地味な話題で申し訳ない。
いやでもこの都営青山北町アパート、すごく不思議なんですよ。とりあえずまずはその様子をご覧ください。
いかにも古い団地って感じですが
天下の青山通りの脇なのです。
場所はここ。表参道駅からけっこうすぐ。こんなところに団地があるのです。
すごいことになってますが、ここは青山。「青山」を文字通り再現したような感じではある。
すごいキャンチレバーな状態で育っている木とかありますが、青山です。
ワイルドな状態になってる案内版。これもう使わないんだったらひきとりたい。
繰り返ししつこいですが、ここは青山です。信じられない。
号棟表示もちょうすてき。
おそらく住民が独自に植えたとおぼしきシュロもいい感じだ。
特にこの12号棟とかかわいらしくてかわいらしくて引き取りたい。
ダストシュートりりしい。
なにモチーフかよくわからない遊具もいい。
荒々しい後付け配管。いい。
いやー、なんど訪れてもここが東京都心ど真ん中とは思えない不思議さ。
写真を見て「ああ、そこ通りかかったことある!」と思った人もいらっしゃると思う。
それにしても、つくづくほんとうにここ青山か? っていう雰囲気だ。ブルックスブラザーズの裏にはこんな空間が広がっているのだ。ちなみにブルックスブラザーズが入っているビルも「UR北青山三丁目第二市街地住宅」という団地だ。
入口の道がみょうに広い
さて、ここにふらっと迷い込んだことがある方も多いのではないか、というのはこの団地へのアプローチの道がちょっとへんな感じだからだ。
なんだかみょうに広々としている。
しかも青山通りから表参道から外苑前のほうに歩いて行くと、この団地への入口以外には、500m以上にわたって脇道らしい脇道がない。
青山通りの反対側から団地への入口を見たところ。
「ずっと建物が続いててまっすぐしか行けないなあ」と思っていたところに、急に表れたへんに広々とした道。しかも先を覗くとなんだか空が広い。
「ここ、なんだろう 」と好奇心がわいてきて曲がってみたら…という経験をした方も多いのではないかと思うのだ。
道の先を見ると、空が広い。なんだなんだ? って気になるよね。
団地内参道
もう一度現在の様子を航空写真で見てみよう。
こうやって見ても、団地の道が広々しているのがわかる。それにしても表参道とこの団地の緑の多さは印象的。あと周りの建物と対照的に、団地はなるべく南を向こうとしているのもかわいい。ひまわりみたいだ。(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・整理番号・CKT20092/コース番号・C61/写真番号・20/撮影年月日・2009/04/27(平21)に加筆)
くだんの道は、青山通りからずばっと団地の真ん中を貫いて反対側へ抜けている。
おもしろいのは、団地が終わったとたんその道がまた細い路地に変わってしまうこと。
団地は文字通り「一体的な開発」なので、細かく所有者が分かれてしまっている背後のエリアと違って、こうやってちゃんと道路を整備できるわけだ。
おそらくこの道は団地内の広場としても使われるように広々とデザインされたと思われる。
というのも、そういう事例がちょくちょくあるからだ。団地界では千葉の米本団地がその代表例として有名だ。
道兼広場のマスターピース。米本団地。敷地の真ん中が広く空いているのがわかる。
以前URの方に聞いた話では、この米本団地の広場を兼ねた広い通りは参道をモチーフにしているのではないか、とのことだった。幅が靖国神社のそれと同じだという。
参道は単に道というだけでなく、お祭りなどが行われる広場でもあるわけだが、実際、青山北町アパートの団地祭りはこの道で行われる。
お祭りのときにはこの道に提灯が張られ、やぐらが立つ。みるとその先に青山通り。良い風景だ。
つまり、表参道のすぐそばに団地内道路の姿をしたもうひとつの「参道」があるというわけだ。
敷地と道が保存される
さすが団地、粋なことをする!
といつもの団地びいきをしていたら、実際はちょっと違っていた。
この広い道は団地以前からここにあったようなのだ。古地図を見てみよう。
1916年~21年のようす。青山北町アパートの敷地は学校だった。そして問題の道はその正門だ。(「
東京時層地図」より・関東大震災直前(大正5~10年)に加筆)
この敷地、以前は師範学校や旧制中学校などがある文教地区だった。上の地図に記されている「青山師範学校」は現在の学芸大学の前身の一つである。
空襲により焼け野原になった後、何度か集合住宅が建て替えられて今にいたる。現在の青山北町アパートの建設が始まったのは1957年。
で、ポイントは2つ。
ひとつは、ご覧のように「妙に広い道」はこの時点ですでにあった、ということ。これは学校正門の道の名残だったのだ。
広場の機能をもった「参道」として、団地が造られた時にデザインされたとしたら、それを導いたのはこの正門の道だったのかもしれない。
ふたつめは、学校の敷地がまるまる団地として転用されている、ということだ。これは団地にはめずらしい話ではない。工場跡地がそのまま団地に、などよくある。
この敷地が保存されるということこそ団地の醍醐味だと思う。って書いたけどなんだよ「団地の醍醐味」って。
謎の「円弧団地」
こんな団地話に需要があるのかどうかすごく疑問ですが、続けます。
しかしなんで人は歳をとるとすぐ古地図とか持ち出して生き生きとしだすんですかね。ほんとすみません。
さて、この「団地の醍醐味」、要するに「団地は広い面積を持っている」というあたりまえのことが、じつに面白い現象を引き起こす。面白いんですすみません。
ひとつは「お天道さまにしたがうようになる」ということ。
たとえば地形を読まざるを得なくなる、というのがある。広いということは、棟をレイアウトする際に、もともとある起伏を無視できなくなるということだ。
多摩ニュータウンも港北ニュータウンも、大阪なら千里ニュータウン、愛知なら高蔵寺ニュータウンも、でかい団地のレイアウトは等高線を読んでいる。
もうひとつは、青山北町アパートが師範学校の正門の道を引き継いだように、過去の事情を読むようになるということ。
よりわかりやすい例をご紹介しよう。武蔵野緑町パークタウンだ。
東京都武蔵野市にあるこの団地、上の地図で赤い線で強調してあるように、敷地の形が弧を描いている。
実際現地に行くとこの曲線道路が実に印象的だ。
現地の案内図でも円弧が魅力的に描かれておる。
ナイスカーブ!
この円形敷地のおかげで、団地に独特の一体感がある。これは意図したものなのか…?
ご覧のように、実に円弧だ。いい。すごくいい。
で、これも団地が建つ前の地図を見るとびっくり!
なんと球場! (国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」整理番号・USA/コース番号・M578-2/写真番号・175/撮影年月日・1956/04/13(昭31)より)
なんとスタジアム! 円弧は球場由来だったのだ。びっくり。以前見に行った
競馬場の形が残っている住宅地を思い出した。
これは1951年にオープンした武蔵野グリーンパーク野球場というものだそうだ。
いやちょっとまて。団地ができたのはオープン6年後の1957年だよ!? と思ったら、この球場は短命だったことで有名だそうだ。
都心から遠かったのと、同時期に川崎球場や駒沢球場ができちゃったのと、武蔵野特有の土埃がひどかったせいだという。かわいそう。
高低差も謎
で、球場の名残は円弧以外にも残っている。団地に残る微妙な高低差だ。
実際現地で見ても、団地内と外に段差がある。この写真は敷地内から外方向を見た様子。
これは敷地の外の道路から団地内方向を見たところ。向こうが低くなってる。「段差注意」に高低差の存在があらわに。
この段差も球場由来なんだろうな、と予想したものの、野球に全く詳しくないぼくには、なぜスタジアムに段差が発生するのか分からなかった。
こんなときぼくには心強い友人がいる。「
野球チケット博物館」というすごいサイトを長年運営している尊敬する人だ。野球好きでその名の通り野球チケットを収集している。
彼に「ここに昔野球場があったらしいんだけど、何か知ってますか?」って聞いたら、すぐさま下のチケット画像と詳しい情報を送ってくれた。さすが!
かわいいチケット。
前述のように戦後、しかも短命に終わったスタジアムなのに、ちゃんとチケット持ってる。ほんとすごい。
そして彼の解説によれば、フィールドを慣らした土を盛って土手のように観覧席をつくったのではないか、とのこと。上のイラストにもそれが見て取れる。
つまり、現在の団地の凹みは、観客席とフィールドとの高低差の名残なわけだ。そう思うと、特に野球好きというわけでもないぼくでもじんとする。
知ってか知らずか(たぶん知らないだろうけど)、団地の子たちがバットを持って野球遊びをしていた。
さらに遡ってみたら
せっかくなので、野球場がつくられる以前も見てみよう。これも非常に興味深かった。
下はさらに遡って戦後すぐ1947年の付近の航空写真だ。
空襲のあとがすごい。(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・整理番号・USA/コース番号・M372/写真番号・69/撮影年月日・1947/07/09(昭22))
ご覧の通り、なにか工場のようなものが広がっていて、それが破壊されている。空襲の跡だ。
実はここには中島飛行機という航空機メーカーの工場があった場所なのだ。ゼロ戦をつくっていた会社であり、空襲の標的になったというわけだ。
団地の隣には都立武蔵野中央公園という大きな公園があって、そこには一連の経緯が記された碑がある。
公園にある碑。詳しい内容を読みたいかたは画像クリックで大きなものをご覧頂けます。
ともあれ、建設以前の土地の使われ方が独特の形で残っている団地だ。興味ある方はぜひ行ってみてください。
ちなみに、球場って愛され惜しまれる存在のようで、その名残をあえて残す例がちらほらある。
団地以外ではショッピングモールに見られる。兵庫は西宮の「阪急西宮ガーデンズ」は旧阪急西宮球場の跡地に建てられたが、その屋上庭園の形の一部はスタジアムの曲線と一致する。
また、アメリカを代表する巨大モール「モール・オブ・アメリカ」はメトロポリタン・スタジアムの跡地に建てられ、ホームベースがあった場所にベース型の碑が残されていたりする。
さらにもっとびっくりな例も
さて、もうお腹いっぱいかと思うが、もう一例「団地に保存された例」を。
東京を代表する団地、光が丘だ。
すてきだよねえ、光が丘。
総面積186haという巨大さ。この広大な団地が「保存」しているものとは。
都営大江戸線「光が丘駅」を最寄り駅とする巨大団地光が丘。正式名称は「光が丘パークタウン」。
映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』(東宝/1998年)での名台詞「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!」の「現場」はここだ。事件は団地で起きてるんだ。そりゃたいへんだ。
で、この団地で目立つのは、青山と同じく中央を貫くメインストリート。「いちょう通り」だ。
南北に走る団地内の目抜き通り。「いちょう通り」の名の通り、銀杏並木が充実。
こうして航空写真で見ると、青山と同じように周辺と比較して敷地内を貫くこの道の秩序だった感じが際立つ(「地理院地図」の「写真・最新(2007年~)」より)
さて、これまでと同じく、この道も団地以前からあるものだ。団地が建つ以前、戦後の航空写真を見てみよう。
1947年の同じ範囲の様子。なんだかすごいぞ(国土地理院「
地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号:M636-A-No1/写真番号:180/撮影年月日:1947/11/08(昭22))
これびっくりだよね。現在と同じように住宅地っぽいが、日本のものっぽくない棟の並び方。
実はこれ「グラント・ハイツ」という名のアメリカ軍の宿舎。いうなれば光が丘団地以前もいわば団地だったわけだ。
"grant heights"で画像検索すると当時の街の様子を収めた興味深い写真がちらほら引っかかるので見てみて欲しい。
ポイントは、ご覧の通り後の「いちょう通り」は当時から存在するということ。見事に保存されている。
この土地は、1945年に連合国軍によって接収され、1973年に返還されるまでこのような状態だったのだが、それにしてもなぜこの場所だけが宿舎になったのだろう。
というのも、まわりは農地で、この土地だけが唐突に開発されている。どう見ても不自然だ。
ということは、宿舎以前、戦時中に別の用途ですでに開発されていたわけだ。さらに遡って見てみると!
テキサス大学図書館のマップコレクションより1946年作成の地図( Courtesy of the University of Texas Libraries, The University of Texas at Austin. )
なんと飛行場だったのだ。"NARIMASU AIRPORT" の文字が見える。
Wikipediaによれば、1942年に急遽建設されたというこの成増飛行場。飛行機関係→米軍宿舎→団地という経緯はさきほどのグリーンパークと同じだ。
そしてご覧のように「いちょう通り」は、なんと、滑走路だったというわけだ。
実に3代にわたって「メインストリート」として残り続けた「いちょう通り」。すごい。
滑走路の因縁
武蔵野緑町パークタウンで、子供たちが野球をしていたように、光が丘でも以前の飛行場を思わせる「滑走路」利用がある。
さきほどここが映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』の舞台になったと言ったが、他の映画にも登場する。劇場版アニメ『デジモンアドベンチャー』(東映/1999年)だ。
ある一夜の事件を描いたこの名作アニメ。モンスターが暴れまくるのだからその事件性といったら踊る大捜査線どころではない。
なんといってもその忠実な光が丘団地描写に心躍る。
で、なんとハイライトシーンに登場する敵が鳥のモンスターで、光が丘を飛ぶのだ!
なんという因縁。制作者が、ここが元飛行場だったというのを知っていたかどうかは不明だが、団地の道に滑走させたく何かを感じたとしたら、それこそ土地の因縁としかいいようがない。
団地とはレイアウトである
『
いえ 団地 まち――公団住宅 設計計画史』(木下庸子 植田 実・ラトルズ・2014年)という団地マニア必見のすばらしい本に、URの方の次のような発言があった。
"設計とは即、配置でした"
今回紹介した3団地で分かるように、団地は「面」なので、地形や以前の土地利用などを無視できない。その際問題になるのは、レイアウトだ。場所とは時間のことで、団地の場合、それは配置に表れる。
よく「画一的で個性がない」と言われちゃう団地。建築で見れば確か似そうかもしれない。なにしろ建物としての団地の真骨頂は「規格化」にあるのだから。
しかし、一方で、団地の本質は棟配置にある。棟が規格化されたおかげでレイアウトに集中できるようになったのではないか。
その点で見れば一つとして同じ団地は存在しない。どのスケールで見るかで団地は違って見える。
ともあれ、青山のこの不思議な光景も見納めカウントダウン。
冒頭の、発表資料によれば、青山の再開発はオリンピックに向けてのものだという。
この近くにある都営霞ケ丘アパートも、ここのところ話題沸騰の新国立競技場の建設のためになくなる。
といっても、ぼくはべつにこれらの再開発に反対とか、団地を保存しろ! とかそういうふうに思う人間ではない。まあ、いろいろ難儀なことがあることはなんとなく分かってて、単純に団地とその風景が「善」であると言い切れないぐらいには大人なので。
ただ、オリンピックの時期にがんがんつくられた団地が、オリンピックによって消えていくというのは皮肉だなあ、と思う。
あと、再開発後もぜひ「歴史を引きずって」ほしい。どの「歴史的文脈」を次のデザインに読み込むか、にセンスが表れると思う。とりあえずあの「参道」は残るといいなあ。
ぼく以外にも見納めに撮影してる人がちらほらいる。だよねえ。
【お知らせ】ショッピングモールの本を出しました!
シリーズで行っていた、東浩紀さんとのショッピングモールをネタに楽しく妄想話をする対談が本になりました!
ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市 (幻冬舎新書)
「ショッピングモールイスラム起源説」とか「聖書起源説」とかかなり奔放に論じております。
自分で読み返してもほんとうにエキサイティングで面白くて知恵熱出ちゃう。日本中のみなさんに献本したいのですが、そうもいかないのでぜひお買い求めください。
それにしても東さんってほんとうにおもしろい。全人類いちどは東さんと対談すべき。