商店街のとり皮からスタート
まずは僕が考える標準的なとり皮からスタートしたい。僕が考えるふつうのとり皮とは商店街の鶏肉屋さんの店頭で焼いているとり皮である。
祖師ヶ谷大蔵・やまじゅう
ザ・とり皮
近所の商店街に鶏肉屋さんがなかったため、ふたつ先の駅まできた。その場で食べようとしたがきれいにパックされていたためおとなしく持ち帰る。
!!
やわやわである。そして程よく脂が落ちている。これ以上焼いたらきっとパサパサになるだろうなという絶妙なところで止まっている。きっとあそこの主人は電車でGO!をやってもうまいだろう。そんなことを思うぴったり感である。
とり皮がぎゅうぎゅうに刺さっている。密度が高い
とり皮の密度が高いので、皮のなかにはタレ味がついてない部分がある。と書くとまるでいけないことのようだがそうではない。そこがマルチョウ(焼肉のだ)のなかの脂身みたいでうまい。
このあといろんなとり皮を食べて気づくのだが、とり皮は店によって皮の大きさ・厚み、密度が違うのだ。密度が違うとタレのしみ具合(とり皮に対してのカバー率)が違って味が変わってくる。思った以上に職人技である。
この商店街のとり皮は酒よりもごはんに合う。おかず力が強い。
ではとり皮マラソン、外に出ることにする。
東京で食べられる博多とりかわ・1
博多には独特のとり皮の串があることを最近知った。それはいちど食べに行かねばなるまいと手ぐすね引いていたら東京に出店していることを知った。しかも2軒。
余計なことを…と思うが素直にはしごしてみた。
まずは1軒目、博多かわ屋である。六本木トンネルの脇の通りにあった。
ぜんぜん違う
かわ串を5本注文してみる。僕が知っているとり皮とぜんぜん違う。
とり皮のウェッティな感じはしない。カリッとしている。でもそのあともちっと来るのだ。どうしたらこういうことになるんだ?と疑問に思いたいが事前にネットで答えを知ってしまった。
とり皮を焼いて乾かしてまた焼いて…という工程を繰り返して作っているのだ。
凝縮された味、である。肉というか味だ。腹にたまらないのでいくらでも食べられてしまう。
味の断面図
ホルモンのようにどこまでも噛めてどこで食べ終えていいかわかんない~ということではなく、どこで食べて終えてもいいもちもちである。途中下車可だ。
冒頭でとり皮をどこまでも僕を甘やかす食べ物と称したが、いきなり違うとり皮が登場した。日本には違うベースボールがあったと言った元ヤクルトのホーナーの気持ちがよく分かる。
かわ以外の焼鳥は塩でザ・王道という味
皮以外のやきとりもうまい。かわやという店名なのに!と思ったが、その感想まで書くと長くなるので省略。
六本木から四谷に移動して次はもう1軒の博多のとり皮の店へ。
東京で食べられる博多とりかわ 2
四谷には六本木の店とは別のとり皮の店である。こちらは博多とりかわ 長政というお店。
1日でひと月分のとりかわ食べる勢い
こちらもまたどこまでも味である。さっきのお店よりもややクリスピーな感じはする。アメリカ人が食べ物を褒めるときによく言うやつである、クリスピー。
そしておれの悪い癖。うまいとカメラが寄り過ぎる
そしてまたどこまでも味である。味がどこまでも一本道で続いている。
近眼の人はわかると思うけど、視力を測る装置を覗いたときに見える景色、一本道の先に気球が浮いているあれ、あの気球に「味」って書いてあるのがこの食べ物だ。
見える。味の気球が!
味って漠然と書いてるけど、うま味や甘み、脂味、塩味の連合である。味のりの味が「味」としか言いようがないように、これも「味」だ。
ねぎまもうまかった
ずっとかわで来たところにねぎまがうまかった。サウナと水風呂、柿の種チョコ、ノースリーブなのにタートルネックのセーターと同じ二物衝撃の魅力である。
この2軒、興奮のあまりお店の外観の写真を撮り忘れるという失態をしているのだが、やはり最後は東京のとり皮で締めたい。立ち飲み屋のとり皮である。
立ち飲み屋のとり皮
マラソンだが日を改めて上野にやってきた。なぜなら四ツ谷の焼き鳥屋でべろんべろんになったからである。
上野で目指すのは立ち飲みの有名店、肉の大山である。メンチカツで有名な店だがここにもとり皮があるらしい。
今回は忘れずに外観撮った
なんという正調とり皮
典型的なとり皮タレである。Tシャツにしたいぐらいのいい写真だ。
皮がゆるやかに巻いてあるので全体にタレが染みている。そしてタレはややスパイシーなちょっとドミグラスソースのようなこげたような風味があって、そこにとり皮の肉布団。ここに住みたい。
「あー、なるほど。いや? はーそういうことね。いやーしかしこれは、ねえ」
本稿では比喩を多用して味を表現しているが、実際に食べているときは上の写真のキャプションのようなアホみたいなことしか言ってない。
同時にとり皮の塩を頼んだのだが。
これはこれでとり皮の味がしっかり味わえてうまい。このあとにタレを食べると、もしかしてとり皮タレの味って結局タレの味ではないのか疑惑が湧いてくる。
疑惑というか、多分そうだ。とり皮マラソンの最後に結局タレの味だということに気づいてしまった。タレマラソンだったのか。
などと葛藤を書いたりしているが、食べてるときの表情はこれ。
「ウヒヒヒ」
でも、タレをいちばん堪能できるのはきっととり皮である。タレあってのとり皮、とり皮あってのタレ、というかうまいからどうでもいい。
コーラが実はタレでしたーと言われてもうまさが変わるわけではないし、石原さとみが実はタレの塊でしたと言われても魅力が変わらないようにだ。
とり皮はひとつじゃない
とり皮を意識してしっかり食べ比べてみると、皮の厚み、食感、タレの味など店によって違うことがわかった。似ているけど違う。
とり皮は思ったよりも奥深い。
自由律俳句を詠むならこうだろうか。
「分け入っても 分け入っても 鳥の皮」
……風流のつもりがグロテスクになってしまった。でもとり皮道はそんな感じっす!
全部のとり皮をくっつけた画像を作ったらぐるなびの宴会予約のページみたいになった