「新編 谷根千 路地事典」とは
この本では谷根千地域の路地を20個選び、それぞれに名前をつけている。
路地のガイドのような本
本を読み始めると、そのまま自然と電車に乗り、現地に向かった。今はこの路地はどうなっているんだろう?ということが気になったからだ。
結論からいうと、約半分の路地については、もうほとんど路地とは言えないように状況になっていた。逆に言うと、半分の路地はまだちゃんと残っていた。
谷中4丁目「はっさい先生路地」
まずは、谷中4丁目の路地に向かった。命名は谷根千路地事典によるもの。
表通りから見ると入口がすごく狭い。ここほんと通れるの?という感じだ。
限界ぎりぎりの狭さ
ここを通り抜けると…
ばばーん
いい感じの路地が残っている。正面の建物は長屋といって、いわば江戸時代から続くアパートの形式だ。
もともとこういう長屋に面して付近の住民だけが使う道を路地という、とこの本では定義している。
ここを破風(はふ)といいます
この長屋の特徴は、立派な破風が各戸の玄関についていて、それぞれが一戸建て風に見えることだ。こういうのはさらに大正以降の長屋の形式だそうだ。
ぼくはこういう風景が好きなので、こういう路地が残っているのは嬉しい。ただ、街が変わるものだというのは分かるし、それは受け入れるしかない。次の路地はどうだろうか。
千駄木駅前 「園芸路地」
千駄木駅前の路地は、きれいになくなっていた。
現在はマンションになっている
本だとこんな感じの路地だった
こんなふうに、かつての路地がマンションになって消滅する、という例は20個中5つあった。
千駄木、文林中学校すぐ南の「八木村」路地も、マンションに。
ここはかつては八木さんという地主の持つ長屋が8棟あったそうだけど、いまでは大きな1つのマンションになっている。
それから、道としては残っているんだけど、両側がきれいに建て変わって路地としての面影が全然ないというパターン。
根津神社近くの、「カエルまた路地」
かつては両側が長屋だったけど、いまのこの雰囲気は「路地」とは言いにくい。こういうパターンも5つあった。合わせて計10個、半分の路地はもう路地ではなくなっていた。
でも残った路地もまた10個あったのだ。そして、残る路地にはそれなりの理由もあった。なぜ残ったのか?いくつか紹介したい。
谷中1丁目 お稲荷さんが守る「三角路地」
谷中一丁目の路地。ここはかなりいい雰囲気だ。
江戸時代から三角形だそうだ。
この細い道がいいのだ
立派なお稲荷さん
稲荷信仰は明治から昭和にかけて大変ひろまった。なので路地の奥には今でもこういうふうに稲荷神社が残っていることがある。
こういう路地はもう新しく出来ることはないし、さっき見たように建て替えなどでつぶされていく一方だ。そういうとき、祠があるとやっぱりつぶしにくいので結果として路地も残ることがある。
1ページめの「はっさい先生路地」にも実はいました
「お稲荷さんはまさに路地の守り神」(谷根千路地事典 p.125)ということなのだ。
池之端二丁目「御厩長屋(おうまながや)」には井戸が残る
言問通りからちょっと入ったこの路地は、井戸が2つ残る路地として、井戸好きにはちょっと知られている。
角をまがると、向こうに手押しポンプの井戸が見える。
いいよねえ
なんかもう、遠くに井戸が見えてるだけでいい雰囲気だ。この道を逆から見るとこう。
左側のブロック塀の形を見ると…
25年前と同じだ!
この路地にはもう1つ井戸があって、それも25年前とまったく同じように使われている。
ちょっと雪に埋もれてるけど
この共同井戸はみんなが大事にしていて、壊れると修理をしたりしているらしい。
嬉しいのは、最近さらに井戸が増えたことだ。
井戸のつきあたりのこのお家
新しく建った家は、場合によっては路地の雰囲気を変えてしまう。でも、この家は違う。
なかに井戸が!
家主の方が、家を建てるときに井戸も一緒に取りつけたのだ。
井戸端会議という言葉のとおり、井戸は路地のコミュニケーションの舞台になる。新築する家にわざわざ井戸をつくるということは、路地を守るという気持ちの現れなんだろうとぼくは思う。
半分残ってました
路地はこれからもどんどん消えて行くだろう。でもそれはしょうがない。狭い路地に木造家屋が密集してたら危険だしね。
でも残っているうちは、それをあるがままに愛でたいと思っています。
お知らせ
こんど出る「茨城のおきて」という本に茨城出身者として参加しました。
ライターは他に加藤まさゆきさん、T斎藤さん、北村ヂンさん。「カスミの魔力に魅入られた立派な茨城県民」など好き勝手書いてる加藤さんの文章が最高です。