ゆるキャラの基本は体に手足
今でこそ多種多様なキャラが登場してきているゆるキャラ業界だが、その基本形はアピールしたい物体に手足を生やしたものだと思う。
梅とミカンに手足を生やすことでキャラ化している例。
本体+手足、つまりはこのプロットさえ踏まえておけばディテールに多少問題があったところでゆるキャラとして見てもらえるのではないだろうか。
つまりはこういうことだと思うのだ。
木くん。
木のゆるキャラ「木くん」である。生えているのでここから動けないということや、背が高すぎて全体像がつかみきれないところなどを無視したらこれはこれで立派なゆるキャラに見えないだろうか。
見えない、という人は飛ばして読み進めてくれていいです。
でもその前に少し視点を変えて見てほしい。
木くん、けっこう必死。
撮影3日目にライター地主くんが手伝ってくれたのでずいぶん楽になったが、初日と二日目は三脚をセットして一人で撮っていた。シャッター押したらダッシュで中の人である。全然ゆるくない。
というわけでやりたいことが伝わった前提で進めます。
配電盤くん。
この方法を使うと町にあるものがいちいちゆるキャラに見えてくる。
電話ちゃん。
無機質だった街角の風景に命が吹き込まれた瞬間でもある。世の中にはまだまだ楽しいことがたくさんある。
顔になる部分を探そう
ここからはゆるキャラ化に向く物むかない物について、気づいたことをお話ししたい。
最初のポイントは顔である。ちょうどいい場所に顔になるものがあるとキャラとしてしっくりくると思う。たとえばこの電柱。
通学路くん。
ただの電柱だと前述した木くんのようにとりとめのない感じになっていただろう。しかし調度いい高さのところに通学路の看板がついていたことで、ゆるキャラに役割ができた。通学路くんである。
次も顔があるパターン。
街灯さん。
電灯部分が見事に顔に見える。高さはむりやり合わせているが、それによって天地方向に縮んでかわいくなった。
試しに手足のないバージョンも見てみよう。
街灯。
まったくもって街灯である。手足がついただけで電灯部分が顔になるなんて誰が思ったか。
しかしせっかく顔になる部分があっても体と位置が合わないとキャラ化されないパターンもある。
胸像ちゃん。
手足が明らかに低い場所から生えている。これはいけない。
こういう場合は飛んでみるのもいい。
胸像ちゃん、ハッピーバージョン。
おかげで元気いっぱいのゆるキャラになった。胸像の博士には申し訳ないが、現代のバカが一人楽しく生きているんだな、と寛大な心でやりすごしていただきたい。
手足はテンション高く
次に手足について。
言うまでもなくゆるキャラは対象物をアピールすることを使命としている。というわけで効果的にアピールするためには、やはりハイテンションで迫りたいところだ。
手足だけでハイテンションを表現するとはどういうことか。
これではただ隠れている人である。
やる気の見られないぶらんとした手足。これではせっかくのコンクリート柱もゆるキャラに見えない。
やる気を入れるとこうなる。
いえーい。
これだけで柱が柱くんに変わる。
メッセージ性の高い対象物にはそれなりのアクションをいれてもいい。
スケボーしちゃだめだぞ。
手足だけでこれだけ表情が出せるのだ。いつか本物のゆるキャラに入ることがあるならば所作にも細心の注意を払うべきだと思った。子どもは意外とこういうところを見てる。
わーい。
配電盤くん、別バージョン。
ゆるキャラは子どもの目にしか見えないのかもしれない。
大きすぎてもだめ、小さすぎてもだめ
最後に対象物の大きさである。これはやはり手足の大きさが決まっている以上、あまり大きすぎても小さすぎても具合が悪い。
ぬりかべのようだが。
引いて見ると鳥居である。東照宮さんだ。
鳥居くらい大きいともはやゆるキャラどうこう言ってられない。引きで見た時に小さく手足が生えていても、せいぜい心霊写真である。かわいくないもの。
大きさでいうと腕ならばひじから先、足はひざから先が出るくらいが必要条件といえる。
配電盤くんサードシーズン。
最初の頃のキン肉マンに出てくる超人がだいたいこんな感じだったように思う。
灯篭ちゃん。これを撮っている時、観光に来ていた外国人にもカメラを向けられた。ゆるキャラは言葉の壁を超える。
逆に小さすぎても体が入りきらないから注意だ。顔が隠れるのは必須だが、せめて肩幅以上は欲しいところである。
抹茶ソフトさん。
スタバのゴミ箱くん。
対象物が小さすぎると体がはみ出しすぎてかわいくない。背景に余裕があるのならば、人だけ下がって遠近法を利用してもいいのかもしれないが、そうなってくるとますます一人で撮るのが難しい。
以上、簡単にゆるキャラになる方法でした。
ゆるくいきたい
この方法ならばたいていのものをゆるキャラ化することができると思う。今後のみなさんのがんばりに期待である。