思い出しアーとは
思い出しアー。もちろんそんな言葉はなく、筆者がかってにそう呼んでいるだけである。
知人の精神科医に用語があるのかきいてみたところ「フラッシュバック(突然トラウマ体験がよみがえること)が近いけど、思い出しアーでいい」とのことだった。
なぜ思い出しアーと名付ける必要があったか。実はアーが年々ふえていって生活の一部として根づいてしまったのだ。
保育園の朝の送り時に思い出しアーをして子供がふしぎがる #思い出しアーあるある
年を経るにつれふえていくアー
学生のころ読んだ中島らもの文章で、ゴミくずみたいな日々でも「まんざらでもない」瞬間を額に入れて眺めたりすれば生きていけるとあって感動した。
だが大人になってきづいた。額に入れたい瞬間もふえるが、すててしまいたい思い出もふえっぱなしなのだ。
無意識の海にコンクリつめて沈めたはずのあの思い出が、なにかの拍子にザバっと浮かびあがる。それを見た瞬間に「ああー!」である。
この思い出をもっとうまく処理する必要がある。山頂の最高のアーで、スカッと消えてなくなるのではないだろうか。
最高のアーのために前夜お酒は多めに
最近でかいアーがきたというライターの藤原
明日へのアーのために一杯やる
思い出しアーは二日酔いの朝によくみられる。アルコールの薬理作用か、前夜の一杯が明日へのアーとなるのだ。
そこで山頂アーの前日お酒を飲むことにした。居酒屋に同じくデイリーポータルZのライターの藤原をよびだした。
アー登山はこの藤原と二人で行く。一人だとメンタル面で挫折しそうだし、この藤原も最近大きなアーな出来事(※)があったようだ。
※本物の要潤に「バカにしてるだろ」とかるく怒られた記事はこちら↓
[参考]タイムスクープハンターにかっこよさを学ぶ
お互いのアーしやすい思い出を書き出し、思い出しアー・セットリストを作成する。やってることはほぼカウンセリングである
思い出セットリストを作る
酔いにまかせてお互いのアーしてしまう思い出を告白しあう。ミュージシャンがライブで演奏する曲順のように、明日山でアーしていく思い出セットリストを作るのだ。
大告白のように語りだす本人に対して、出てくる思い出はとるに足らないことばかり。
「結婚式のスピーチで『今度あるときは』といってしまった」そんな別にいいじゃないかと思うことでも本人にとってはどストライクアーなのだ。
今この件を記事に書いたことで今晩の藤原のアーは必至である。いや、本当にどうでもいい!
しこたま飲む。帰って倒れこむように寝たら早朝出発だ
翌朝7時の電車で
十二時近くまで飲んで、家にかえってからも飲んで塩田の塩水くらい酒を高めた体でふとんに倒れこむ。
午前7時むくれあがった顔のままふたたび電車に乗る。まだ酔っている。あと2時間もすればアーしごろだろう。
早朝、前夜のアルコールが残ったまま電車に
アー写(思い出しアー記念撮影)
翌朝7時の電車で
高尾山の人気はすごい。朝7時台の電車も登山客であふれ、山にむかうともう下山者がいる。これが山ブームか、なんて前向きな空気だ。
どいつもこいつも健脚ばかり。二日酔いのもの、ましてや過去を思い出して声をもらしてるものなど一人もいなさそうだ。
さわやかなケーブルカーに乗り込んでうしろめたいアーに向かう
山のさわやかさの中で
早朝の登山の暴力的なまでのさわやかさよ。
まずケーブルカーを降りた瞬間に空気がかわる。涼しいうえに澄んでいる。そのうえむこうから来る人が「こんにちは」である。こんなにもアーをためこんだ人間にかけることばなのかそれは。
ああ、大きな十字架を背負って一歩一歩丘を踏み上るキリストにも登山者は「こんにちは」と声をかけたのだろうか。
ちなみに今の「ああ」は思い出しアーでない。
もれる……山頂をまたずして思い出しアーがもれる
運動中のアーはむずかしい
急斜面がつづくと息がきれ、意識が体の方に集中し思考がはたらかない。アーが出てこないのだ。
このさわやかさ、そして運動。登山それ自体は思い出しアーにはむいてないのではないか。
もっとカラオケボックスのようなところでアーすべきだったか。思い出しアーボックス。ジャンボ思い出しアー広場、ジャンアー。ジャンアー渋谷店30分190円、昼。
いや教会でいうところの懺悔室かそれ。
「あ、うん」の「あ」の方の仁王さまにお参りをする
山頂。あっけないが達成感はある
こんなよこしまな登山でも達成感がある
高尾山の頂上はあっけない。道もひろく車が入ってくるのだ。だがあっけないうえにこんな悪の登山でも達成感があった。
午前9時。目の前には展望台からの眺望が。暑い日だったが、山の上はすずしい。ヤッホーと叫んだら気持ちがいいだろう。
しかしここは心を鬼にして叫ぼう。アー! ああはずかしいはずかしいアアー!
遠くには富士山が。ヤッホーか……いや、いくぞ、ああー!
ああ~……あれ?
アーのセットリストをみる
展望台につくとがまんしていたアーが一気に……とはいかず、あれ、雄大な景色を前に止まってしまった。景色の雄大さを前にちっぽけな思い出がちぢこまってしまってるのか。
こんなときのための思い出しアー・セットリストだ。吐くためにのどに指をつっこむような行為である。
あんまり爽快感がない
これが最高のアーなのか
セットリストを見て思い出す。
ああ~そういえば世界の北野監督に(このインタビュアー大丈夫か?)って思われた(※)な。あ、あ、あ~! 隣では藤原が「あ~……死にたい死にたい」ぶっそうなことをいって周囲の登山客を困惑させている。
……しかしなにかがおかしい。声が飛ばずに満足感がない。
雄大な景色なのに目の前に透明なガラスがあるように感じるのだ。なんだこれは。景色とアーが反発しあっている。
※先ほどの要潤と同様に、本物の北野武が出てきた記事はこちら。芸能人と会った思い出は大体アー化する。
[参考]大物監督にコケる芸を学ぶ
ひらけた展望なのに壁があるように感じる……これはなんだ?
自然とアーが反発しあうというか……いや、何をやっているんだこれは
下山。下りは体も楽で地面を見ながらだとアーも出やすい
視点の問題か
しばらく山頂でアーを試みたあと山を下りる。先ほどの大自然とうってかわり地面を見ながら歩くといくらでもアーが出る。
「視点の問題ですかね」と藤原がいう。
山の景色とちがって、部屋にしろ地面にしろ近い視点は自意識の延長だ。アーは他人がいない世界でだけ出るのではないか。
となれば座禅や瞑想でアーに集中することが最高のアーなのだろうか。
「あ~、恥ずかしい恥ずかしい……」
座禅してる人がそんなこといってたら和尚さんの板で袋叩きにあいそうではあるが。
歩きながら思い出しアーを連発。うしろむきハイキング、始まる。
後ろ向きハイキング
アー。アー。発散されなかったアーを連発しながら山を下りる。
アーは心のあくびみたいなものじゃないか。藤原がいう。私たちの心はどうも酸素がたりてないようだ。
しかしなんて後ろ向きなハイキングだろう。
むこうからやってくる「こんにちは」に対し、「あ~、あ~、あ~、すいませんすいませんすいません……」とブツブツやって下山するのだ。
山頂でいったいなにがあったのだろうと思われたろう。天狗のしわざか、いや、その実態は思い出しアーである。
吊り橋からのアー。渓谷になってて音の反響は心地よいが……
自然とアーの相容れなさ
吊り橋から再びアー。渓谷の反響がきもちいい。しかし自然とアーはいまだ折り合いがつかない。
たとえば吊り橋の下には倒れて何年も経った大木があり、苔がむして草も生い茂っている。だれが考えたのだろうと思うほど細かい造形をしていて、それでいて全体は一枚の絵のようだ。
小さな命と大きな世界。そう、世界。世界といえば世界の北野監督である……あ、あ、ああ~!
こういうことにはならないだろう。自然とアーはまったくの別物だと思える。
森の中のアー
アーのあとにすぐ癒しがくるサウナ方式
自然とアーの調和はサウナ方式だ
ところが自然とアーが調和するケースがあった。
ベンチに座ってアーを出し、見上げると大自然。火照った体を水風呂でさますサウナのような感覚できもちいい。
あの日の知ったかぶりも、いってはいけなかった三文字も、木の牧師さんに許してもらうような大自然の懺悔室だ。
「思い出して、はずかしかったら、ああ……っていっていいんだよ みつを」
ああ、みつを先生……山でアーを繰り返すうち、だんだん自然のよさがわかってきた。家にかえったら木をうえよう。そしていつか大きな森にして『おいでよ!思い出しアーの森』というゲームにしよう。
誰もいない見晴らしの良いところで最後に大声を出してみた
大きな声を出すと気持ちがよい。これがリア充ってやつじゃないのか
これが最高の思い出しアーか!
展望もよく人もいない場所があったので、ここが最後とばかりに大声のアーを出してみた。出た。大きな声が出た。
山あいの反響がきもちいい。周囲に人がいないのも大きい。どんどん大きな声が出る。"リア充"ってこのことじゃないのか。
海へ山へみんな行ってたのはこういうことだったのか。これがスノボか。これがスキューバか。みんなアーしてたのか。
いや、まてよ。これはアーの効果なのか。山が気持ちいいだけなんじゃないだろうか……
たとえば下着泥棒が「やっぱり海にしずむ夕日見ながらの下着鑑賞はたまらないな~」というだろうか。
これがアーのせいか山のおかげかわからないが、とにかくケーブルカーを降りた私たち二人の顔は晴れやかだった。
登山したものにもアーしたものにもケーブルカーは平等にある
この達成感、アーのせいか登山のせいか……
登山かもしんないな
そして人生はつづく
これから秋がきて夏のうかれを思い出す。
秋は一年でもっとも思い出しアーしやすい季節だ。たとえばTUBEの『あー夏休み』あれももちろん思い出しアーである。
きっとあなたの今年の秋は去年よりアーが多いことだろう。アーは年々増えていくのだから仕方ない。どううまく付き合っていくかを考えるしかない。
山頂でアーの試みは大きな成功とはいえなかったかもしれない。しかしこの反省をふまえ、人もいなくて内省的になれる洞穴やトンネルでやってみてもいいだろう。
穴掘ってアー、穴に自分も入っての即身仏アー、民間初の宇宙旅行アーもいい。アーの未来は今開かれたばかりだ。
アーとどうやって付き合っていくか。考えているあいだにもアーは増える。この原稿も明日にはまたアーしたくなっていることだろう。
そして恥ずかしい人生はつづく。
アーをしらないこどもたち。先生をお母さんと呼んだ瞬間に大人の階段がやってくるのだよ。