ここにキャベツがある
見た目で味わうキャベツ
さて、ここにキャベツがある。これを見て楽しめるようになりたいのだが、じっと見てみても、やはりまだ「見られるもの」になりきれてない、ただのキャベツだ。
どうしたら鑑賞にたえるキャベツになるだろうか。とりあえず手探りのまま、こうしてみた。
台座に乗せてみた
園芸で鉢を乗せたりするだろう台座が、ちょうどキャベツを乗せるのにちょうど良い感じだったのだ。
しかし、ちょっと高級そうに見えるようになったけども、「見るだけで十分」と思えるほどにはなっていない。一応、他のものにも乗せてみたが、それほど変わりはない。
ちょうどいい輪っかもあった
しかし写真で見ると、なんだか誇らしげなキャベツのようにも見える
キャベツの瞬間を切り取る
キャベツをそのまま見るのは、一言で言うと「なんか違った」。そもそもキャベツは観賞用にしても、生物であるゆえ、いつか腐ってしまう。そう、キャベツに永遠は無いのだ。
そこで、こうしてみよう。
思い出の写真をプリント
今まで撮ったキャベツの写真(なぜかある)の中でも、これはいいなと思うものを、プリントしてきた。
さらに気分を出すために、それをコルクボードに貼ってみる。
キャベツのストーカー
コレはコレでいいのかもしれないが、なんというか、味わいが足りない。キャベツが好きな人なら喜ぶかも程度だ。
じゃあ絵手紙風だ
キャベツの味わいを誰にでも一目でわかるようにするには、どうしたらいいだろう。
そして、絵手紙風にしたらどうかという結論に至った。(最初からやれと思われるかもしれないが、上のコルクボードの写真、自慢したかったのだ。いいだろう。)
顔彩という絵手紙で使う絵の具と、筆と紙を買ってきた。さっそくやってみよう。
こういう道具を揃えて
あっさり描けた。キャベツが「キャベツだよ」と言っている様子だ。空っぽの論理が充満している。
色も変だし、筆の扱いに慣れておらず線が太くてヘタだ。でもヘタでいいのが絵手紙らしい。こういうのを「味がある」と言うのだろうか。ほっこりしている。
あっさり描けた
長すぎた
明らかに掛軸が長すぎた。下の方を巻いて糊で接着すればいいのだろうか。やり方がわからないので次頁からはフォトショップで短くしよう。
さて、全体としては味があっていいではないか。素晴らしい。
これがキャベツを見て楽しむ方法のひとつの答えだ。絵手紙風のキャベツの絵をもうすこしやってみたい。
ここでお知らせ。さっき書いた紙、台紙でした。
キャベツを、もっと
先程キャベツを描いた紙が、商品の台紙だったことが分かったりしつつ、次のキャベツを描いてみたい。
キャベツは弱った胃にもやさしい。
最初に描いたときより、筆先を意識しながらじっくりと描いてみた。
書き添えた言葉は「胃にやさしい」。
キャベツの胃に対する優しさにはいつも頭が下がる。今後ともキャベツには人々の胃を健康にしてほしい。
胃の健康といえば、今月7日で
僕がクビになってから1年経つのだが、こうして今キャベツの絵を描いて「ほほう」と唸っていると、優雅なものだと思う。胃もつやつやだ。
いろいろなキャベツを思い描いて
キャベツにもいろいろな性格がある
キャベツにもいろいろな性格があるのではないか、という想像を絵にしてみた。明るい性格のキャベツも、暗い性格のキャベツも、きっとあるはず。
暗い性格といえば、先日僕がクビになる直前のメモを見返したところ「有限者たる我々にとって、所詮この世は虚しい」というような内容がメモ帳3ページくらいに渡って暗い感じで書かれていた。思想家か。
キャベツにも家族がいるだろう
キャベツたちに言葉は要らない
キャベツにも仲間がいるのではないか、と想像していくつか描いてみた。もしかしたら、彼らは家族かもしれない。
家族といえば、大学生のときに好きだった女性がとっくに結婚していて、しかも母親になっていることを知った。なんだか東京にもいないようだ。
何も思わないわけではないが、何を思えばいいのかわからない。
やぶれたキャベツ
自分が、時間の流れから取り残されている気がしてきた。秒速でものすごく取り残されている男だ。キャベツの絵なんて描いている場合じゃない。
完全な人生があるとして、一体どれくらい遅れをとっているのだろうか。
胃が痛くなってきた。キャベツ食べよう…。
不完全な人生は続く、キャベツとともに
夜中にキャベツの絵を描いていたら、思い悩んできてしまった。よくないことだ。
キャベツが1枚1枚葉を重ねて大きくなるように、僕も経験を積み重ねることで一歩一歩進んで行くことを目標にしよう。キャベツを見習おう。
有限者たる我々は完璧な人生を手に入れることはできず、逆にその不完全さの中に自己の有り様を見出し、またそれを愛する他ないのだから。思想家か。