予兆
その日は朝起きると雨が降っていた。 冬にしては珍しい感じの雨の降り方だった。今考えると、あのときの雨が何かいろいろなことを象徴していたのかもしれない。
僕はいつも朝7時39 分の電車に乗っていたのだが、その日は電車が遅れたらしく(そもそも僕が家を出るのが遅れていた気もする。あいまいだ)10分くらい後の電車に乗った。
しかし途中、乗換駅で電光板を見ると、遅れて到着したのだから乗れるはずのない電車の時刻が表示されていた。「あれ、おかしいな」と思ったが、そのまま乗ってみるとむしろいつもより早い時刻に会社についてしまった。なんなんだ。説明しづらい地味な混乱だ。
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どこかに思い違いがあるのだろうが、そのとき僕は時空がねじれたみたいな奇妙な感覚に震えていた。この混乱もクビになる予兆だったのかもしれない。
そう考えるとクビになる前日に、以前インドに行ったときの写真を急に見返したくなったのも予兆だ。夜、いつにもないくらいスヤスヤ眠れたのも予兆。全部予兆だったのではないか。
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朝のミーティング
早く着いてもアレなので、会社から遠い方の改札からグルッと回って行くことにした。すると、だいたいいつも通りの時間に到着。目論見通りだ。
ここからいつも通りの一日が始まるのかなと思っていると、朝のみんなが集まるミーティングの時間に「今日は藤原くんはこっちじゃなくて、受付を見張っていて」と言われた。ちなみに、かつてそんなことを言われたことは一度もない。何か変だ。
ここまで来ると予兆ではなく前段階だ。言われたとおりに受付のイスに座っていると、みんながパチパチと拍手するのが一回聞こえた。何の拍手なのかは知らないが、嫌な感じはした。
生野菜にミソを付けて食べるとおいしいですよね、という提案
僕が立ったり座ったりコピー機を見張ったりなどしていると、ミーティングが終わった。みんなが自分の席に戻ってくる。
近くの席の人にミーティングの様子を聞くと、僕より2ヶ月先に入ったほぼ同期の人が前日に会社を辞めたのだそうだ。そういえば、いない。
会社で働くことの難しさを感じていた僕は「ああ、あの人辞めちゃったんだ……」というショックを少々受ける。
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少々、というかかなりショックだったみたいで、その時の気持ちはミーティング後の手隙の時間に少しメモしたが、このあと自分がクビになるとも知らずにそんなことしているのはバカみたいで非常に恥ずかしく、公開することはとてもできない。自分で見返すこともしていない。いつの日か見てみたいという気持ちがあり、捨てるのは惜しいので、メモ帳ごと土に埋めておこうか。
宣告
そして来たる午前11時少し前、上司二人が接近してくるのに気がつく。不穏な空気が漂う中「藤原くん、ちょっと」と僕を呼んだ。二人に導かれて会議スペースの席に着く。あ、これって断頭台に立たされている状態だな、と思う。
3人の孫の中から一人狙っておじいちゃん子にして…
年配の方の上司が口を開くと、以下のことを僕に告げた。
「3ヶ月のトライアル雇用ということだったんだけど、まあ、2ヶ月…、これまでの君の働きを見てきて、継続して雇うのは難しいという結論になりました。社会人に最低限必要なものとしてあいさつとコミュニケーションがあると思います。それらが君には足りない…」
要するにクビだ。理由を聞くと、そうだなあと首肯せざるを得ない。はい…はい…と言うしかなかった。
朝のミーティングのときにみんなにそういう話がされていたのだろうと想像すると、そうとも知らずに過ごしていた過去1時間の自分がすごく恥ずかしい。
90年代に活躍したテニス選手の名前がサンプラス
「看板作りとかは頑張ってくれたけど、優先順位として看板よりも大切な仕事があったでしょう」とも言われる。そういえばアクリル板にカッティングシートを貼って会社の看板を作る仕事は、かなり張り切ってやっていた。確かにそれは要求されている事務じゃない。
「今月分の給料のことは気にしないで大丈夫だから、気まずいだろうし今から帰ってくださって結構ですよ。明日から転職活動を頑張ってください」
即時解雇ではないことをアピールされるのを半分聞きながら、言われるままに荷物と上着を急いでまとめて会社を出た。そのときは何よりここにいては恥ずかしいという気持ちが大きかった。しばらくの間は、この時のことを思い出してのた打ち回るはずだ。そしてやっぱり立ち去るときのあいさつはうまく出来なかった。
冒頭でも言いましたが、いまの僕のことです
ぐちゃぐちゃに掴んだコートを着ながら会社を出ると、雨はすでに止んでいた。むしろ何だか気持よく晴れていたがピクニックに行く気分でもないので、家へ向かう。
家に向かうと言っても単なる移動ではなく、ある意味、ゲゼルシャフト(社会)からゲマインシャフト(血縁共同体)への移行だ。教科書に書いてあるヤツの逆方向だろう、これ。いやはや何といっても地面を歩いているのに海面をプカプカ漂流しているようで、悪い意味で夢みたいだった。
カナプラスの方が何故か難易度が高いと話題に
インターネットでクビの報告
現実感があるようでない少しある状態から目を背けることができればと、友達数人にメールを送ってみた。とにかく報告したかっただけなので、文面はシンプルな感じの「会社クビなう」にした。これ以上いい「なう」の使い所があるだろうか。
そのときのメールがこちら
しかし時計を見ればまだ11過ぎ。ふつうケータイをいじるような時間じゃないだろうと、返事は期待していなかったが、嬉しいことにすぐに反応があった。そこには一言「すげえ」と書かれていた。
大学6年生の友人(彼はたぶん勉強が好きすぎたのだと思う)からだった。一般的な会社員には不可能な即レスだ。漂流者は一人ではないことを力強い証明のようである。他の友人からも昼休みごろメールが来た。ありがたい話だ。
ヒロインが全員佐賀県出身
さらにクビのショックは友達へのメールと同時に、僕をFacebookにも何か書きこむよう突き動かした。僕は半ば無意識的に「クビになった~」という報告をFacebookに投稿した。「いいね!」がたくさんついた。
これにも励まされた。知人が会社をクビになるというホットな出来事に、Facebookユーザーたちもワクワクが止まらなかったのだろう。明日は我が身だということを忘れないで欲しい。
躊躇しつつ帰宅
そして僕は埼玉の自宅へ帰る電車の中にいた。(一度池袋駅で電車から降りてみたものの、ドアが閉まる直前にやっぱり乗った。)そこで新たな一つ問題が浮き上がった。些細なことではあったが、経験がないことなのでどうしたらいいのかわからないこともある。
「今から家に帰ると家にいるお母さんと会う羽目になるのは目に見えてるけど、最寄り駅に着いた時点で電話しておくべきか?いきなり帰るべきか?」
友人にも問いかけてみたが、返事を聞く前に最寄り駅に着いてしまった。やっぱりワンクッション必要かと考え、家に電話をかけてみたのだが母親は電話に出ない。結局、いきなり家に帰らなければならなくなった。考えるだけ無駄だった。
無駄でした…
電話作戦が失敗したものの、いきなり行く気まずさから一旦は逃れたい。ちょうどお昼時だし、どこかでお昼ご飯を食べてから帰ろうか。でも食欲もないし、お金もむやみに使える身分ではなくなるのだ、と思うと店に入るのもためらわれる。今の俺はきっと何をやってもだめなのだ。まっすぐ家に帰ることにした。
駅から家までの徒歩の道は1km程度で時間にすれば10分程度なのだが、長く長く感じた。それはありきたりの表現でしかないが、実際に「あっ、ありきたりな表現でしか言い表せない状態になってる!」と思った。家が遠い。空気も薄い。母に合わせる顔がない。
これがゲームだったらよかったんですけどね
家に着くと母はソファの上で寝ていた。いよいよ僕から母へのクビの報告である。
寝ている母を小突いて起こすと、母は「悪い夢見たわ。で、何で帰ってきてるの?」と訪ねてくる。「クビになったから」と答えると、「ハァ、ちょっと冗談はやめてよぉ」と、この厳然たる事実を夢や冗談扱いする。僕は「いや、クビになったから」と再び言ってみる。
「だから冗談はやめてって」「クビになったから」「冗談よしてよ」「クビになった」「そんな事ってあるの?!」三度ほど繰り返してみたら、ようやく話が通じた。
何度もクビになったと言わなくちゃいけないのは辛かったです
だいたいの状況を説明その場に居づらかったので自分の部屋に戻りベッドに飛び込む。電気毛布のスイッチが入りっぱなしだったことに気がつく。
布団を温める仕事さえ機械に奪われるようであった。悔しい、でも温かくて気持ちいい。ここでようやくちょっとだけ泣いた。
もう何も考えたくなかったのでお昼だったけれども寝た。前日十分な睡眠を得ていたけども、幸いにして眠りに落ちることができた。
夜は飲もうと決めました
夕方に目が覚めた。なにか使命感のようなものに目覚めている自分に気がつく。
そうだ、くよくよしている場合じゃない。僕にはやらなくちゃいけないことがある。記念写真だ。
本当なら会社のビルの前でやるべきだったが、もう家の前でもいいだろう。今日来ていたスーツをもう一度引っ張り出して着替え、三脚を立てて記念写真を撮った。
どう見ても奇行だった。なんかもうだめだと思った。
今後とも宜しくお願いします
こういう形で僕はクビになった。以上がその記録である。落ち込んでいるので見かけたら励まして欲しい。
「退職しました!」という話なら会社への思いを書くべきだろうが、クビなのでそういうことはあまり書かない。そもそも2ヶ月しか働いてないので書けない。
今後どうなるかわからないが、どうにかちゃんと働きたいものである。なんとかならないだろうか。看板は作れます。よろしくお願いします。などと書きつつ筆を置きたい。