特集 2012年3月29日

この春行きたい!東京の滅亡城跡めぐり

兵どもが夢の跡
兵どもが夢の跡
待ちに待った春が到来!

この4月から、大きな希望で胸をいっぱいに膨らませ、あこがれの東京で新生活を始める人も多いことだろう。

そんな皆さんに贈りたい。かつてこの地で覇を競い、繁栄を願いながら志半ばに散って行った多くの人々の夢の跡を。
1974年東京生まれ。最近、史上初と思う「ダムライター」を名乗りはじめましたが特になにも変化はありません。著書に写真集「ダム」「車両基地」など。
(動画インタビュー)

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東京で城と言えば

日本に封建制度ができて以来、各地に数多の城が造られ、戦いが起こり、敗れた城は消えていった。

戦国時代末期、その城ヒエラルキーの頂点に立ったのが徳川家康の江戸城であり、やがて国家の中心地としての東京の歴史が始まる。だから、東京で城と言えば江戸城、つまり現在の皇居を思い浮かべる人が多いと思う。
東京の城と言えば何と言っても江戸城 写真はこの記事より(撮影:T斎藤さん)
東京の城と言えば何と言っても江戸城
写真はこの記事より(撮影:T斎藤さん)
しかし、家康が江戸に来る前から、この地にも大小さまざまな勢力があって、それぞれが覇権を争っていた。

そのほとんどは徳川幕府が開かれる前に滅亡したり支配下に置かれたりしているので、400年以上経った現在ではもちろん当時の建物などなく、もはや記録でしか知ることができない。だけど、実際に城があったとされる場所に行ってみると、やっぱり何となく、そこでがんばっていた人たちの痕跡が見えるのだ。

練馬城趾

たとえば23区の北西部の練馬区にある、としまえん遊園地。ここは平安時代から室町時代にかけて、このあたりで勢力を誇った豊島氏の居城のひとつ、練馬城があった場所だ。

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城跡が遊園地になったとしまえん
今も昔も地域のランドマークではある
今も昔も地域のランドマークではある
現在は練馬区になっている豊島園が、もともと豊島氏の練馬城だった、というややこしいめぐり合わせだけど、豊島氏は現在の練馬区、板橋区、豊島区、北区のあたり、それと埼玉県の一部を支配していたらしい。その勢力範囲、今の時代でいえば国際興業バスである。

僕が生まれ育ったのは豊島園のすぐ近くなので、小さい頃からここが城跡だというのは聞いていた。でも、園内にはそんな雰囲気はまったくない。

辛うじて面影を残していると言われているのは、入口のすぐ先、いまは花壇になっているあたりからの地面の盛り上がり。その奥が、城が建っていた場所らしい。
入口近くのちょっとした盛り上がり
入口近くのちょっとした盛り上がり
城跡には500年の時を経て現在は「水の城」が建つ
城跡には500年の時を経て現在は「水の城」が建つ
言われなければ気づかない程度の小さな盛り上がり。かつて、この場所に練馬城があったのだという。現在はプールエリアで、「ハイドロポリス」という名の巨大なウォータースライダーがそびえ立っている。そうか、このネーミングは城跡であることを意識してつけられたのかも知れない。

園内には石神井川が流れていて、これが城時代には北側の堀の役目を担っていたらしい。

それ以上園内には痕跡がなかった。でも、近くの住宅地の中に当時の面影を残す地形がある。
真ん中が大きく窪んでいる通称「どんぶり坂」
真ん中が大きく窪んでいる通称「どんぶり坂」
としまえんの敷地のすぐ外の住宅地の中には、真ん中が大きく窪んだ坂道がいくつかある。写真の場所は豊島園駅のすぐ脇で、地元では通称「どんぶり坂」と言われている。
その先にも似たような窪みが
その先にも似たような窪みが
これらが、練馬城の堀の跡らしい。両側ともに切り立ったキツい坂で、練馬城に攻め込んだ人が味わったであろう堀を超える苦労を、いまでも毎日味わっている人がいるのだ。ちなみに、地元の子供たちの間ではこの坂を自転車で上り切れて一人前とされている。

こうして改めて見ると、この場所には一帯を治めていた城があり、その痕跡が500年経ったいまでもほんのり感じられることに気づく。

では練馬城はいつまであったのか、そこにいた豊島氏はどうなったのか。話は豊島氏の本拠地であった石神井(しゃくじい)城に続く。

石神井城趾

西武池袋線に乗って西へ向かい、石神井公園駅で降りる。ここが、石神井城趾の最寄り駅だ。跡地は現在、その名も石神井公園として整備され、人々の憩いの場になっている。

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練馬区を代表する憩いの公園
そう言えば、豊島氏は現在の埼玉県秩父市に勢力を張っていた一族から派生しているらしい。つまり、練馬と石神井を通って秩父に通じている西武池袋線は、豊島氏の怨念が開通させたものと言っても過言ではないだろう。
池袋を出た急行が最初に停まる駅
池袋を出た急行が最初に停まる駅
現在の見どころはアクロバティックなバスのすれ違い
現在の見どころはアクロバティックなバスのすれ違い
駅から歩いて10分ほどで、石神井城趾の石神井公園に着く。豊島氏の城は、公園の大部分を占める三宝寺池のほとりに建っていたらしい。
練馬区内の小学生は必ず写生会に来る三宝寺池
練馬区内の小学生は必ず写生会に来る三宝寺池
城の跡は池の南側、ちょうど上の写真で対岸のこんもりしたあたりらしい。

現在は深い森となった場所に、堀や土塁らしい地形が残っている。
正面の盛り上がりの上に城が建っていた
正面の盛り上がりの上に城が建っていた
この窪みは堀の跡らしい
この窪みは堀の跡らしい
公園の外周路にも、堀の跡らしき窪んだ部分があった。発掘調査によれば、かなり深い堀を持った強固な城だったようだ。さすが北西東京の支配者。
窪んだ道を見るとすべて堀跡だと思えてきた
窪んだ道を見るとすべて堀跡だと思えてきた
そこには完全に雰囲気に乗っかった立派な門の民家が
そこには完全に雰囲気に乗っかった立派な門の民家が
関係ないけどフェンス脇に積もった枯れ葉が地層になっていた
関係ないけどフェンス脇に積もった枯れ葉が地層になっていた
しかし、栄華を誇った豊島氏も、江戸城を築いた太田道灌と雌雄を決する戦いで敗北し、包囲された石神井城は陥落。ほどなく滅亡した。練馬城については記録が残っていないらしいけど、恐らく石神井城と一緒に落城したと考えられている。

もしこのとき豊島氏が勝っていたら、たとえば新幹線の起点が練馬だったり、いまの千代田区と練馬区のあらゆる立場が逆転していたのではないか。そう考えると地元民としては痛恨の極みだけど、そのあたりが「練馬のお殿様」っぽいな、という気もしてくる。

ちなみに石神井城が陥落したとき、当主だった豊島泰経と娘の照姫が城の建つ崖の上から三宝寺池に身投げした、という伝説が残っていて、公園の一角には二人を偲んだ殿塚と姫塚があるという。姫塚は大きな木の根元に祠があって、すぐ見つけることができた。
ロマンチックなたたずまいの姫塚
ロマンチックなたたずまいの姫塚
じゃあ殿塚は?と思ったら、多くの人が散歩をしている公園の中でひときわ人気が少ない公園のはずれに、しかも外側に向いた小さな塚があった。
ひょっとして、あれが...!
ひょっとして、あれが...!
負けるということは、こういうことなのだ
負けるということは、こういうことなのだ
なんだか後世の者が気の毒に思ってしまうほどの扱い。やはり世の中、過程より結果が全てなのだと痛感させられる。
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世田谷城趾

次にやってきたのは世田谷区。小田急線の豪徳寺駅から歩いて数分のところに、都内ではかなりしっかりと城郭の跡が残っている世田谷城趾がある。

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城跡を囲むように東急世田谷線のトラムが走っている
周辺はハイソ世田谷というよりディープ世田谷
周辺はハイソ世田谷というよりディープ世田谷
殿!猫に負けてますぞ!
殿!猫に負けてますぞ!
やっぱり城跡にちなんでいるのか
やっぱり城跡にちなんでいるのか
駅から細い商店街を歩いていくとやがて住宅地になり、その一角に「世田谷城址公園」の看板があった。公園内はダイナミックに起伏が富んでいて、城郭の跡、堀の跡が一目見て分かる。
交差点の脇の小山が世田谷城趾
交差点の脇の小山が世田谷城趾
目の前の道はその名も城山通り
目の前の道はその名も城山通り
公園内は歩道やベンチなどが整備され、城郭跡の高台(と言っても数メートルだけど)にも堀の跡にも入ることができる。石垣もあるけど、これはおそらく現代になってから造られたものじゃないかと思う。起伏があるだけだけど、建物の配置や堀の深さなどをイメージしながら歩き回ったり、城主になったつもりで上から見下ろしてみたりするだけで、正直、楽しい。
敵がどう攻めてきて、手勢をどう配置して...
敵がどう攻めてきて、手勢をどう配置して...
城郭の跡は平坦になっている
城郭の跡は平坦になっている
よしよし今日も下界は平和じゃな
よしよし今日も下界は平和じゃな
堀の底に降りられる城跡はそうないんじゃないか
堀の底に降りられる城跡はそうないんじゃないか
ところで、実際にここに来るまで、いざ戦となったら深さ2~3mの堀なんて役に立つのかよ、と思っていた。でも、実際自分が堀の底に立ってみて、少しでも段差のあることの重要性が分かった。これは登ってる間に上から射られるわ。
こりゃ大変だ
こりゃ大変だ
世田谷城趾公園部分は手入れが行き届いているけど、城趾としてはほんの一部で、大半は民家が建っていたり立入禁止の雑木林になったりしている。そして、そういったところは手つかずで、当時の面影をより残している気がした。
金網の奥は鬱蒼としていて、この方が当時の雰囲気に近いような気がする
金網の奥は鬱蒼としていて、この方が当時の雰囲気に近いような気がする
立入禁止部分を公園の外から見ると、住宅地の中に手つかずの城跡が残る
立入禁止部分を公園の外から見ると、住宅地の中に手つかずの城跡が残る
世田谷城は、室町時代にこの地にやってきた吉良氏によって築かれた。吉良氏とは言っても、忠臣蔵でおなじみの吉良上野介の家系とは遠戚で、直接の先祖ではないらしい。ちなみに太田道灌とは同盟を結んでいて、豊島氏との戦いにも協力している。

世田谷城の最後は、天下統一目前の豊臣秀吉による北条氏攻めで小田原城が陥落すると、北条氏についていた吉良氏は世田谷城を放棄して敵前逃亡。その後家康が江戸城を改修するときには資材に使われるなど、散々な目に遭っている。

続いて、同じ世田谷区内に、世田谷城の支城があったというので見に行ってみた。

奥沢城趾

世田谷城からいろいろ乗り継いで、東急大井町線の九品仏駅で降りた。この駅前から参道が伸びる九品仏浄真寺、ここが世田谷城の支城である奥沢城があった場所だ。

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自由が丘の隣に城跡があったなんて
城跡にお寺を開山したらしい
城跡にお寺を開山したらしい
並木の続く奇麗な参道を抜け、立派な門をくぐって境内に入ると、通路から少しはずれたところに高さ1m程度の盛り土があった。もう分かる。これが奥沢城の土塁だったのだろう。
分かりにくいけど中央奥がこんもり盛り上がっている
分かりにくいけど中央奥がこんもり盛り上がっている
やっぱり!
やっぱり!
敷地の中を見回すと、土塁はかなり状態を保っていて、境内の中を四角く囲っているようだ。1辺が50mちょっと程度なので、城として考えるとそれほど大きなものではなかったと思う。ともあれ、当時の人々が一生懸命土をかき上げて造った地形が、いまもこうしてはっきり見てとれるのは本当におもしろい。
奥を横切っている盛り土が土塁の跡
奥を横切っている盛り土が土塁の跡
この老木は城だった頃を知っているのだろうか
この老木は城だった頃を知っているのだろうか
何となく寺のまわりを一周してみたら、北側は土地が低くなっていて、そこを通る道が明らかに暗渠だった。きっと城があった当時は天然の堀の役目をしていたんだろう。その当時の景色をどうにかして見ることはできないものか。
これは明らかにもともと川だった道!
これは明らかにもともと川だった道!
奥沢城も、世田谷城と同じく江戸時代の声を聞くことなく滅亡している。もし現代まで残すとしたら、日本の歴史のどの時点をどう動かせばよかったのだろう。
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赤塚城趾

築城素人が見ても、ここに城を造らずしてどこに造る、という地形の城跡が板橋区にあった。都営三田線の終点、西高島平駅から徒歩10分程度の場所にある赤塚城趾である。

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団地街は城下町だった
いまは赤塚公園となっている赤塚城趾
いまは赤塚公園となっている赤塚城趾
赤塚公園は平坦な公園と小高い丘で形成されている。この丘が、傾斜が急な割に上部が平らで、まさしく城を造るために生まれた地形、と言っても過言ではないのだ。

平坦部分は釣りのできる池があって、なんとこれが赤塚城の堀の跡らしい。ホントかな?
公園の小さな池では珍しく多くの人が釣り糸を垂れている
公園の小さな池では珍しく多くの人が釣り糸を垂れている
後ろを振り返ると、円墳のような形をした丘がそびえている。この上に城を造ったら強固な防御力を発揮するだろう。
これほど「小高い丘」という言葉が似合う丘もそうない
これほど「小高い丘」という言葉が似合う丘もそうない
遊歩道の階段があるので、さっそく登城してみよう。
昔はどんな道だったんだろう
昔はどんな道だったんだろう
本気の急階段で息が上がる
本気の急階段で息が上がる
息を切らしながら階段を登って、丘の上に出た。赤塚城の本丸があったとされる場所だ。

あれだけ険しい道を登ってきたので、丘の上もさぞかし起伏のある城跡かと思ったら、思わず拍子抜けするような光景が広がっていた。
真っ平らな広場だった
真っ平らな広場だった
赤塚城趾と書かれた石碑
赤塚城趾と書かれた石碑
木が邪魔だけど眺めはいい
木が邪魔だけど眺めはいい
丘の上は真っ平らな広場だった。大きさはちょうどサッカーグラウンド1面分くらい。

これが自然にこうなっていたのか、城を築くにあたって整地したのか分からないけど、ここならそうとう守備力の高い城が造れそうだ。

この城を造った千葉氏も太田道灌に協力して豊島氏滅亡に一役買っている。しかし、その後は家庭内のゴタゴタで没落、後に北条支配下になった赤塚城も、秀吉の小田原城攻めの後で廃城になったらしい。

せっかくいいロケーションに恵まれているのに、運も機会もなく、実力を発揮することができなかった悲運の城と言えるかも知れない。もっとも、何万人もの豊臣軍とかに囲まれたらなす術ないと思うけど。

志村城趾

この赤塚城にも支城があった。それが都営三田線で西高島平から5駅、志村三丁目駅前の山の上にあった志村城である。

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高架の地下鉄と高速道路に挟まれた城跡
駅を降りるとすぐに登り口がある
駅を降りるとすぐに登り口がある
はんぱない急坂
はんぱない急坂
駅を出て少し歩くと目の前に崖が迫る。その崖の縁に張りつくように、ものすごい急坂が伸びていた。何とか登り切ると、そこは熊野神社。この神社のある山は城山と呼ばれていて、境内が志村城の跡らしい。
山の上の神秘的な神社
山の上の神秘的な神社
参道に城跡を示す石碑が建つ
参道に城跡を示す石碑が建つ
何か痕跡はないかと裏手にまわってみたら、木々の間から社の建物が姿を現して、ひょっとして城があった当時はこんな光景だったんじゃないか、という気がした。
室町時代にタイムスリップしたかのような光景
室町時代にタイムスリップしたかのような光景
資料を調べたところ、実はこの神社の境内は二の丸だったところで、本丸は隣の敷地らしい。そしてその間に堀の跡が現存していた。
ほとんど手つかずの堀の跡
ほとんど手つかずの堀の跡
そして現在本丸跡に建っているのはこれ
そして現在本丸跡に建っているのはこれ
やはり秀吉による北条征伐の後に廃城となった本丸跡には現在、ものすごく巨大なマンションが建っている。崖下からもエレベーターが直通しているようで、何というか、諸行無常を感じさせる変貌ぶりである(変貌前知らないけど)。
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葛西城趾

今回、最後にやってきた滅亡城跡は葛西城趾。葛西とは言っても江戸川区ではなく、葛飾区の青戸駅の近くである。

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環七通りが城趾を貫いている
正面の信号の先が城跡...らしい
正面の信号の先が城跡...らしい
青砥駅から徒歩15分くらい。駅から遠い割には、今回観てまわった中でいちばん痕跡が少ない。少ないというか、まったくない。何しろ城跡の上を環七通りが真っ直ぐ貫いているのだ。

唯一、雰囲気を味わえるものとしては、環七の内回り側も外回り側も、ちょうど城跡部分が公園になっていること。それぞれ御殿山公園、葛西城址公園というそれっぽい名前で、何の手がかりもない城跡めぐりで少しだけテンションを上げてくれる。
道幅も少し広がっている
道幅も少し広がっている
飛び石は果たして城レコメンドの結果なのか
飛び石は果たして城レコメンドの結果なのか
このちょっとした盛り上がりが何かの跡ということはないのか
このちょっとした盛り上がりが何かの跡ということはないのか
殿が一服した場所が残っていた!(嘘)
殿が一服した場所が残っていた!(嘘)
葛西城は、最初に出てきた豊島氏の流れを汲む葛西氏が築いた城で、その後紆余曲折しながら最終的には北条氏の手に落ち、豊臣軍によって小田原城などと同時期に攻め落とされた。

御殿山公園の隣に建つマンションは葛西城本丸という名前が付けられていて、ちょと縁起悪くないかと心配になってしまう。
最終的には落ちたけどいいのかな
最終的には落ちたけどいいのかな
今回見てまわった城跡、1世紀前の室町時代に滅んだ豊島氏の城以外はすべて豊臣秀吉の北条征伐で滅んでいる。豊臣軍の東上によって、関東では大規模な隕石が落下したような影響が出たということだ。

最初に痕跡はまったくないと書いたけど、現地の看板にあった水堀の地図と現在の地図を比べると、水堀のあったあたりに細い路地があって、ひょっとしたら路地の幅とか曲がり具合が水堀の痕跡を現代に残しているかも知れない。てきとうな予想だけど、もしかして...と思うと興奮する。
水堀が張りめぐらされていたらしい
水堀が張りめぐらされていたらしい
ちょうど堀のあったあたりにある路地
ちょうど堀のあったあたりにある路地
城跡の西側には中川が流れていて、城があった当時から防衛ラインに使われていたらしいので行ってみた。
橋が架ない当時は果てしない大河だっただろう
橋が架ない当時は果てしない大河だっただろう
城のあった方を振り返ると、ちょうど夕日が落ちるところだった。
さようなら落日の城たち
さようなら落日の城たち

がんばって生き抜こう

今回、すべて落城したり廃城になったり、江戸時代以前に儚く滅亡した城ばかり見てまわった。

既に城がなくなってから数百年経っているにも関わらず、地形だったり伝説だったり、何らかの形で痕跡が残っているのはすごいと思った。しかし最終的には豊臣秀吉に滅ぼされ、その豊臣家は秀吉の死後、徳川家康にひっくり返され、結果的に城が滅んだことに意味がなくなってしまった。

何が言いたいかというと、希望を胸に新生活をはじめる皆さんにおかれてましては、何事においてもとにかく勝つ方を見極めろ、そして勝つ方につけ、ということを肝に銘じたらいいんじゃないかと思う。
城跡見るたびに信長の野望全国版の大名が死んだビープ音が流れていた
城跡見るたびに信長の野望全国版の大名が死んだビープ音が流れていた
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