田舎館村は「田んぼアート」も有名だ
世間的に田舎館村は水田をキャンパスに見立てて様々な図柄を描く「田んぼアート」の村として知られているようだ。
しかしそれも元は垂柳遺跡に関連して作付けされた古代米に着想を得て、古代米の紫色と黄色、それと一般的な稲の緑色の3色で絵を描いてはどうかと発案されたという。
垂柳遺跡から田んぼアートや土器カレーなど、様々なアイディアを膨らませつつ町おこしを頑張っている感じが伝わってきて、なんともほっこりさせられた。
先日、青森県の田舎館(いなかだて)村を訪れた。国の史跡に指定されている垂柳(たれやなぎ)遺跡を見に行ったのだが、そこには「弥生人の足跡」と「土器カレー」があったのだ。
田舎館村は青森県の西部に広がる津軽平野に位置している。江戸時代に津軽藩の中心地であった弘前市の東側に隣接する村だ。
今回の目的である「垂柳遺跡」は田舎館駅の南西側に位置している。遺跡まで最短距離の道路を歩いていくと、雪原の中にポツンとたたずむ標識があった。
訪れたのは3月の初旬であるが、雪国なだけあってまだまだ多くの雪が残っていた。おかげで垂柳遺跡は一面の雪原である。
私は北側から遺跡にアクセスしたのだが、国道102号線を挟んだ南側には説明板があるようだ。地図では南北に道路が通っているのでこれをたどれば南側に出られるかと思いきや、そこには雪国ならではの洗礼が私を待ち受けていた。
集落から外れたこの辺りは、水田が広がる農業地帯である。故にこの道路はトラクターや田植機が通るための農道であり、当然ながら農業を行わない冬には除雪する必要などまったくないのだ。
このうず高く積み上がった雪は、集落内の路地を除雪したその捨て場ということなのだろう。
ズボズボと沈み込む雪に足を取られつつ、なんとか乗り越えて南側に周りこんだのだが、これが結構な運動になって汗をかいた。
この説明板によると、垂柳遺跡は東北地方北部において初めて弥生時代の水田が確認された遺跡とのことである。
寒冷な土地である津軽平野で稲作が行われていたかどうかについてはかつて様々な論があった。北海道のように稲作が根付かず、縄文時代と同じような狩猟採集の生活が続いていたと考える学者もいた。
そのような中、昭和56年(1981年)に国道102号線のバイパス化工事においてこの垂柳遺跡が発見されたことで、津軽平野で稲作が行われていたことが証明されたのだ。
さらにその後には、弘前市の砂沢遺跡から弥生時代前期の水田が発見されており、弥生時代のかなり早い時期に津軽平野にも稲作が伝わっていたことが分かっている。
現在も津軽平野には水田が広がっているが、それは弥生時代から連綿と続けられてきた営みだったのだ。
垂柳遺跡の近くにある田舎館村埋蔵文化財センターには、遺跡から出土した水田や遺物が展示されている。
弥生時代と言われても、あまりに昔すぎて漠然とイメージするしかないのだが、こうして当時の人々が生活していたリアルな痕跡を見せられると、その存在が確かに感じられるというものである。
こうして見ると、水田の畝や足跡などがハッキリ残っていることに驚かされる。これは洪水による土砂で一気に埋もれたことにより、当時の水田の状態が丸ごとパックされて残ったのである。
田舎館村埋蔵文化財センターには道の駅が隣接しており、そこにあるレストランでは「土器カレー」を食べることができる。
その文字通り、垂柳遺跡から出土した土器をモチーフにしたお皿に盛りつけられたカレーである。
土器をモチーフにしたざらっとした触感の皿のみならず、米も紫色の古代米を使用しておりこだわりが感じられる。ブロッコリーやポテトの付け合わせも嬉しい。
これで普通のカツカレーと同じ800円なのだから、頼まない手はないというものだ。なお1日30食限定とのこと。
世間的に田舎館村は水田をキャンパスに見立てて様々な図柄を描く「田んぼアート」の村として知られているようだ。
しかしそれも元は垂柳遺跡に関連して作付けされた古代米に着想を得て、古代米の紫色と黄色、それと一般的な稲の緑色の3色で絵を描いてはどうかと発案されたという。
垂柳遺跡から田んぼアートや土器カレーなど、様々なアイディアを膨らませつつ町おこしを頑張っている感じが伝わってきて、なんともほっこりさせられた。
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