田内城豆知識
というわけで、天守は現存していました。いやー、よかった、よかったぁ……で、終わってもいいんだけれど、田内城の歴史をまったく紹介しないのもアレなので『うわなだ子ども風土記』を参考にその歴史をざっと振り返ってみたい。
実は、この地に田内城を作ったのは、上野国新田庄山名郷(現在の群馬県高崎市山名町)出身の山名時氏(やまなときうじ)という武将だ。この、山名という名字は地名からとったもので、もともとは新田氏の一族だった。
応仁の乱の西軍大将として有名な山名宗全は時氏のひ孫であり、『信長の野望』で、鳥取あたりを治めていることになっている戦国大名の山名豊国は、時氏の子孫だ。
山名時氏(栗原信充 [画]『肖像集』1,写,[江戸後期]. 国立国会図書館デジタルコレクション)
時氏は、足利尊氏が室町幕府を作った頃、尊氏から伯耆国(ほうきのくに・現在の鳥取県西部)を褒美としてもらい、伯耆守護に任ぜられこの地にやってきた。田内城はそのころ(1337年ごろ)に守護所として作られたと考えられている。
田内城の近くにある山名寺(やまなじ)にある山名時氏の墓。時氏は、伯耆を足がかりに、隠岐(隠岐島)、因幡(鳥取県東部)、丹波(京都府中部)、若狭(福井県西部)などの守護にも任ぜられ、その後「六分一殿(日本の六分の一を支配している)」とまで言われた山名一族隆盛の礎をつくった
時氏の息子の代になると、守護所は田内城より南にある打吹山(うつぶきやま)に築かれた打吹城に移り、田内城は室町時代初期には廃城となっている。
が、戦国時代ごろまで打吹城の出城として使われていた形跡はあるという。(ウィキペディア情報)
田内城と打吹城の位置関係。まったく関係なくて申し訳ないけど、田内城と打吹城のちょうど真ん中のあたりにある中学校に通っていました
すぐ目前には小鴨川(おがもがわ)や国府川(こうがわ)という自然の堀があるうえ、水運にも恵まれたこの場所は、見日千軒(みるかせんげん)と呼ばれる大きな城下町が発達したらしい。しかし、この城下町は戦国時代(1544年)の大水ですべて流されてしまったという伝説がある。
ここに城下町があったとは思えないんですが、あったそうです
そして、時代はぐぐ−っと下り昭和時代末期の1987年ごろ。宝くじの収益金を元手にした「昭和61年度自治宝くじ助成事業」の助成金により、田内城跡に2層の田内城が建設された。
もちろん、山名時氏の時代に作られた守護所にこんな天守はなかったと思われるが、田内城ふもとの上灘(うわなだ)地区の人たちが昔の城を偲んで建設した……と、当時の倉吉市報に書いてある。
田内城完成時、当時の西尾知事も田内城を訪れたとあります。田内城完成イベントで小学生が飛ばした風船が兵庫県まで届き、文通が行われた……というエピソードもあった
華々しく作られた模擬天守の田内城だが、地元の城好き少年を大感動させるなどしたのち、しばらくは夜にライトアップなどもしていたが、現在は地震で被害を受け、そのまま……という状況だ。
よく見たら「昭和61年度自治宝くじ助成事業」の杭が無造作に打ち捨てられていました
兵どもが夢の跡……さすがの宝くじ助成事業も、ランニングコストまで捻出するのは厳しかったのかもしれない。
ボロボロだけど天守は現存はしてる
というわけで、田内城。周りからは見えなくなっているうえに、ボロボロではあるものの、現存はしている。
思い出の城が無くなったわけじゃないのはよかったものの、大穴があいているのはなかなかのショックだった。
ふもとの岩阿弥陀釈迦堂とともに、なんとか復旧されるといいのだけれど。なかなか難しいんだろうな……。
〜以下余談〜
おそらく、このときヤブを歩いたタイミングで足をマダニに咬まれていた。(写真自粛します)
ピンセットでなんとか引っこ抜いたものの、口吻が残っていたっぽく、皮膚科に行ったら、パンチメスというストローみたいなメスでマダニが噛んだ箇所の組織を丸ごと切り取られふた針縫うという手術を受けた。
みなさんも山道を歩くときは、マダニに気をつけなはれや!
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編集部からのみどころ
思ったより小さいお城で可愛かったです。
幼少期の思い出の場所を大人になってから見て「思ったより小さい!!」と思うのってあるあるじゃないですか。もちろん僕は幼少期にこの城を見たことはないんですけど、城を見て「思ったより小さい!!」という気持ちを抱いたことによって、西村さんと体験がシンクロした感じがあって面白かったです。(石川)