「昔の◯◯をやってみた」系の作業は、だいたい最終的には昔の人の気持ちがわかるものだが、今回は最後まで何もわからなかった。完全敗北である。
「もともとニッチな見方なので情報が少なかった」「菊に詳しい人に先に話を聞くべきだった」などいろんな敗因があるが、一番は大きかったのは
私の感受性が下から花を愛でるまでに至ってなかった」ということだろう。
もっと花に接していけば、いつかは江戸人の気持ちがわかるのかもしれない。諦めずにいつかまた再チャレンジしてみたい。
場所を植物園にしたのは「いろんな形の花があっていいかな」と思ったからだが、実際行ってみたらいろんな形の花しかなかった。
植物園は花の多様性を見せつけてくる場所なので、「そもそも花なのか?」という花しかない。
しかも、南国をメインにした植物園だったことも災いし、奇想天外な花ばかりを見ることになった。
トリッキーな花に囲まれ絶望が広がる中、可憐なかわいい花を見つけた。
かわいい花もそうでない花も平等に下から見てみたが、特にグッと来るものはなかった。
別に悪くもないが、よくもない。なんの感情も湧いてこないのである。
たくさん見るうちに気づいたのが「下から見る以前に、そもそも我々は花を見ることにグッと来ていないのではないか」ということである。
花見は花より団子のマインドで楽しんでいるし、花を見て癒やされたことも特にない。
「下から花を見る」とは、普段から花を愛でている花ファンの一周まわった楽しみ方であって、初心者には向いていないのではないか。
何十種類もの花の「下」ばかりを見て皆の士気も下がってきたころ、かなりいい感じの花を見つけた。
花を見る感受性を、極限までなくしてしまった現代人でも下から楽しめる花が現れた。
一度きれいに花が見えると、だんだん「もしかしてこの花もきれいかも?」という気持ちが湧いてくる。
どんな花でも「360度どこかにきっときれいに見えるポジションがあるはずだ」と思って眺めてみると、見つけたときに「ここか!」となって盛り上がれる。
花はそのままで楽しめるものではない。全力で楽しもうとする気持ちを持って初めて楽しめるものなのだ。
現代人の我々も、「絶対に下から見た花をきれいだと思ってやる」と決意すれば、下からの花見を楽しめるのかもしれない。
「昔の◯◯をやってみた」系の作業は、だいたい最終的には昔の人の気持ちがわかるものだが、今回は最後まで何もわからなかった。完全敗北である。
「もともとニッチな見方なので情報が少なかった」「菊に詳しい人に先に話を聞くべきだった」などいろんな敗因があるが、一番は大きかったのは
私の感受性が下から花を愛でるまでに至ってなかった」ということだろう。
もっと花に接していけば、いつかは江戸人の気持ちがわかるのかもしれない。諦めずにいつかまた再チャレンジしてみたい。
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